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第七部 印刷工ヴィクトルと、地下の国の話 ② 〜印刷工〜

 ヴァルガスは、城壁のない町だった。


 古い城壁があった跡は残っている。


 だが今は、門の柱だけが残り、その間を馬車と人が自由に行き来していた。


 石造りの家が低く連なり、屋根は赤茶色の瓦。


 街路は狭い。


 狭い街路の奥に、紙問屋、活字鋳造屋、古本屋、鉱石仲買の看板が並んでいる。


 町全体に、紙と油と金属の匂いがあった。


 戦場の血の匂いではない。


 鉱山の粉塵の匂いでもない。


 言葉を作る町の匂いだった。


 ただし、言葉を作る町は、たいてい言葉を隠す町でもある。


 看板に出せる言葉と、床下で刷る言葉は違う。


 俺たちは、北門跡に着いた。


 そこには男が一人、古い荷車にもたれていた。


 四十代。


 灰色の帽子。


 茶色の上着。


 背は高くない。


 右手の指先が、青かった。


 爪の奥まで、青いインクが染み込んでいる。


 男は俺たちを見て、口の端だけを上げた。


「派手な傭兵と、丁寧な家令。ずいぶん分かりやすい組み合わせだな」


「初対面で分類されるの、最近流行ってるのか」


「この町では、分類できない人間から死ぬ」


「それ、冗談か」


「半分は冗談だ。残り半分は、請求書に書いてある」


「何の請求書だよ」


「紙代、インク代、沈黙代、逃走経路使用料。地下で生きるにも経費がかかる」


 男は荷車の上から紙束を一つ持ち上げた。


「ヴィクトル・コヴァチ。印刷工だ」


「レオン。傭兵だ」


「リューリック、と申します」


「知っている」


「何故ご存じで」


「名前は、本人より先に流れることがある。良い名前も、悪い名前もな」


 ヴィクトルは、俺たちの背後を一度だけ見た。


「尾けられている」


「知ってる」


「では、手伝え」


「何を」


「荷車を押せ」


「初対面で使い方が雑だな」


「派手な傭兵は、荷車を押しても目立つ。目立つなら、こちらで使う」


「俺、囮か」


「そうだ。隠すと後で揉めるから、先に言った」


「正直に言えばいいってものでもないだろ」


「嘘をつくにはインクがもったいない」


 ヴィクトルは荷車の前を指した。


「今から印刷所へ行く。あんたは荷車を押せ。丁寧な家令は、横で紙束を押さえろ」


「家令の家系の副業の本義として、紙束の保持は可能でございます」


「いい返事だ。うちに欲しい」


「待て。俺はまだ納得していない」


「納得は印刷後でいい。印刷前に納得している者は、だいたい官憲に捕まる」


「この町、会話が全部面倒だな」


 俺は結局、荷車を押した。


 ヴィクトルが前を歩く。


 リューリックが横で紙束を押さえる。


 紙束は重い。


 紙は軽いはずなのに、まとまると重い。


 言葉も、たぶん同じだ。


 ひとつひとつは軽い。


 だが、束になると人を動かす。


 そして、束になりすぎると、人を殺す。



 ◇



 印刷所は、古い紙問屋の奥にあった。


 表は普通の店だった。


 紙束、帳簿、領収書、荷札、教会の祈祷紙。


 店番の老婆が、俺たちを見るなり、深いため息をついた。


「ヴィクトル。また変なのを拾ったのかい」


「拾っていない。借りた」


「返す相手はいるのかい」


「たぶん、いない」


「それを世間では拾ったと言うんだよ」


 老婆は俺をじろりと見た。


「派手だね」


「今日だけで三度目だ。そろそろ俺の名前を派手に改名した方がいいのか」


「名前を変えても、顔と歩き方が派手なら意味がないよ。奥へ押しな」


 奥の戸を抜けると、空気が変わった。


 紙と油。


 鉄と木。


 乾いたインク。


 天井は低く、窓は小さい。


 壁際に活字棚が並び、中央に大きな手回し印刷機が置かれていた。


 黒い鉄の骨組み。


 木の台。


 圧をかけるための長い把手。


 機械というより、檻の中に寝ている獣のようだった。


 その横に、細かな金属片がいくつも並んでいる。


 活字だった。


 ひとつひとつに文字が逆向きに彫られている。


 俺は、その中の一つをつまもうとして、足元の箱に引っかかった。


 がしゃん。


 活字が床に散った。


 ヴィクトルが振り返った。


 店番の老婆も振り返った。


 リューリックは、完全に止まった。


「……すまん」


 俺は素直に言った。


 ヴィクトルは、ゆっくりと目を閉じた。


「いま床に落ちた活字は、明日の朝刊の見出しだ」


「朝刊?」


「表向きの商報だ。鉱石相場、葬儀案内、赤子の出生、結婚、逃げた豚。全部載る」


「逃げた豚も?」


「豚が逃げると、町は困る。人間より真面目に探されることもある」


「それはそれで嫌だな」


「その見出しが、いま床に散った。拾え」


「はい」


 俺は床に膝をついた。


 活字は小さい。


 しかも逆向きだ。


 どれがどの文字なのか分からない。


 拾っているうちに、指先が青黒くなっていった。


 インクがまだ残っている。


「レオン、それは違う箱だ」


「どれも似ているだろ」


「似ている文字ほど、違う箱に入れると印刷後に泣くことになる」


「泣くのは俺か」


「読者だ。読者を泣かせるのは、悲劇だけでいい。誤植で泣かせるな」


「印刷工の説教、地味に重いな」


 リューリックが、無言で膝をついた。


 そして、散らばった活字を、驚くべき速度で分類し始めた。


 文字の向き、欠け、太さ、行間の金属片。


 彼は一度見ただけで、すべてを正しい箱へ戻していく。


 ヴィクトルの目が変わった。


「丁寧な家令」


「はい」


「なぜ分かる」


「銀器の刻印整理と、古い帳簿の索引作成で、似たような作業を多く経験しております。家令の家系の副業の本義として、分類は生活そのものです」


「銀器の刻印整理で活字を覚えるな」


「分類は分類です」


「……うちで働かないか」


「主君の矯正が終わりましたら、前向きに検討いたします」


「それは一生終わらないな」


「左様で」


「おい、二人で俺の人格矯正を不可能事業にするな」


 俺が文句を言った瞬間、棚の上のインク壺に肩が当たった。


 青いインクが、俺の顔にかかった。


 額から頬へ、ぬるりと流れる。


 静寂。


 そして、老婆が笑った。


 次にヴィクトルが笑った。


 最後にリューリックが、笑わないまま言った。


「殿下、たいへんよく染まりました」


「笑ってるだろ、お前」


「いいえ。表情筋は笑っておりません」


「魂が笑ってるんだよ」


「魂の表情までは、家令の家系の副業の本義でも管理いたしかねます」


 ヴィクトルは腹を抱えて笑った。


「青いインクに選ばれたな、派手な傭兵」


「選ばれたくなかった」


「選ばれる時は、たいてい本人の都合を聞かない」


 俺は顔を拭いた。


 青いインクは落ちない。


 頬に薄く残った。


 鏡を見ると、俺の顔は、片側だけ妙に革命的だった。


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