第七部 印刷工ヴィクトルと、地下の国の話 ① 〜青いインク〜
国は、地上にしかない。
旗を立てるには、風が要る。
城壁を築くには、空の下に石を積む必要がある。
法は広場で読まれ、判決は庁舎で下され、税は市場から集められる。
だから国は、いつも地上に顔を持つ。
だが、人は地下にもいる。
坑道の奥。
印刷所の床下。
酒場の裏口。
閉じられた井戸。
祈りのふりをした地下室。
国家に名前を消された者たちは、地上に住めなくなると、地下へ降りる。
そして地下で、もう一度、名前を刷る。
紙に。
壁に。
誰かの記憶に。
ヴァルガスという町には、そういう地下があった。
イタリカ共産国北西部。
カラドリン山岳王国との国境に近い、古い印刷と鉱石仲買の町。
表向きは、紙問屋と石材商と小さな酒場の並ぶ商業町。
裏では、鉱山労働者、逃亡奴隷、反帝国派、革命に失望した者、革命をまだ諦めていない者が、互いに見ないふりをしながら交差していた。
そこで俺たちは、ヴィクトル・コヴァチという印刷工に会った。
四十四歳。
背は高くない。
右手の人差し指が少し曲がっていて、爪の奥には、洗っても落ちない青いインクが染み込んでいた。
彼は言った。
地下は、国家ではない。
でも、人は、そこにもいる。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ただの傭兵。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、惚れた相手や厄介な相手から荷物を受け取って、懐を勝手に重くすること。
この町では、俺は新しいヒロインに惚れなかった。
かわりに、活字を踏み、インクを顔に浴び、監察官に冷たい目で見られ、地下の国という言葉を胸に入れた。
そして、また一つ、青いものを懐に入れた。
青いインクのにじんだ、小さな活字だった。
◇
ガリレオを出て、西へ三日。
街道は少しずつ細くなっていった。
カステリオやガリレオの黒い粉塵は薄れ、代わりに乾いた石と、古い羊皮紙のような匂いが風に混じるようになった。
カラドリン山岳王国の稜線が、北西に近づいている。
山は青黒い。
山肌には、ところどころ白い石脈が走っていた。
その下を、荷馬車が何台も行き交っている。
鉱石、羊毛、紙束、酒樽。
運ばれるものは多い。
だが、街道の空気は軽くない。
ガリレオで三日止まった坑道の分まで、どこか別の町が働かされている。
そう考えると、どの馬車の車輪の音にも、地下の軋みが混じって聞こえた。
「殿下、ヴァルガスまで、あと半日ほどです」
リューリックが、馬の首筋を撫でながら言った。
「お前は、道を覚えるのが早すぎる。俺なんか、昨日の宿の井戸の位置すら怪しいぞ」
「殿下の場合、井戸をお探しになる途中で、なぜか女性の私的領域へ向かわれる傾向がございます」
「その話は未記録扱いだろ」
「未記録扱いでございます。ただし、行動分類上は極めて重要ですので、私の内部資料には残っております」
「内部資料も燃やせ」
「家令の家系の副業の本義として、主君の事故傾向は保存対象でございます」
「事故傾向って言うな。俺はあの夜、水を探していただけだ」
「井戸は反対側でした」
「心の水を探していたんだ」
「カミラ監察官に同じ弁明をなさった結果、殿下の頬に小さな革命が発生しました」
「お前、言い回しだけは上手いな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
俺は頬を軽くさすった。
カミラに殴られた痕は、もう見た目には消えている。
だが、触ると少しだけ痛い。
痛いのは、たぶん頬ではない。
国家を信じて疑う女の言葉が、まだそこに残っている。
国家は、信じてくれる者から先に使う。
国を失った俺にとって、その言葉は、革袋の中の馬蹄鉄よりも音がしなかった。
音がしない分、重い。
そんなことを考えていると、リューリックが道の脇を見た。
「殿下、尾行です」
「またか。俺たち、旅をしているのか、尾行者を集めているのか分からなくなってきたな」
「殿下は目立ちますので」
「俺は地味な傭兵を目指している」
「傷、女縁、逃げ癖、王族臭。総合的に見て、かなり派手でございます」
「最後のやつは隠してるだろ」
「隠しきれていないので、派手なのです」
俺は振り返らなかった。
振り返ると、相手に気づいたと知らせることになる。
リューリックの声だけで、だいたい分かる。
相手は一人か二人。
馬は使っていない。
足音が軽い。
地元の人間ではない。
地元の人間は、この石の道をもっと重く歩く。
「青銅の目か」
「まだ判断できません」
「青いインクか」
「それも、まだ判断できません。ただ、こちらを殺す歩幅ではありません」
「殺す歩幅って何だよ」
「背中ではなく足元を見ている歩幅です。情報を渡す者は、たいてい相手の顔より退路を見ます」
「お前、たまに怖いな」
「家令の家系の副業の本義として、足音と歩幅は重要でございます」
リューリックは、わずかに馬の歩調を落とした。
俺も合わせた。
尾行者との距離が少し縮む。
その瞬間、右手の藪から、石が一つ飛んできた。
狙いは俺ではない。
足元だ。
石は街道に当たり、からん、と乾いた音を立てた。
その石には、紙が巻かれていた。
リューリックが馬を止め、紙を拾った。
薄い紙。
青いインクで、短く書いてある。
──派手な傭兵は、昼に北門へ。
俺は紙を見た。
「派手な傭兵って、やっぱり俺か」
「殿下以外に該当者が見当たりません」
「リューリック、お前は派手じゃないのか」
「私は丁寧な方です」
「自分で言うな」
「周囲からも、そのように分類されがちでございます」
紙のインクは、普通の黒ではなかった。
濃い青。
乾いたあとも、わずかに光を吸う。
青いインク。
それは、この町で初めて目にする色だった。
ヴィクトルという印刷工の名前。
ガリレオで預かった坑道地図の先にありそうな、まだ名前のない地下の気配。
まだ、全部は繋がっていない。
ただ、俺たちはもう、その青い線の上に足を置いていた。




