第六部 助産婦リータと、止められない坑道の話 ⑥ 〜生まれ直し〜
その夜、刺青の男は戻ってこなかった。
地図は、リータの薬瓶の裏に残ったままだった。
翌日、もう一度待った。
もう一日、待った。
戻ってこなかった。
リューリックが、リータに低く言った。
「お預かりいたします」
「いいの?」
「いずれ追うかもしれません。だが、今は追いません」
「追わないなら、なぜ預かる」
「追わないが、覚えておくためです」
「……」
「この地図、ハンナ姐さんに、いつか見せるかもしれません。彼女の息子が最後に降りた坑道に繋がっていますから」
「……」
リータは、しばらくリューリックの目を見た。
それから、地図をリューリックの手に渡した。
古い、薄い紙だった。
革袋にしまう。
革袋の中で、紙は音を立てなかった。
音を立てない荷物ほど、あとで重くなる。
◇
三日後。
俺とリューリックは、ガリレオを発つ準備をしていた。
鉱山は、まだ止まっていた。
支柱の点検が行われている。
雇い主は警備の契約を終わらせた。
「すまんな」
「ああ」
「この町は鉱山が止まれば、警備はいらん」
「分かってる」
給金を受け取った。
日当七枚かける九日。
銅貨、六十三枚。
俺の懐はわずかに重くなった。
ただし、馬蹄鉄ほどではなかった。
助産院の戸口。
リータが立っていた。
白いエプロンは新しいものに替わっている。
血はついていなかった。
「行く」
「ああ、行きな」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「リータさん」
「うん?」
「三日止めても、また動き出す」
「うん。三日では何も変わらない」
「それでも、座ったか」
「そうだ。座らないと、何も始まらないからね」
「……」
「あんたの相棒の、家令の家系の方が預かった地図。いつか、何かになるかもしれない」
「かもしれない」
「ハンナ姐さんに、もし会ったら伝えてほしい」
「うん?」
「ガリレオの坑道は、まだ繋がってる、と」
「……ああ」
「それから」
リータが、ポケットから何かを取り出した。
小さな白い布。
産湯に使う布の切れ端だった。
俺の手に押し付ける。
「お守りか」
「ちがう。生まれた時、最初に肌に触れる布だ」
「……」
「死にかけて、また生きる時、人間は少しだけ生まれ直す」
「俺は、よく生まれ直してるな」
「そうだね。あんたは、だいぶ忙しい赤ん坊だ」
「二十八歳の赤ん坊は、だいぶ嫌だな」
「手のかかる赤ん坊は、年齢に関係ない」
リータは静かに笑った。
「助産婦は、生まれてくる命と、死ぬ命を、両方見届ける。でも、死にかけて、また生きるのを見るのが、一番好きだ」
「……」
「だから、また生まれ直しに戻ってきな」
「ああ」
「その時は、ちゃんと医者のいる時間に来るんだよ」
「善処する」
「善処じゃない。実行しな」
「最近、女たちに実行しろと言われる回数が増えた」
「できてないからだろ」
「返す言葉がない」
リータは、布を俺の手の中に押し込んだ。
白い布は、軽かった。
軽いのに、手の中で消えなかった。
◇
町の外れで、カミラが待っていた。
監察官の馬車が一台。
護衛が二人。
カミラは、その前に立っていた。
灰色の上着。
短い黒髪。
左手首の烙印跡。
今日は、隠していなかった。
「行くのか」
「行く」
「次は」
「カラドリン国境近くの町。ヴァルガス、と聞いた」
「火種がある」
「だろうな」
「国家は、火種を消すために水をかける。だが、水をかけすぎると、人も流れる」
「監察官らしい言い方だな」
「監察官だからな」
カミラは、俺の頬を見た。
腫れは少し引いている。
「まだ痛むか」
「国家による物理的制裁として、記憶に残っている」
「なら、役に立った」
「ひどい女だ」
「昨夜の件は、議題にない」
「だから何も言ってない」
「顔が言う」
「俺の顔、喋りすぎじゃないか」
「騒音が多い」
カミラは、ほんの一瞬だけ目を逸らした。
その一瞬だけ、監察官ではない顔が出た。
すぐ戻った。
だが、俺には見えた。
見ないふりをした。
今回は、本当に見ないふりをした。
「レオン」
「うん」
「国家は、信じてくれる者から先に使う」
「……」
「だから、信じすぎるな」
「あんたは、信じてるだろ」
「信じている。だから、毎日疑っている」
「……」
「あんたが、どこの国でもないと言ったのは本当か」
「ああ」
「それは、寂しいか」
「寂しい。だが、それで息ができる」
カミラが、わずかに笑った。
今日、初めて笑った。
「いい答えだ」
「ありがとう」
「もし、いつか、どこかの国に戻るなら、私の言ったことを思い出せ」
「分かった」
「それから」
「うん?」
「女性の部屋を間違えるな」
「……努力する」
「努力ではなく、実行しろ」
「はい」
カミラは、それだけ言って馬車に乗った。
馬車は、町の中心へ戻っていった。
彼女はまだ発たない。
彼女には、三日止めた責任を、どこかで書かれる日が来る。
その時、彼女が何を書くのか、俺には分からなかった。
分からないが、彼女がまだ毎日疑っているうちは、たぶん、この国は完全には壊れない。
少なくとも、そう信じたかった。
◇
俺とリューリックは、街道に出た。
馬を引いた。
「次はどこだったか」
「カラドリン国境近くの町。ヴァルガス、と聞きました」
「お前、また情報を」
「酒場の坑夫の女将が教えてくれました。カラドリン側との火種が、また燻っている、と」
「お前、女将に好かれすぎだ」
「情報の坑道は、女将から掘り始めます」
「うるさい」
「左様で」
馬の歩みに合わせて、革袋がわずかに揺れた。
ハンナの馬蹄鉄の隣で、リータの白い布が音もなく揺れている。
リューリックの懐には、坑道の地図がある。
懐は、音のするものと、しないものの両方で重くなっていく。
セラのことは、まだ覚えていた。
ニーナの鎮痛剤の最後の一本。
マレーナの薬草袋。
ヴェラの止血粉と痛み止め。
ハンナの馬蹄鉄。
リータの白い布。
青銅の札。
坑道の地図。
それから、カミラの言葉。
国家は、信じてくれる者から先に使う。
「殿下」
「うん」
「お懐、また重くなりましたな」
「布の話か」
「いいえ。命の話でございます」
「……うるさい」
「左様で」
ガリレオの煙は、まだ立ち昇っていた。
ただし、いつもより薄かった。
俺は振り返らなかった。
リューリックも振り返らなかった。
街道の地平線の向こうに、山岳地帯の影が見え始めていた。
カラドリンの影だった。
そして、その影の下には、たぶん、また別の坑道が伸びている。
坑道は、止まらない。
だから、俺たちは次の町へ向かった。
止まらないものの先に、誰かが立っているなら、そこに行くしかなかった。
──第六部 了




