第九十八部 偽物は、本物より先に国境を越える話 ① 五つの国境へ向かう偽自白書と、届いた一枚の紙
カミラ・パヴェルの偽自白書は、本人の署名が入った医療記録より先に、五つの国境へ向けて出発した。
印刷所の床には、まだ乾き切らない紙が幾重にも並べられている。
同じ告白。
同じ署名。
しかし、見出しだけが違っていた。
イタリカ国内向けには、
――監察官、亡国王子と結託し革命政府転覆を企図。
ザクセル向けには、
――イタリカ監察官が人民蜂起への関与を認める。
グランデル帝国向けには、
――旧リュカリオン王子、東方革命運動へ介入。
ヴェルシャイン王国向けには、
――帝国に祖国を奪われた亡国王子、イタリカ政府に追われる監察官を支援。
カラドリン向けには、
――武器流出調査を担当した監察官、国外勢力への情報提供を自白。
一枚の文章から、五つの異なる物語が作られている。
「国内向けは、もう少し感情を強調してください」
サロメ・ヴァルガは、印刷台の上に置かれた初校へ赤い線を引いた。
「国家機密を漏らした、だけでは民衆は怒りません。男のために祖国を裏切った、とした方がよいでしょう」
印刷工が困惑した顔をする。
「しかし、カミラ・パヴェルは、そのような人物として知られていません」
「だから価値があるのです」
「信じてもらえるでしょうか」
「信じたい者が信じます」
サロメは、偽の自白書を読み上げた。
「私は亡国の王子レオン・ヴァン・リュカリオンへの私的な感情から、監察官としての責務を逸脱し――」
途中で止める。
「私的な感情、では弱いですね」
「では、恋情と?」
「露骨すぎます。監察官としての品位を残しながら、読者が勝手に想像できる言葉にしてください」
「個人的な執着、では」
「よいでしょう」
印刷工が活字を組み直す。
サロメは机の端へ腰を預け、五種類の見出しを眺めた。
「同じ文章なのに、国ごとに意味が違う」
若い書記が呟いた。
「同じ文章だからこそです」
「事実は一つではないのですか」
「事実は一つでしょう」
サロメは穏やかに答えた。
「しかし、人間は事実を読むのではありません。自分が恐れているものを読みます」
イタリカは裏切りを恐れる。
ザクセルは革命を恐れる。
帝国は反乱を恐れる。
王国は帝国による統一を恐れる。
カラドリンは武器輸出の停止を恐れる。
「恐怖へ名前を与えてやれば、あとは本人たちが勝手に戦います」
「レオン王子本人が否定した場合は?」
「否定すれば、生きていると証明できます」
「黙っていれば?」
「我々が好きな言葉を使い続けられる」
サロメは完成した一枚を取り上げ、紙面へ息を吹きかけた。
黒い文字の中央に、カミラ・パヴェルの偽署名がある。
「どちらへ転んでも、名を出した時点でこちらの利益です」
◇
その日の午後、カミラの部屋へ一枚の紙が持ち込まれた。
「有名人になったな、監察官」
見張りの兵士が、寝台へ紙を投げる。
カミラは右手で拾い上げた。
左手首には新しい包帯が巻かれている。腫れはまだ引いておらず、指を曲げるたびに痛みが走ったが、昨日よりは感覚が戻っていた。
見出しを読み、本文へ目を通す。
途中で、小さく笑った。
「何がおかしい」
「昨日より文章が少しましになった」
「自分の自白を褒めるのか」
「私が書いたものではない」
「署名がある」
「偽物だ」
「皆そう言う」
「私は『個人的な執着』などという曖昧な言葉を使わない」
兵士が鼻で笑う。
「男へ執着したこと自体は否定しないのか」
カミラは紙から顔を上げた。
「お前は、牢の女へ下品な質問をするために軍へ入ったのか」
「答えられないらしいな」
「殴れる距離まで来い。左手が使えなくても、歯は残っている」
兵士は近づかなかった。
カミラは再び紙へ目を落とす。
偽造した者は、昨日の取調べで自分が口にした言葉を使っている。
国家の方が間違っていた。
その一節だけが、意味を変えられて本文へ混ぜられていた。
四つの組織しかいなかった取調室。
だが、あの場にいた四人の誰とも違う手が、この文章を整えている。
観察窓の向こうに、誰かがいた。
国家組織の争いを利用している、五人目。
「これは、どこで配られた」
「首都中だ」
「何部だ」
「知るか」
「国外へも出したのか」
「帝国も王国も、お前たちの仲間ではない」
「質問に答えろ」
「囚人が命令するな」
カミラは紙の下部を見る。
印刷所名はない。
発行責任者もない。
党の公式印も、軍の検閲印も付いていない。
それでも街へ配られている。
国家が否定できる形を保ちながら、国家の情報を使った紙。
「この紙を持ってきたことを、記録へ残せ」
「なぜだ」
「未審理の拘束者へ、自白書と称する文書を示した。しかも国家の正式手続きを経ずに公開した。監察院へ申し立てる」
「監察院は、お前を助けない」
「助ける必要はない」
カミラは紙を二つに折った。
「私が生きて拘束されていると、認めさせればよい」
偽自白書が広がれば、自分の名誉は傷つく。
レオンの名も、各国の都合に使われる。
それでも同時に、カミラ・パヴェルという人間が、現在も国家に拘束され、発言を利用されている事実が大陸へ広がる。
秘密裏に消すことは、昨日より難しくなった。
「紙を返せ」
「証拠として保管する」
「命令だ」
「なら、没収記録を書け」
兵士が手を伸ばす。
カミラは偽自白書を胸元へ押し込んだ。
「身体検査をするなら、女性の監察官を呼べ」
「面倒な女だ」
「今頃気付いたのか」
兵士は悪態をつき、扉を閉めた。
一人になったあと、カミラは胸元から紙を取り出す。
レオン・ヴァン・リュカリオン。
偽の文章の中であっても、その名を見れば胸が騒ぐ。
彼が生きているかは分からない。
この偽自白を読めば、間違いなく怒る。
そして、怒ったまま一人で飛び込んでくる可能性が高い。
「来るなと言っても来る男だからな」
呟いたあと、少し考える。
「いや。来るなら、少しは考えてから来い」
誰も聞いていない部屋で、カミラは偽物の自白書を折り畳んだ。




