第九十七部 五日で、一人の女を国家より先に見つける話 Another Side:テオ/ルーウェン/エルナ 死者の名前が、二度売られる話
オーランド民主連合国北西部の河港では、朝食に甘い豆の煮込みが出た。
ルーウェンは一口食べ、露骨に顔をしかめた。
「甘い」
「豆ですから」
エルナが答える。
「豆を甘くする理由がない」
「森では蜂蜜を掛けていました」
「あれは祭りの日だけだ」
「三杯目ですね」
「味を確かめている」
テオは宿屋の帳面を確認しながら、銀貨を机へ置いた。
「味の確認に三杯必要なら、君の食費は別勘定にするよ」
「森人を連れ回しておいて食費を惜しむのか」
「森人だからではない。三杯食べるからだ」
「お前は一杯しか食べていない」
「一杯で味は分かる」
「商人は食事まで薄いな」
「財布を厚くするためだよ」
エルナは二人の間へ視線を置き、最後の一口を静かに食べた。
「そろそろ出ませんか。約束の時刻です」
保護集落襲撃から十日。
三人はシルヴァス南東縁を出て、カランの主要街道を避けながら山地を迂回し、オーランド北西部へ入っていた。
盗まれた名簿の複写が、河運組合を通じて流れている可能性がある。
テオが追っていたのは、名簿そのものではない。
名簿を買った者が、どの書類へ名前を書き換えたかだった。
河港の保税倉庫には、運河を通ってヴェスタリアへ送られる荷が積まれている。
穀物。
織物。
薬草。
木材。
鉱石。
そして、契約労働者。
人間は荷物ではない。
少なくとも、表向きのオーランド法ではそう定められている。
しかし契約書を一枚挟めば、人間の移動も荷物と同じ帳面へ記録された。
「グラント商会です」
受付の男は、テオの差し出した商会札を見て眉を上げた。
「会長御本人が、こんな端の倉庫へ?」
「端の倉庫ほど、利益が落ちていますから」
「監査ですか」
「取引の確認です」
「同じことでは」
「監査と言えば、帳簿を隠すでしょう」
テオは笑う。
「取引確認なら、隠すのは損になります」
受付の男も愛想笑いを返した。
だが、目は笑っていない。
「後ろの二人は?」
「護衛と道案内です」
「森人に見えますが」
「森に詳しい道案内ですから」
ルーウェンが口を開きかける。
エルナが肘で止めた。
「帳簿を拝見したい」
「どの取引を」
テオは、襲撃者が落とした割符を机へ置いた。
片面に三つの切れ込み。
反対側に半分だけ残る円形の印。
受付の男の表情が、一瞬だけ固まった。
「見覚えは?」
「よくある荷札です」
「よくあるなら、探すのは簡単ですね」
「担当者を呼びます」
男は席を立ち、奥へ消えた。
ルーウェンが小声で言う。
「逃げたぞ」
「人を呼びに行った可能性もある」
「逃げた歩き方だ」
「森の獣と同じにするな」
「人間の方が分かりやすい」
エルナが周囲を見る。
「右の廊下へ二人。正面扉に一人増えました」
「帳簿を見せる気はないようだね」
テオは穏やかな顔を崩さず、机の上の割符を回収した。
しばらくすると、受付の男ではなく、黒い上着を着た倉庫監督官が現れた。
「グラント会長。お待たせしました」
「帳簿を」
「確認したところ、その割符に該当する荷はありません」
「確認が早いですね」
「記憶しておりますので」
「何千件もある荷を?」
「特徴のある印です」
「先ほどの方は、よくある荷札だと言いました」
監督官の笑みが薄くなる。
「部下の勘違いでしょう」
「では、該当する帳簿がないことを確認した証明書をください」
「何のために」
「取引先へ説明するためです」
「存在しない荷の証明など出せません」
「存在しないことを証明できないなら、確認したとは言えませんね」
テオは机へ指を置いた。
「僕は帳簿を見るまで帰りません」
「ここは民間倉庫です」
「グラント商会は、この河港へ年間金貨二百枚以上の荷を通している」
「脅迫ですか」
「取引条件の確認です」
「会長」
低い声だった。
「この国では、商人が役所を支配していると思わない方がよい」
「思っていません」
テオは笑ったまま答える。
「役所を支配している商人が、僕ではないことくらい知っています」
監督官の目が変わった。
それ以上の問答が続く前に、奥の廊下から若い書記が現れた。
「監督官、移送番号三七一の署名が」
「後にしろ」
「ですが、死亡者名義と」
監督官が振り返る。
「後にしろと言った!」
書記の手から紙が一枚落ちた。
エルナが床へ落ちる前に拾う。
「返せ!」
監督官が手を伸ばす。
ルーウェンが、その間へ立った。
剣へ触れてはいない。
ただ立っただけで、監督官の足が止まる。
エルナは紙をテオへ渡した。
契約労働者移送保険。
事故、死亡、逃亡によって労働力が失われた場合、雇用商会へ補償金を支払う契約だった。
被保険者名。
フィン・アレド。
テオの表情から笑みが消えた。
「この人物は、いつ契約したのです」
「返せ」
「十日前?」
「機密情報だ」
「九日前?」
「警備を呼べ!」
「この人は死んでいる」
テオは紙を机へ置いた。
「シルヴァスの保護集落で、襲撃者に殺された」
「同名の別人だ」
「生年月日は」
「個人情報だ」
「出身地は」
「答える義務はない」
「保険対象の身体的特徴は?」
テオは契約書の下段を読む。
「右肩に古い裂傷。左足の小指欠損。北方訛り。全部一致する」
フィン・アレド本人の情報だった。
だが、契約日は彼がシルヴァスで生きていた日。
移送予定日は、彼が埋葬された翌日。
「死人を運ぶのか」
ルーウェンが言った。
「名前だけです」
若い書記が、震える声で答えた。
監督官が睨む。
「黙れ!」
「誰を運ぶための名前です」
テオが尋ねる。
書記は答えようとした。
その時、正面扉が開き、制服を着た河港警備官が六人入ってきた。
「何事だ」
監督官は即座に書記を指さした。
「この男が帳簿を改竄し、保険金を横領していました。いま発覚したところです」
「違います!」
書記の顔から血の気が引いた。
「私は命令された番号を写しただけです。名前は外から届いた名簿に――」
警備官が両腕を掴む。
「話は詰所で聞く」
「待ってください!」
書記がテオを見る。
「双頭の鹿です! 封蝋に、双頭の鹿が――」
監督官が書記の腹へ拳を入れた。
言葉が途切れる。
ルーウェンの手が剣へ伸びた。
テオが腕を掴む。
「離せ」
「ここでは駄目だ」
「あいつを連れていく」
「六人だけではない。外に最低八人いる」
「見捨てるのか」
「いま剣を抜けば、帳簿が燃える」
「人間より紙か」
「その紙に、何十人いると思っている!」
テオの声が初めて大きくなった。
倉庫の中が静まる。
警備官たちは、書記を引きずるように外へ連れていった。
助けを求める目が、最後までテオへ向けられていた。
扉が閉まる。
ルーウェンはテオの手を振り払った。
「商人らしい判断だ」
「ああ」
「否定しないのか」
「助けられなかった」
テオは監督官を見る。
「ですが、その人が言った言葉は残りました」
「何の話だ」
「双頭の鹿」
監督官の顔が僅かに動く。
旧グラニア王国の紋章。
テオは確信した。
「この保険契約の原本を出してください」
「すでに見せるものはない」
「では、オーランド議会の商業監査院へ、グラント商会名義で告発します」
「好きにしろ」
「同時に新聞社五社へ、死亡者名義の契約労働者保険が発行されていると送ります」
「証拠がない」
監督官が契約書を奪おうとする。
エルナが先に取った。
「これは倉庫の書類だ!」
「先ほど、該当する荷は存在しないと言いましたね」
テオは静かに答えた。
「存在しない書類なら、持ち出しても損害はないでしょう」
監督官が警備を呼ぼうとする。
ルーウェンが今度こそ一歩前へ出た。
「次は止めるな」
「相手が先に抜いたら、止めないよ」
「分かった」
監督官は二人を見て、声を飲み込んだ。
テオたちは倉庫を出た。
◇
河港から離れた路地で、エルナが保険契約書を広げた。
「偽物ではありません」
「オーランドの正式書式だ」
テオが答える。
「印も本物です。少なくとも河港組合と保険商会は、この契約を正式に受け付けている」
「では、誰を運んだ」
ルーウェンが尋ねる。
「フィン・アレドの名前を付けられた別の人だ」
「なぜ死者の名前を」
「本人確認ができないからだよ。帰還者名簿には、出身、傷、家族、年齢がある。役所が確認したい情報を全部埋められる」
「死んだと知らない」
「知っていても、ここでは問題にならないかもしれない」
テオは契約書を裏返した。
「保険会社が欲しいのは、労働者本人ではなく、失われた時に払う金額を計算できる名前だ」
「人ではないのですか」
エルナが尋ねる。
「書類の上では、交換可能な労働力だ」
テオの声が掠れた。
フィン・アレドは、保護集落を守ろうとして死んだ。
子どもたちは木の実を置き、板の裏へ名前を書いた。
ここでは、その同じ名前が知らない誰かの身体へ貼られ、商会の損失を補償する数字へ変えられている。
「二度売られた」
ルーウェンが言った。
「何が」
「フィンの名前だ。一度目は盗まれた。二度目は、この紙で売られた」
テオは否定できなかった。
エルナが契約書の端を指す。
「ここに、剥がした跡があります」
封蝋の一部が紙へ残っている。
赤黒い蝋。
中心には、二つに割れた角のような線。
双頭の鹿。
「グラニア王国」
テオが呟いた。
「滅びた国でしょう」
「王は死んでいない」
「噂では」
「噂が書類へ印を押すことはない」
テオは封蝋の跡を布で包んだ。
「生きている。それも、オーランドの商会と河港へ命令を通せる位置にいる」
「レイラへ知らせますか」
「知らせる」
「書記のことも?」
ルーウェンが聞いた。
テオは答えるまで少し時間が掛かった。
「ああ」
「助けられなかったと?」
「そのまま書く」
「王女は、お前を責めるかもしれない」
「責められるべきかもしれない」
「なら、戻って助けるか」
「いまは戻らない」
テオは河港の方角を見る。
「彼が残した言葉を無駄にしない。それから、連れていかれた場所を探す」
「紙を守るためではないのか」
「人を守るために紙を使う」
テオは言った。
「それを間違えたら、僕はカロと同じになる」
◇
レイラへ送る最初の報告には、三行だけを書いた。
――フィン・アレドの名が、オーランドで契約労働者保険へ使われていた。
――旧グラニア王国の双頭鹿印を確認した。
――証言しようとした書記を守れなかった。行方を追う。
テオは最後の一行を消さなかった。
失敗を隠した記録から、正しい国は作れない。
◇
Interlude アルムロイト
日が沈んだあと、アルムロイトの河港へ白い帆の船が入った。
入港予定表にはない船だった。
帆には紋章がなく、船首の白い翼だけが月明かりを受けている。
アーデルハイトは外套の襟を閉じ、護衛を一人も連れずに桟橋へ下りた。
船から降りてきたリヴィア・サレーネは、挨拶より先に細長い革筒を差し出した。
「見つけたわ」
「何をですか」
「東へ送られた医療布の荷札。受取先は消されていたけれど、発注書にアルムロイト式の幅表記が使われていた」
アーデルハイトが革筒を開く。
中には、荷札の写しと、カミラがアルムロイトを去る前に残した短い書状が入っていた。
二つの紙には、同じ癖のある訂正線がある。
「カミラさんが書いたのですか」
「発注書そのものではない。でも、誰かが彼女の記録を見て書式を直している」
「生きている証明にはなりません」
「そうね」
リヴィアは河港の暗い水面を見る。
「だから、証明を探す」
「レオンには?」
「知らせていない」
「居場所が分からないからですか」
「それもあるわ」
リヴィアは少しだけ笑った。
「知ったら、先に一人で飛び込むでしょう」
アーデルハイトは否定できなかった。
「父には話します」
「止められるかもしれない」
「止めるなら、止める理由を正式な書面にしていただきます」
「それで?」
「書面になれば、反対する根拠が分かります。根拠が分かれば、条件を変えられます」
リヴィアが目を細めた。
「あなたも随分、カミラに似てきたわね」
「褒め言葉として受け取ります」
二人は並んで、人気のない河港を歩き始めた。
青いインクは、医療記録からカミラを追っている。
レオンたちは、まだその名を公に出す時を計っている。
そしてアルムロイトでは、彼らの知らない別の手が、海運と行政の側から同じ女性へ近づき始めていた。
五日という時間を数えているのは、カミラを消そうとする者たちだけではなかった。
──第九十七部 了




