第九十七部 五日で、一人の女を国家より先に見つける話 ② 三つの机を通った医療請求書
カミラ・パヴェルの署名が入った医療請求書は、三つの机を通った。
最初の机では、軍保安局の書記官が管理番号を確認した。
二つ目の机では、国家保安局の監視役が薬品名を書き写した。
三つ目の机では、中央医療倉庫の配給係が在庫不足を理由に、別倉庫への振替票を作った。
その振替票は、荷物を運ぶ下請け商会へ渡った。
商会は一枚を倉庫へ、一枚を御者へ、一枚を請求元へ戻す。
四枚目は存在しないことになっていた。
だが、夜になると、存在しない四枚目が古い印刷所の机へ置かれた。
「本人の署名です」
ヴィクトルが言った。
レオンは紙を取ろうとし、指先が触れる寸前で止めた。
汚したくなかったのか。
震えていることを見られたくなかったのか。
自分でも分からなかった。
ニーナが横から紙を覗き込む。
「これがカミラの字?」
「ああ」
「いつもより少し揺れてる」
「左手が動かないから、右で書いたんだろう」
「右利きではないの?」
「両方使う。記録は右、剣は左が多い」
ニーナはレオンを見る。
「よく知ってるね」
言った直後、自分の声が思ったより低かったことに気付いたらしい。
すぐに請求書へ目を戻す。
「……一緒にいたんだから、当然か」
「怒っているのか」
「何に」
「知らん」
「なら聞かないで」
ガレスは少し離れた場所で椅子へ座り、二人の顔を順番に見た。
「今後、女同士の話へ巻き込まれる可能性はあるか」
「ない」
レオンとニーナが同時に答えた。
「息が合っているな」
「黙れ」
「第四条」
ニーナが言う。
「俺に適用するな」
ガレスは肩をすくめた。
ヴィクトルは三人の会話へ口を挟まず、カミラの請求書の横へ地図と三枚の倉庫札を並べた。
「この薬は、中央倉庫にはありません」
「医師もそう判断したのか」
ニーナが尋ねる。
「ええ。苦根は東部向けの配給が優先されている。首都周辺で残っているのは、三か所だけです」
ヴィクトルが地図を指す。
一つは軍病院。
一つは対ザクセル工作部門が管理する医療庫。
一つは旧税関庁舎を改修した臨時保管所。
「この三か所のどこかへ取りに来る?」
「倉庫側から届ける」
ガレスが答えた。
「拘束施設の場所を隠すなら、御者は途中で交代する。荷物も一度別の箱へ移すはずだ」
「何回?」
「一回では足りない。少なくとも二回」
「薬一袋のために?」
「人を隠す方が高くつく」
ガレスは振替票を手に取った。
「この印は、最初の御者へ出されたものだ。受け渡し先は書かれていないが、出発時刻がある」
「明日の朝、鐘が四つ鳴る前」
ニーナが読む。
「追えば、カミラの場所へ行ける?」
「そのまま追えば、見つかる」
ガレスは即答した。
「追跡を警戒して、必ず一度は偽の受け渡しを入れる。薬を持った男を捕まえても、次の場所を知らない可能性が高い」
「では、どうする」
レオンが尋ねる。
「薬ではなく、空箱を追う」
「空箱?」
「受け渡しのたびに荷を移すなら、前の箱は戻る。戻る箱の底や縄に、次の施設の泥、埃、臭いが残る」
ニーナが頷いた。
「薬草の匂いも。収容所の近くに厨房か診療室があれば分かるかもしれない」
「馬の蹄も見る。石畳、泥道、砂利道で削れ方が違う」
「俺は?」
レオンが尋ねた。
「待つ」
ガレスが答える。
「役割を聞いている」
「待つのが役割だ」
「もう少し必要とされる仕事を寄越せ」
ヴィクトルが別の紙束を置いた。
「では、これを書いてください」
「何だ」
「カミラ・パヴェル監察官が、いつ、どこで、何を調査していたか。あなたが直接見聞きした範囲だけでよい」
「証言書か」
「一通ではありません」
ヴィクトルは机の下から、同じ大きさに切った紙を出した。
「帝国の外交局へ一通。ヴェルシャイン王国の使節館へ一通。カラドリン商会連合へ一通。ザクセル穏健派へ一通。イタリカ監察院内部の法治派へ一通」
「俺の名を出すのか」
「まだ出しません」
「では、何の意味がある」
「あなたの署名が必要になった時、同時に五か所へ出せるようにする」
レオンは紙束を見る。
「いま公表すれば」
「カミラの拘束を秘密にできなくなる代わりに、あなたが彼女を利用して反乱を起こしたという政府の話へ信憑性を与える」
「先に向こうが偽の自白を出したら」
「出すでしょう」
「分かっていて待つのか」
「偽物が先に出た方が、偽造を証明しやすいこともあります」
「カミラの名誉が傷つく」
「名誉を守るために、本人の命を危険へ晒しますか」
レオンの顔から表情が消えた。
ヴィクトルも視線を逸らさない。
「あなたは、剣を抜く代わりに紙を使うと言った」
「ああ」
「紙の戦いでは、正しいことを一番早く言った者が勝つとは限りません」
「では、何が勝つ」
「最後まで消されなかった記録です」
レオンは椅子へ座った。
筆を取る。
最初の紙へ、日付を書こうとして止まった。
「いつから書く」
「カミラと出会った日から」
「長いぞ」
「余計な場面は省いてください」
「余計かどうかは誰が決める」
「政治的証言に、酒宴や衣装事故は必要ありません」
ニーナが顔を上げる。
「衣装事故?」
「何でもない」
レオンが即座に答えた。
「カミラと何があったの」
「政治的証言に不要なことだ」
「私は政治家じゃないから聞いてる」
「治療にも不要だ」
「精神状態の確認に必要かもしれない」
「必要ない」
ヴィクトルが静かに目を閉じた。
「話が進みません」
「同感だ」
ガレスが言う。
「衣装事故の詳細だけ聞いてから進めてもいい」
「お前はどちらの味方だ」
「金貨千枚分の情報は、なるべく多い方がよい」
「ガレス」
ニーナが睨む。
「冗談だ」
「分かりにくい」
「笑わないからな」
レオンは紙へ向き直った。
カミラ・パヴェル監察官と初めて会った日。
炎。
火傷。
血。
怒鳴り声。
人には見せられない姿を見たこと。
その責任を取れと、いつか本気とも冗談ともつかない顔で言われそうな記憶。
どこまでが証言で、どこからが二人だけの出来事なのか。
筆先が動かない。
「レオン」
ニーナが呼んだ。
「何だ」
「カミラは、怒っている時ほど字が整うの?」
レオンは請求書へ目を向けた。
「そうだな」
「では、この署名は?」
「かなり怒っている」
「怖がってはいない?」
その問いへ、レオンはすぐに答えられなかった。
「怖いはずだ」
「そう」
「だが、怖がっていると知られるのを嫌う」
「それは、あんたと似てるね」
「俺は分かりやすい」
「悪い冗談を言う時ほど怖がってる」
ニーナは、請求書の薬品欄を指でなぞった。
「この人は、自分の身体を使って場所を知らせたんだと思う」
「身体を使った?」
「本当に痛いんだよ。薬も飲まされてる。だけど、それを記録させれば、薬が外から入る。紙も出る」
ニーナは署名を見る。
「助けられるのを待ってるんじゃない。中から道を作ってる」
レオンの筆が、ようやく動いた。
最初の一行を書く。
――カミラ・パヴェル監察官は、国家へ敵対したのではない。
少し考え、線を引いて消した。
「違うの?」
ニーナが尋ねる。
「違う」
新しい紙へ書き直す。
――カミラ・パヴェル監察官は、国家が行った犯罪を記録した。
今度は消さなかった。




