第九十七部 五日で、一人の女を国家より先に見つける話 ① 腫れた古い烙印と、顔をしかめた医師
医師は、カミラの左手首を見た瞬間に顔をしかめた。
古い烙印の周囲が赤く腫れ、手の甲まで薄く浮腫んでいる。新しい傷ではないが、冷えた部屋で長時間拘束され、何度も後ろ手に縄を掛けられたことで、皮膚の下に残る古傷まで炎症を起こしていた。
「指を動かしてください」
カミラは親指から順番に曲げた。
薬指だけが途中で震え、最後まで握り込めない。
「痛みは?」
「ある」
「どの程度です」
「尋問官の顔を殴るには不十分だ」
「数字で答えてください」
「十段階なら六」
「先ほどは平気だと言っていたそうですが」
「尋問官へ弱みを教える趣味はない」
「医師へは?」
「あなたが医師としてここにいる間は、正直に答える」
女医は返事をせず、腫れた部分へ温めた布を当てた。
取調室から移された小部屋には、寝台が一つ、薬棚が一つ、手洗い用の鉢が一つある。窓はあるが、外側から板で半分塞がれ、見えるのは灰色の空だけだった。
医師の背後には軍保安局の兵士。
扉の外には国家保安局の監視役。
医師がどの組織に所属しているかは分からない。白衣の胸には印章がなく、持参した診療鞄にも所属を示す札が付いていなかった。
「睡眠は」
「一刻ごとに起こされる」
「食事は」
「二度。量は少ない」
「吐き気は?」
「水を飲んだあとに一度」
「薬を投与された記録はありません」
「記録の話はしていない。私の身体の話をしている」
女医の手が止まる。
「水に苦みがあった?」
「舌の奥へ残る苦みだ。眠り草だけではない。目覚めた時に口が乾き、考えがまとまらなくなった」
「いつです」
「最初の移送後に二度。昨夜は飲まなかった」
「なぜ」
「臭いが違った」
医師は診療簿へ書き込もうとし、扉の前の兵士を見た。
「薬物投与の記録がないなら、本人の申告として記載します」
「必要ない」
兵士が言った。
「必要です」
「命令は、移送に耐えられる状態か確認することだ」
「薬物を投与した可能性があるなら、長距離移送の判断へ影響します」
「可能性ではない」
カミラが言った。
「投与された」
「証拠はあるのか」
兵士が鼻で笑う。
「私が死ねば、解剖すればいい」
「縁起でもないことを言わないでください」
医師が苛立ったように言った。
「死んだあとにしか証明できない薬を使う者へ言ってくれ」
女医は診療簿へ文字を書き足した。
本人申告。拘束中、記録にない鎮静薬を複数回投与された疑い。
兵士が机へ近づく。
「消せ」
「医療記録です」
「軍の管理下にある」
「ならば、移送中に死亡した場合は軍が全責任を負うと署名してください」
女医は筆を差し出した。
兵士は受け取らない。
昨夜の取調室と同じだった。
責任を負う者はいない。
だが、責任を負わされる可能性を示せば、国家の歯車は互いに押しつけ合い始める。
「手首以外は」
女医が尋ねた。
「頭痛。寒気。右の脇腹に痛み」
「脇腹?」
「三日前、移送車で壁へ打った」
「見せてください」
カミラは上衣の裾を持ち上げた。
脇腹には、拳二つ分ほどの紫色の痣が広がっている。
女医は兵士を振り返った。
「これも記録にありません」
「移送中に暴れた」
「座席へ手を固定されていたのに?」
カミラが尋ねる。
「馬車が揺れた」
「では、道を舗装した者の責任だな」
「口を閉じろ」
「診察中です」
女医が先に兵士を制した。
カミラは僅かに眉を上げた。
この医師は味方ではない。
正義のために反抗しているわけでもない。
自分が診た患者を、自分の責任で死なせたという記録を残されたくないだけかもしれない。
それで十分だった。
善意だけが人を助けるわけではない。
職務への矜持、責任への恐怖、同僚への不信、処罰を避けたい気持ちも、正しく噛み合わせれば命を守る力になる。
「温めた布を一日三回。食事は塩分と糖分を増やす。鎮静薬は禁止。苦根と柳皮の煎じ薬を出します」
「眠り草の残りには」
「活性炭と苦根を使います。ただし、繰り返し投与されているなら一度で抜けません」
「移送は可能か」
兵士が尋ねた。
「現状では勧めません」
「五日後だ」
「その間に熱が出なければ、医療担当者を同行させる条件で」
「軍医を付ける」
「拘束者への薬物投与記録を確認できる者が必要です」
「余計な条件を書くな」
「書かなければ診断書へ署名しません」
兵士の顎が強張った。
医師は新しい用紙を取り出し、薬品と包帯の請求欄を埋めていく。
活性炭。
苦根。
柳皮。
温布用の厚手布。
左手首固定用の細布。
腫れが悪化した場合に使う消炎膏。
カミラは、その紙を黙って眺めていた。
薬品請求書には、患者の管理番号、使用施設、搬入経路、担当部署の印が必要になる。
牢の位置は隠せても、薬は倉庫から運ばなければならない。
食料と薬と薪だけは、秘密を守るために空を飛んではくれない。
「署名を」
女医が診断書を差し出した。
カミラは左手で筆を取ろうとしたが、指がうまく閉じない。
右手へ持ち替える。
「本人の署名は不要だ」
兵士が言った。
「本人申告欄があります」
「管理番号でよい」
「私には名前がある」
カミラは用紙を引き寄せた。
カミラ・パヴェル。
いつもより僅かに線が揺れた。
それでも最後の一画まで書き切る。
続けて、薬物投与の申告欄へ一文を書き足した。
――投与の事実を否定する記録は確認していない。
「何を書いた」
「記録がないことは、投与されていない証明にならない」
「勝手に追記するな」
「監察官の癖だ」
兵士が紙を取り上げようとする。
女医が先に請求書と診断書を重ね、自分の鞄へ入れた。
「中央医療倉庫へ出します」
「軍倉庫を使え」
「軍倉庫には苦根の在庫がありません。先月の配給記録で不足が出ています」
「なぜ知っている」
「医師だからです」
女医は立ち上がった。
「この診断書を無効にするなら、別の医師を呼んでください。ただし、その医師が診るまで移送許可は出しません」
兵士は何も答えなかった。
カミラは寝台へ身体を戻した。
中央医療倉庫。
そこから先へ紙が流れる。
誰かが見ている保証はない。
青いインクがまだ生きているのか、ヴィクトルが自由なのか、レオンがどこにいるのかも分からない。
それでも、紙を外へ出さなければ、誰にも見つけてもらえない。
「医師」
扉へ向かう背中へ声を掛ける。
「何ですか」
「名前を聞いていない」
女医は一瞬だけ迷った。
「患者に必要な情報ではありません」
「私が患者ならな」
「少なくとも、私が診ている間は患者です」
女医は名前を告げずに部屋を出た。
扉が閉じる直前、カミラは小さく言った。
「それで十分だ」




