第九十六部 私は、今日は誰の囚人なのか Another Side:カラベル/カロ・ディーノ 名前は、正しい書類になった時に最も高く売れる話
競売場には、海が見えなかった。
カラベル自由諸島の港へ建てられた館でありながら、窓はすべて厚い板で塞がれ、潮の匂いだけが床下の通気口から入り込んでいる。
中央の長机には、人間ではなく紙が並べられていた。
帰還者保護集落から盗み出された名簿。
その原本から作られた三部の複写。
家族構成、病歴、出身地、逃走経路、必要な薬、証言できる内容。
誰を脅せば戻ってくるか。
誰を捕まえれば、ほかの者が自分から姿を現すか。
それらが、整然と欄へ分けられている。
カロ・ディーノは紙の端を揃え、細い鉄筆で番号を書き込んだ。
「名前は残すのですか」
向かいに座るオーランドの商会代理人が尋ねた。
「原本には」
「売る資料には?」
「目的によります」
カロは顔を上げない。
「人を運ぶだけなら番号で足ります。政治へ使うなら名前が必要です。家族へ売り戻すなら、本名と幼い頃の呼び名まであった方が値が上がる」
「随分と細かい」
「細かくなければ、役所が受理しません」
「役所へ出すのか」
「人間を人間のまま国境へ通せば、問題になります」
カロは、少女の名前の横へ赤い点を付けた。
「契約労働者、養子、患者、難民、宗教帰還者、保護対象。正しい呼び方へ変えれば、どの国も自分の法律に従って通してくれます」
ヴェスタリアの運送業者が、卓上の名簿を指で叩く。
「こちらの十八名は、すでにシルヴァスへ戻ったのだろう」
「戻ったから価値がある」
「再び捕らえるのか」
「捕らえる必要はありません。家族の居場所を知らせれば、自分から出てくる者もいる」
「出てこなければ?」
「薬を止める。あるいは、家族が別の国で見つかったと知らせる」
カロは淡々と答えた。
「希望は、鎖より軽く運べます」
部屋の奥では、カランの書記が複写の一部を確認している。
彼の前だけ、名前の横に用途が書かれていた。
労働再配置。
思想矯正。
国外工作協力。
交換可能人員。
家族圧力資産。
民族統合不能。
最後の一冊には、まだ用途が決まっていない者が並んでいる。
「この父娘は?」
書記が尋ねた。
人間の養父トーマ。
森人の血を持つ少女エナ。
「商品としての価値は低いですね」
オーランドの代理人が言う。
「少女は若い」
「混血で、森へ戻ったばかりだ。再拘束には手間が掛かる」
「再拘束しない」
部屋の最奥から、男の声がした。
それまで閉じられていた布幕が開く。
金糸を使った黒い外套。
年齢は六十を越えているように見えるが、背筋は真っ直ぐで、指には古い王家の印章が嵌められている。
印章に刻まれているのは、滅びたグラニア王国の双頭鹿だった。
男が現れると、カランの書記だけが立ち上がり、胸へ手を当てる。
「第十二位」
オーランドの代理人とヴェスタリアの運送業者は、名前を呼ばずに頭を下げた。
カロだけが椅子へ座ったまま、書類を揃え続けている。
「再拘束しないのですか、陛下」
「その呼び方は好ましい」
グラニア王は満足そうに笑った。
「神へ王冠を差し出したからこそ、私は真の王となった。地上の玉座を失った者ではない。偽りの王冠を脱ぎ、選ばれたのだ」
ヴェスタリアの男が、視線を下げたまま動かない。
オーランドの代理人は、信仰の話が長くなることを恐れているらしく、唇を固く結んだ。
カロは気にせず尋ねる。
「では、父娘の用途は?」
「政治宣伝」
グラニア王はエナとトーマの欄へ手を伸ばした。
「亡国の王女が、混血の子を人間の父から奪い、森の兵士へ育てている。そのように使う」
「事実とは違います」
カロが言った。
「だから何だ」
「書類を作る上で確認しただけです」
「事実は、神に選ばれた者が意味を与えた時に完成する」
「役所は、その説明では印を押しません」
カロは赤い点の横へ、新しい欄を書き足した。
人道保護を装った未成年者の政治的拘束。
「これなら、オーランドの議員も扱いやすいでしょう」
「王女は、父親を引き離すことへ反対したそうですね」
カランの書記が言う。
「ならば、逆の話を流せ」
グラニア王は即座に答えた。
「人は、自分の善意を悪意と呼ばれた時に最も激しく反応する。王女が否定すればするほど、混血児を政治へ利用しているように見える」
「レイラ・ヴァン・リュカリオンの名は、正式に出しますか」
その名を聞いた瞬間、グラニア王の顔から笑みが消えた。
「まだだ」
「なぜです」
「娘は父に似て、余計な正しさを持っている」
かつて旧ノルダリオン連合の会議で、ロダン公爵は何度もグラニア王へ異を唱えた。
帝国と秘密協定を結ぶこと。
カランの使者を国内へ入れること。
宗教を国家の上へ置くこと。
王の命令が民の命より重いとすること。
あの男は最後まで、自分が正しいと信じて死んだ。
グラニア王は、それが気に入らなかった。
「レオンは?」
オーランドの代理人が尋ねる。
「賞金首として生きているという噂があります」
「噂ではない」
グラニア王は指輪を回した。
「生きている」
「確認を?」
「第六位から報告があった」
部屋の空気が少し変わる。
第十二位であるグラニア王を使う、さらに上位の存在。
「第六使徒は、何を望んでいるのです」
カランの書記が尋ねた。
「帝国と王国が、旧ノルダリオンの後継者を奪い合うことだ」
「レオン王子を?」
「王子ではない」
グラニア王の声に、僅かな苛立ちが混じった。
「祖国を捨て、傭兵へ落ちた男だ。旧連合を代表できるのは、唯一生き残った王である私だけだ」
「しかし、リュカリオン王家の兄妹が両方生きていれば」
「だから、先に名前を汚す」
レオンは祖国の民を捨てた。
レイラは亜人へ取り込まれた。
リュカリオン王家は復興ではなく、帝国、王国、シルヴァスを戦争へ巻き込もうとしている。
そういう話を、事実より先へ流す。
「王国は、あなたを支持しますか」
オーランドの代理人が尋ねた。
「王国全体である必要はない。帝国領を切り崩したい者が一人いればよい」
「帝国は?」
「私を反乱者と呼ぶだろう。それでよい。帝国が私を恐れれば、私が正統な王である証明になる」
カロは、グラニア王の話を聞きながら紙を三つの束へ分けていく。
一つはヴェスタリアへ。
一つはオーランドへ。
一つはカランへ。
「カラベル分は?」
運送業者が尋ねる。
「原本を残します」
「危険では」
「原本を燃やせば、複写の価値が上がることもあります」
「誰が燃やす」
「必要になった時に決めます」
カロは最後に、トーマとエナの関係へ線を引いた。
父娘。
養親子。
政治宣伝対象。
三つの欄へ、同じ二人が別々の形で書かれている。
「名前は感情を呼びます」
カロが言った。
「番号なら、代金だけを考えられる。ですが、政治に使う時は名前へ戻した方がよい」
「なぜだ」
グラニア王が尋ねる。
「民衆は番号のためには怒りません」
「ならば、王女の名前も使え」
「まだ出さないと、先ほど」
「時期が来たらだ」
グラニア王は、机の上へ一枚の紙を置いた。
第六使徒エゼキエル・ヴァロスからの命令書。
帝国と王国へ、異なる内容の情報を送ること。
旧ノルダリオンの亡命者へ、グラニア王生存の噂を流すこと。
オーランド議会へ、人身売買調査がシルヴァスと亡国勢力の政治工作であるという資料を渡すこと。
ヴェスタリアでは、帰還者を「契約を破って逃亡した労働者」として再登録すること。
最後に、こう書かれていた。
――第十二位は、与えられた王冠以上のものを望むな。
グラニア王の指が震えた。
「第六位は、私を侮っている」
誰も答えない。
「私は王だ」
「使徒でもあります」
カランの書記が慎重に言った。
「使徒となったからこそ、王なのだ」
グラニア王は命令書を握り潰しかけ、途中で思い直した。
神の上位使徒から届いた紙を破ることはできない。
「いずれ、私が第六位の上へ立つ」
その言葉へ同意する者はいなかった。
カロだけが、命令書の皺を気にしていた。
「写しを取るので、あまり潰さないでください」
「お前は、神の命令より紙を心配するのか」
「読めない命令書は、命令として使えません」
グラニア王は、しばらくカロを睨んだ。
「お前は信仰を持たない」
「正しい書式を信じています」
「それが神より強いと?」
「神の命令も、国境を越える時には署名と印が要ります」
オーランドの代理人が顔を伏せ、笑いを隠した。
グラニア王は不快そうに命令書を机へ戻す。
カロは皺を伸ばし、三部の複写を作る準備を始めた。
人を売る者。
名を洗う者。
正義へ言い換える者。
国家の目的へ使う者。
四つの歯車が、同じ一枚の名簿を噛み始めていた。
◇
東では、一人の女へ四つの罪名が与えられた。
軍事機密漏洩者。
思想審査対象。
国外工作員。
保護すべき重要人物。
西では、一枚の名簿から四つの値札が作られた。
労働力。
契約者。
政治宣伝。
家族を動かすための資産。
カミラ・パヴェルは、自分が誰の囚人なのかを問い続けた。
帰還者たちは、自分の名前がどこで、何へ変えられたのかを知らない。
革命の火は、まだ国境の向こうにあるように見えた。
名前を喰らう歯車も、遠い島で回っているように見えた。
だが、東西で同時に動き始めた二つの仕組みは、やがて帝国と王国、森と山、亡国の兄妹まで巻き込み、大陸そのものを一つの戦場へ変えようとしていた。
──第九十六部 了




