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第九十六部 私は、今日は誰の囚人なのか ① 取調室に並んだ四つの印章

 取調室の机には、四つの印章が並べられていた。


 一つ目は、交差する剣を刻んだ軍保安局の黒い印。


 二つ目は、開かれた目を表す監察院の銀印。


 三つ目は、炎を囲む輪を象った党倫理委員会の赤い印。


 そして最後は、文字も紋章もなく、磨かれた石の表面に番号だけが彫られた国家保安局の灰色の印だった。


 同じ国家の印でありながら、四つは互いに触れない距離を保って置かれている。


 その向こうへ座る四人の役人たちも、互いの書類を見られないよう、少しずつ紙の角度を変えていた。


 カミラ・パヴェルは椅子の背へ身体を預け、机の上を順番に眺めた。


 窓はない。


 時刻を示す時計もない。


 前の部屋から何度移されたのか、歩かされた距離と階段の数だけでは、現在地を正確に判断できなかった。


 ただ、壁の向こうから一度だけ重い車輪の音が聞こえ、床の振動が遅れて伝わったため、建物の近くには石畳の広い道がある。地下牢ではなく、軍か官庁が一時的に使っている移送施設だろう。


 左手首の古い烙印が鈍く痛んでいる。


 寝かせないために何度も移送されたことと、冷えた部屋へ長時間座らされたことが原因だった。


「カミラ・パヴェル元監察官」


 軍保安局の男が最初に口を開いた。


「元、ではない」


 カミラが答える。


「職務停止命令が出ている」


「職務停止と罷免は違う。軍人が監察院の人事を決めるようになったのなら、私が眠っている間に革命がもう一度起きたらしいな」


 軍保安局の男の眉が動く。


 隣にいる監察院の副監察官は、助ける気もないくせに、小さく咳払いして笑いを隠した。


「監察院としては、あなたを現職の監察官として扱っています」


「では、この拘束を解除しろ」


「それとこれは別の問題です」


「便利な組織だ」


 党倫理委員会の審査官が、赤い縁取りの書類を持ち上げる。


「あなたは現在、革命倫理に反する行為について審査を受ける立場にある。職位の有無は、この場では重要ではない」


「犯罪者ではなく、思想の審査対象ということか」


「革命国家へ仕える者には、正しい思想が求められる」


「正しい犯罪は許され、間違った思想は許されない?」


「言葉を慎め」


「私は慎重に選んでいる」


 最後まで黙っていた国家保安局の女が、灰色の印へ指を置く。


「国家保安局は、あなたを国外勢力と接触した重要人物として保護下へ置いている」


 カミラは女を見る。


「保護?」


「あなたの身柄には、国外の複数勢力が関心を示している」


「鍵を掛け、眠らせず、薬を混ぜた水を飲ませる行為を、この国では保護と呼ぶのか」


「薬を飲ませたという記録はありません」


「記録がなければ、舌に苦みが残らないと?」


 女は答えなかった。


 カミラは四つの印章をもう一度見渡した。


「確認したい」


「何をだ」


「私は、今日は誰の囚人だ」


 取調室が静かになる。


 軍保安局は、カミラを軍事機密漏洩の容疑者として扱いたい。


 監察院は、自組織の監察官が正式な手続きなしに拘束されている事実を認めたくない。


 党倫理委員会は、犯罪ではなく思想の問題へ変えたい。


 国家保安局は、国外工作に利用できる情報源として彼女を保持したい。


 一人の人間を四つの組織が別々の名前で呼び、どの組織も責任だけは引き受けようとしない。


「質問に答えろ」


 軍保安局の男が言った。


「答えられない質問を先にしたのは、そちらだ」


「ザクセル国境で発生した武装蜂起について、知っていることを話せ」


「新聞を読ませてくれるなら、多少は」


 男は机へ写真板を置いた。


 焦げた家屋。


 崩れた石壁。


 路上に伏せた数人の兵士。


 その脇には、黒く焼けた大型弩の台座と、割れた火壺が写されている。


「三日前、ザクセル東部の関税所が革命派を名乗る集団に襲撃された。守備兵十九名、役人七名、民間人十一名が死亡している」


「革命派を名乗る?」


「現場から、イタリカの革命宣言と党歌を印刷した紙が発見された」


「ずいぶん親切な襲撃者だな」


「何?」


「自分の正体を説明する紙を、燃え残る場所へ置いてくれたのだろう」


 カミラは写真板を引き寄せる。


 指先が僅かに震えたが、机の下へ隠す。


「この弩は、カラドリン製だと言ったか」


「まだ何も言っていない」


「台座の接合部を見れば分かる。竜の背骨東工房群で使う三重留めだ。ただし、製造年が合わない」


 軍保安局の男が隣の者を見る。


「何が合わない」


「四年前から、東工房群は留め金の形を変えた。古い型へ見せているが、金属の厚みと脚部の角度が新しい」


「何を意味する」


「古い武器を革命派が倉庫から持ち出したのではなく、誰かが新しい武器を古く見せようとした」


 国家保安局の女が初めて紙へ何かを書き込む。


「根拠は」


「監察院に、カラドリン製軍需品の輸入記録がある。私が提出した」


「その記録は押収された」


 軍保安局の男が言う。


「誰が?」


「質問しているのはこちらだ」


「答えたくない質問を、質問で返すな」


 監察院の副監察官が、今度こそ露骨に顔を背けた。


 党倫理委員会の審査官だけが、苛立ちを隠さず書類を叩く。


「武器がどこで作られたかは本質ではない。ザクセルの人民が旧体制へ立ち上がったことが重要だ」


「民間人十一名を殺したことも、立ち上がりの一部か」


「革命に犠牲は伴う」


「便利な言葉だな」


「お前は革命を否定するのか」


「否定していない」


 カミラは審査官を見る。


「だから、革命の名で行われる犯罪を見逃さないと言っている」


「国家へ敵対する発言だ」


「国家と革命を同じものにした時、革命は終わる」


 審査官の顔から血の気が引いた。


 軍保安局の男が、わざとらしく椅子へ座り直す。


「話を戻す。襲撃に使われた武器の流通経路について、お前が知っている資料はどこにある」


「私が持っていると思うのか」


「複写を作ったはずだ」


「作ったかもしれない」


「誰に渡した」


「誰に渡したと、国家保安局から聞いた?」


 カミラは灰色の印の女へ視線を向ける。


 女の表情は変わらない。


 だが、軍保安局の男が僅かに身体をそちらへ向けた。


「保安局が把握していると?」


「知らない」


「いま、そう言った」


「質問しただけだ」


 今度は、党倫理委員会の審査官が国家保安局の女を見る。


 カミラは胸の内で息を整えた。


 正しい情報を一つ渡せば、その組織だけが自分を所有する。


 異なる可能性を四つ置けば、彼らは互いを監視し始める。


 逃げるための扉は、まだない。


 それでも、鍵を持つ者同士を疑わせることはできる。


「レオン・ヴァン・リュカリオンとの関係を説明しろ」


 軍保安局の男が、別の紙を机へ滑らせた。


 カミラは紙を読んだ。


 自白書と題されている。


 下には、カミラ・パヴェルという署名まである。


 亡国の王子と結託し、ザクセルにおける反革命暴動を計画した。


 イタリカ軍の情報を国外へ渡し、革命政府を転覆させようとした。


 個人的な感情によって国家を裏切った。


 最後まで読む前に、カミラは笑った。


「何がおかしい」


「私の自白にしては、文章が下手だ」


「お前の署名がある」


「筆跡を真似るなら、もう少し左へ傾けろ。それから、私は『個人的な感情によって』などとは書かない」


「では、どのように書く」


「仮にあの男のため国家へ背くなら、もっと簡潔に書く」


 審査官が嫌悪を込めて尋ねる。


「どのように?」


 カミラは少し考えた。


「国家の方が間違っていた、と」


 取調室の空気が固まった。


 自分でも、余計なことを言ったとは思う。


 長く眠らされていないせいかもしれない。


 あるいは、偽物の自分に、レオンへの感情まで勝手に書かれたことが腹立たしかったのかもしれない。


「レオン王子と、肉体関係はあるのか」


 党倫理委員会の審査官が尋ねた。


「この場で必要な質問か?」


「国外勢力との関係を判断するためだ」


「国外勢力と寝れば、国家転覆になるのか」


「答えろ」


 カミラは、アルムロイトでの幾つかの出来事を思い出しかけ、即座に押し戻した。


 透明な酒。


 踊り。


 衣装。


 レオンの顔。


 あの夜の詳細を、この四人へ説明するくらいなら、舌を噛んだ方がましだった。


「ない」


 一拍置いて答えた。


「いま、間があった」


「人を不快にさせる質問へ、殴らず答えるための時間だ」


 国家保安局の女の口元が、ほんの僅かに動いた。


 軍保安局の男が机を叩く。


「ふざけるな!」


「ふざけているのは、私の寝床を国家機密と同じ紙へ書こうとする者だ」


「カミラ・パヴェル!」


「名前は知っている。四つの組織が別々の意味で呼ぶから、忘れようがない」


 扉が開いた。


 若い書記官が入ってきて、軍保安局の男へ封書を渡す。


 封には、黒、銀、赤、灰の四色が使われていた。


 男が読み進めるにつれ、眉間の皺が深くなる。


「何だ」


 監察院の副監察官が尋ねた。


「五日後、身柄を東部臨時軍政庁へ移す」


「監察院の同意は?」


「合同命令だ」


「私は署名していない」


「院長代理の署名がある」


「党倫理委員会の審査は終わっていない」


「移送先で続ける」


 国家保安局の女が封書を受け取る。


「東部臨時軍政庁には、対ザクセル特別課の施設がある。軍が勝手に尋問を始めれば、国外工作の情報が混乱する」


「すでに混乱している」


 カミラが言った。


「黙れ」


 軍保安局の男が睨む。


 五日後。


 東部。


 臨時軍政庁。


 カミラは頭の中で、その三つを繰り返した。


 公開審理ではない。


 正式な裁判でもない。


 前線に近い臨時機関へ移し、移送中か空襲か暴動か病気か、どの組織の責任とも断定できない方法で消すつもりだろう。


「移送車両は?」


 国家保安局の女が尋ねる。


「軍が用意する」


「医療担当は?」


「必要ない」


「この状態で長距離移送するなら必要だ」


 カミラは女を見る。


「保護してくれるのではなかったか」


「黙れと言った」


「保護下の重要人物を、医師なしで東部へ送る。国家保安局は、その決定へ署名するのか」


 女は答えない。


 監察院の副監察官が、封書を奪うように確認する。


「移送前の健康診断を要求する」


「時間がない」


「移送まで五日ある」


「軍の決定だ」


「では、軍が死亡責任を負うと書け」


 軍保安局の男が睨み返す。


 カミラは目を閉じそうになるのを堪えた。


 四つの組織は、また互いを疑い始めた。


 時間は五日。


 自分が生き残るためではない。


 資料がどこへ渡ったのか、彼らに確信させないための五日だ。


「最後に一つ」


 カミラが言った。


「誰に許可を得て話している」


「四人全員だ」


「何だ」


「私が死ねば、監察記録の複写が公開される」


 四人の視線が集まる。


「どこにある」


「一か所ではない」


「誰が持っている」


「私を最初に殺した組織以外へ届くようにしてある」


 それは、完全な嘘ではなかった。


 完全な真実でもない。


 カミラ自身、いまどの記録が残り、誰の手へ渡ったのか、すべてを把握しているわけではない。


 コンラートへ渡した書状。


 アルムロイトで確認した帳簿。


 ヴィクトルへ届いた可能性のある断片。


 レオンが持っているかもしれない記録。


 どれが生きているのか分からないからこそ、敵にも分からない。


「虚勢だ」


 軍保安局の男が言った。


「なら、試せばいい」


 カミラは四つの印章を見る。


「ただし、最初に私を殺した組織は、残りの三つから真っ先に疑われるだろうな」


 誰も答えなかった。



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