第九十五部 生きる場所を選ぶ者と、生きて戻る方法を探す者の話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 名前を差し出さず、名前で国を迷わせる話
青いインクの連絡所で朝を迎えたレオンは、寝台の横へ置かれた椅子を見た。
ニーナは座ったまま眠り、壁へ頭を預けている。首が不自然な方向へ傾き、起きれば確実に痛いと言うであろう姿勢だった。
昨夜、レオンが中継所へ一人で向かおうとしたため、ニーナは寝台の横、ガレスは扉の前で見張ることになった。
「起きているなら、逃げるな」
扉の前からガレスの声がした。
「起きていたのか」
「お前が目を開けた時から」
「気配を消すな」
「賞金首狩りだったからな」
「元だろう」
「お前も元王子か」
「そこは、いまでも王子として使いたい者がいる」
「金貨千枚も現役だ」
「それは忘れろ」
「一生忘れん」
ニーナが小さく身じろぎする。
「……うるさい」
「起きたか」
「首が痛い」
「言っただろう」
「誰のせい?」
「椅子で寝ると決めたのは、お前だ」
「誰かが逃げようとしたからでしょう」
ニーナは首を押さえながらレオンを見る。
「夜中に、もう一度出ようとした?」
「していない」
「本当に?」
「ああ」
「少し信用する」
「まだ少しか」
「実績が足りない」
ガレスが立ち上がる。
「同衾監視は役に立ったようだな」
「同衾してない!」
ニーナの声が大きくなる。
「同じ部屋で寝ただけだ」
レオンが言う。
「お前が説明すると、余計に怪しい」
「なぜだ」
「二人とも、朝から顔を赤くするな」
「赤くしてない」
二人の声が重なる。
ガレスは深く息を吐いた。
「元気で何よりだ」
◇
連絡所の女が三枚の紙を持って入ってきた。
「ヴィクトルから追加の返事だ」
レオンは寝台から降りようとしたが、ニーナが肩へ手を置く。
「座ったまま」
「話を聞くだけだ」
「では、座って聞いて」
反論する意味がないと判断し、レオンは寝台の端へ座った。
一枚目には、古い公衆浴場を改修した中継所の簡単な見取り図が描かれている。
荷物用の門。
職員用の通路。
地下の排水路。
「カミラは、ここにいるのか」
「まだ分からない。次の移送へ使われる可能性があるだけだ」
「何のための図だ」
「施設の仕組みを確認するためだ。監察局、軍保安部、党倫理委員会が別々の鍵を持ち、対ザクセル部門は車両を出す」
ガレスが紙を見る。
「命令を一つ盗んでも、門は開かない」
「全部の鍵を奪えば」
レオンが言う。
「一人で?」
ニーナが尋ねた。
「仮定だ」
「仮定から危ない」
「話が進まない」
女は二枚目を置いた。
「ヴィクトルの見立てでは、カミラを力で連れ出すこと自体は不可能ではない」
レオンの目が変わる。
「なら」
「最後まで聞け」
紙には、救出後に起こることが記されていた。
軍は、武装反乱組織による襲撃と発表する。
監察局は、カミラが職務中に得た記録を持ち逃げしたと主張する。
党倫理委員会は、亡国の王子と結託した反革命行為と認定する。
対ザクセル部門は、国外勢力による工作として処理する。
「捕まえている間は互いに邪魔をするのに、逃げられた時だけは協力するの?」
ニーナが尋ねた。
「責任を負いたくない時、人はよくまとまる」
ガレスが答える。
「国は面倒ですね」
「だいたい、そうだ」
三枚目には、ヴィクトルからの問いが一つだけ書かれていた。
――カミラ・パヴェルを、一人の人間へ戻すために使える名前を挙げよ。
「使える名前?」
ニーナが紙を覗き込む。
「彼女を知る者だ」
レオンは答えた。
監察局の元同僚、調査を受けた坑夫、配給台帳を見た者、印刷工、イタリカで監察官としての職務を知る者、アルムロイトで彼女と接触した者。
「一人では足りない」
ガレスが言う。
「ああ」
「一人の証言なら、一人を消せば終わる」
「では、十人?」
ニーナが尋ねた。
「十人を同じ場所へ集めれば、一度に消される」
レオンは紙を見た。
同じ証言を、別々の場所へ置く。
カミラを殺しても、記録を焼いても、別の場所から同じ事実が現れるようにする。
「政府がカミラを隠したいなら」
レオンは低く言った。
「隠せないほど、名前を増やす」
連絡所の女が目を細める。
「続けろ」
「監察局へは、監察官としての正式な記録を出す。軍には、彼女の調査が軍事案件だったと認めさせ、党側には正式な審査を要求する者を作る」
「対ザクセル部門は」
「国外へ漏れることを恐れる」
レオンは答えた。
「なら、国外でもカミラの名前を出す」
「誰が」
ガレスが尋ねる。
レオンは少し黙った。
「俺だ」
ニーナの表情が険しくなる。
「自分を渡すの?」
「違う」
「昨日は、交換材料になると言った」
「今日はならない」
「本当に?」
「身体ではなく、名前を使う」
「名前でも危険でしょう」
「ああ」
「では」
「だから、一人で使わない」
レオンは紙を裏返した。
「俺が生きていることは、賞金首の手配書として広まっている。だが、俺自身の言葉は、まだどこにも出していない」
亡国の王子。
帝国の賞金首。
各国が利用したい名前。
「俺が正式に、カミラ・パヴェル監察官の調査と拘束について証言すれば、彼女を単なる内部犯として処理することは難しくなる」
「亡国の王子と結託したと言われる」
「俺だけならな」
坑夫の証言、元監察官の証言、配給台帳の写し、印刷所が持つ記録、ガレスたちへ出された賞金首依頼を、異なる経路から同時に出す。
「一つを潰せば次が現れ、監察局が隠せば軍へ渡り、軍が消せば党側へ出る。党が止めれば国外へ流す」
「喧嘩させるのか」
「互いに、誰がどの証拠を持っているのか分からなくする」
「国を迷わせる?」
ニーナが尋ねた。
レオンは頷いた。
「牢を破る前に、国を迷わせる」
「ずいぶん大きく出たね」
「一人で行くよりは、生存率が高い」
「それを最初から覚えて」
「努力する」
「実行」
「ああ」
ガレスは見取り図を指で叩いた。
「国を迷わせても、カミラがどこへ動くかを読めなければ意味がない」
「お前には読めるか」
「軍の車両と護送兵の癖なら分かる。監察局と党の役人が混じれば、もっと遅くなる」
「ニーナは?」
レオンが尋ねる。
「何ができる?」
「移送されている人が、どんな怪我や薬を必要とするか考える。医療物資の動きから、拘束者を運んだ日が分かるかもしれない」
ニーナは中継所の見取り図を見る。
「それから、助け出したあとに治療する」
「まだ助け方も決まっていない」
「だから、先に準備する」
「俺は」
レオンが言い掛ける。
「名前と剣」
ガレスが答えた。
「ただし、剣は最後だ」
「皆で勝手に決めるな」
「一人で決めないと約束したでしょう」
ニーナの言葉に、レオンは口を閉じた。
「分かった。俺は名前と、必要になった時の剣を使う」
「よろしい」
「患者の役割ではないな」
「患者であることは変わらない」
◇
「レオンの名前を出したら」
ニーナが尋ねた。
「リュカリオンの生き残りや、昔の家臣にも危険が行く?」
レオンの手が止まる。
「可能性はある」
「誰か、生きているの?」
「分からない」
あの日、誰がどこまで逃げ延びたのか、レオンは知らない。
王族も、家臣も、兵士も、ほとんどが死んだと聞かされているが、その死を自分の目で確かめたわけではなかった。
「俺が正式に生存を宣言すれば、死んだと思われている者や、王家と関係があった者まで洗い直される」
「では、勝手に出せないね」
簡単な言葉だった。
だが、自分の名も命も、自分一人で好きに使えると思ってきたレオンには重い。
「それでも、全員へ確認する方法はない」
「全員に聞かなくても、危険を減らす方法は探せるでしょう」
「時間が掛かる」
「また、それ」
「カミラも待っている」
「だから、急いで準備する。急いで一人になるんじゃなくて」
レオンは答えなかった。
誰かのため。
そう言えば、相談せずに自分だけで決めることも、正しく見えてしまう。
「声明は、まだ出さない」
レオンは言った。
「では?」
「ヴィクトルへ戻る」
連絡所の女が顔を上げる。
「本人へ会うつもりか」
「会えるなら。無理なら、青いインクの経路を逆に辿り、この案を確実に本人へ届ける」
「経路を知る者は少ない」
「だから、お前たちの案内が要る」
「信用できると?」
「できるかどうか確かめるためにも、俺一人では行かない」
ニーナが少しだけ頷いた。
「正式に名前を出す前に、ヴィクトルと証言の置き場所を決める。複数の写しを作り、異なる送り先へ預け、決めた時刻に同時に出せるようにする」
「一人で持たない?」
「ああ」
「なら、少し信用する」
「まだ少しか」
「実績を増やして」
「生きて?」
「生きて」
◇
ガレスは外套の内側から、古い依頼書の切れ端を取り出した。
レオンを捕らえれば金貨千枚。
依頼主の名はなく、仲介印も、ありふれた商会のものへ偽装されている。
「これも使え」
「よいのか」
「俺たちを使い捨てた者へ辿り着くためだ」
「ミアへ帰る前に?」
ニーナが尋ねた。
「ああ」
「また、会える顔になるまで待つの?」
ガレスは嫌そうに顔をしかめる。
「覚えていたのか」
「忘れないよ」
「森の者みたいだな」
「知らないけど」
ガレスは依頼書を卓上へ置いた。
「会える顔になるまでではない」
「では?」
「会ってから、どういう顔になるか決める」
ミアが許すか、怒るか、会いたくないと言うか。
それは、ガレス一人では決められない。
「少し成長したね」
「確認するな」
「皆、同じことを言う」
入口側では、オルドとラウルも話を聞いていた。
「俺たちは、どこまで同行すればよい」
オルドが尋ねる。
「行きたくないなら、ここで別れていい」
「そうではない」
ラウルが続けた。
「俺たちも、誰に雇われたのか知りたい。金貨千枚へ目が眩んだのは事実だが、最初から使い捨てるつもりだった者へ、何も聞かず帰るつもりはない」
まだ完全な仲間ではない。
互いに傷を負わせ、捕らえ、脅した関係でもある。
それでも、それぞれの理由で同じ紙の周りへ集まり始めていた。
◇
レオンは白い紙を一枚取り、自分の名前を書いた。
レオン・ヴァン・リュカリオン。
長い間、その名は自分を殺すための値札だった。
亡国の王子。
帝国の賞金首。
生きたまま捕らえれば金貨千枚。
誰かに利用されるくらいなら、死んだ方がよいと思い、顔を隠してロドと名乗り、自分の名を自分から遠ざけた。
だが、いま書く名前は、自分を差し出すためではない。
「何を書くの」
ニーナが隣から覗き込む。
「まだ全部は決めていない」
「最初の一行は決まったね」
「ああ」
「怖い?」
レオンは、自分の名を見る。
「少し」
「少し?」
「かなり」
「よろしい」
「嬉しそうに言うな」
「正しく言えたから」
レオンは次の一行を書いた。
――カミラ・パヴェル監察官の拘束と、彼女が保持していた記録について、私は証言する。
そこで筆を止める。
「続きは?」
ニーナが尋ねた。
「ヴィクトルと話したあと、皆で決める」
自分で言うと、少し奇妙だった。
だが、悪くはなかった。
「では、次はどこへ行く」
ガレスが尋ねる。
「青いインクの次の連絡所だ」
「一人で?」
ニーナが確認する。
「お前とガレスも来い」
「患者を連れて?」
「患者は俺だ」
「分かっているなら、よろしい」
ガレスが依頼書を畳む。
「牢を破る前に、国を迷わせるか」
「ああ」
「成功すると思うか」
「分からない」
「珍しいな」
「だが、一人で剣を持って行くよりはましだ」
ニーナが頷いた。
「それでいい」
カミラは、まだ戻っていない。
居場所も、次の移送日も分からない。
助け出すための扉は、どこにも開いていない。
それでも、そこへ至る道だけは、三人の間へ初めて形を持って現れていた。
◇
西の森では、レイラ・ヴァン・リュカリオンが、自分の名を新しい記録の最初へ書いた。
その名は王位を求めるためでも、失った国だけを取り戻すためでもなく、自分で選んだ場所へ残る意思を示すために使われた。
東の連絡所では、レオン・ヴァン・リュカリオンが、自分の名を最初の証言へ書いた。
その名は自分を商品として差し出すためではなく、剣だけでは救えない女を生きて戻す道を作るために使われた。
妹は、兄一人を生きる理由にする道から離れ始めた。
兄は、自分一人を犠牲にする道から離れ始めた。
二人はまだ会えず、互いがどこにいて、誰と歩き、何を選んだのかも知らない。
それでも、同じ失われた王家の名を、過去へ戻るためではなく、これから生きる者のために使い始めていた。
森の入口には、焼けた板が掲げられている。
表には。
――ここにいる。
裏には。
――ここにいた。
そして、その下には、これから帰ってくる者の名前を書くための余白が、まだ残されていた。
──第九十五部 了
──第五章 了




