第九十五部 生きる場所を選ぶ者と、生きて戻る方法を探す者の話 ① 朝の光と、大樹の根元へ運ばれたフィン
レイラが目を覚ました時、窓の外にはすでに朝の光が差していた。
昨夜の火は消えていたが、風が吹くたびに焦げた屋根から灰が舞い、治療小屋の薄い板壁へ細かな音を立てて当たっている。焼けた木と煮詰めた薬草、血を洗った水の匂いが混じり、昨日まで人が住み始めたばかりだった集落を、まるで別の場所のように変えていた。
寝台の脇には、水差しと苦い薬の入った木椀が置かれている。
その向こうでは、リューリックが椅子へ腰掛けたまま、目を閉じていた。
「リューリック」
レイラが呼ぶと、すぐに目が開いた。
「おはようございます、レイラ殿下。御気分はいかがでございましょう」
「身体が重く、少し熱があるようです」
「正直に仰っていただけたことへ、まず安堵いたしました」
「いつも正直です」
「昨夜は、五度ほど大丈夫と仰せでした」
「その時は、大丈夫だと思っていました」
「殿下の御判断と御身体の状態には、かなりの隔たりがございます」
レイラは反論しようと身体を起こしたが、視界が一度大きく揺れた。
すぐにリューリックの手が背へ添えられる。
「ゆっくりお願いいたします」
「一人で起きられます」
「承知しております。倒れられた場合に備えているだけでございます」
「それは、一人で起きていることになりますか」
「殿下の御意思で起きておられますので」
便利な解釈だった。
レイラは水を飲みながら、リューリックの新しい上衣を見る。昨夜の血まみれの服は替えられていたものの、左袖の内側には新しい布が巻かれているらしく、肘の辺りだけが僅かに膨らんでいた。
「怪我をしたのですか」
「掠り傷でございます」
「見せてください」
「すでにネリス殿の治療を受けております」
「私にも見せてください」
リューリックは短く息を吐き、左腕の袖を捲った。
矢が掠めた傷は深くなかったが、昨夜の彼が完全に無傷だったわけでもない。
「何も言いませんでしたね」
「戦闘中に御報告する必要のない傷でございました」
「戦いが終わったあとも」
「殿下が倒れられましたので、そちらを優先いたしました」
「私ばかりです」
「何がでございましょう」
「守られているのは」
レイラは、血が滲んだ布を見る。
「あなたは八人を斬り、怪我をし、それでも私をここまで運んでくださいました」
「私の務めでございます」
「務めだけですか」
リューリックはすぐには答えなかった。
「殿下へ刃を向けた者に対し、務めだけで剣を振るったとは申し上げられません」
「怒っていたのですか」
「はい」
迷いのない返事だった。
「同じことが起きれば、私は再び斬ります。敵が八人ではなく二十人であれば、二十人を斬り伏せます」
「私が止めてと言っても?」
「殿下と住民の御命が脅かされている間は、御命令へ従えない場合がございます」
「騎士なのに?」
「騎士であるからこそでございます」
リューリックは、倒した敵のために言い訳をしなかった。
剣を向けた者を斬った。
そうしなければレイラや住民が殺されていた以上、そこに迷いを持ち込むつもりはないのだろう。
「では、私も謝りません」
「何をでございましょう」
「あなたに人を斬らせたことをです」
昨夜、南側を止めてほしいと頼んだのはレイラだった。
「私が守ってくださいとお願いし、あなたは守ってくださいました。その血を見たあとで、怖かったからと責任をすべてあなたへ押し付けるのは違うと思います」
「殿下が背負われる必要はございません」
「全部は背負いません」
レイラは、昨夜サリエルに言われた言葉を思い出した。
「ですが、何も見なかったことにもいたしません」
リューリックは、しばらくレイラを見つめていた。
「それで十分でございます」
「あなたも、怪我を隠さないでください」
「この程度は」
「第一条です」
「第一条?」
「痛みを隠さない」
東にいるはずの兄が、どこかで同じ規則に苦しめられているとは、レイラは知らない。
「誰が決めた条文でございましょう」
「いま、私が決めました」
「私だけに適用されますか」
「いいえ。私にも適用します」
「それは守られますか」
「努力します」
「実行をお願いいたします」
「皆、同じことを言いますね」
戸が開き、薬草を抱えたネリスが入ってきた。
「朝から騎士の傷まで診ようとするんじゃないよ。まず自分の薬を飲みな」
「もう少しあとでは」
「フィンを見送りに行くのだろう」
レイラの表情が変わる。
「もう、時間ですか」
「日が高くなる前に森へ返す」
ネリスは木椀を差し出した。
「飲んだら行くよ。歩けなければ、リューリックに運ばせる」
「歩けます」
「途中で倒れたら?」
「倒れません」
「本当に?」
その問いを使う者が、また一人増えた。
◇
フィン・アレドの身体は、集落の北側に立つ大樹の根元へ運ばれた。
白い布へ包まれた胸元には、森人が旅立つ者へ持たせる細い枝と、昨夜守られた子どもたちが集めた木の実が置かれている。
帰還者、外縁の森人、人間の家族、怪我を負った警護役まで、歩ける者は全員集まっていた。
レイラも自分の足で立っていたが、背後にはリューリックがいる。支えられずに立つことと、誰の助けも拒むことは違うのだと、昨夜ようやく理解し始めていた。
「名を呼べ」
サリエルが告げた。
「フィン・アレド」
最初にガルムが呼び、警護役たちが続く。
「フィン・アレド」
セドと子どもたちも、覚えたばかりの名を声に出した。
エナは少し遅れながらも、最後まではっきり呼んだ。
レイラも続く。
「フィン・アレド」
一人の名が幾つもの声を通り、朝の森へ残っていく。
サリエルが枝を置き、ガルム、ドルン、ルーウェン、エルナが続いたあと、セドが半分焼けた入口の板を持って進み出た。
「これに、フィンの名前を書いてもいい?」
表には、子どもたちが書いた歪んだ文字がある。
――ここにいる。
「入口の板だろう」
サリエルが言う。
「でも、昨日までここにいた」
セドは板の裏側を見せた。
「こっちは空いてる」
サリエルはしばらく板を見たあと、短く答えた。
「書け」
「綴りが分からない」
「私が書きます」
レイラは炭を受け取り、板の裏へフィン・アレドと記した。
その下には、子どもたちにも読める言葉を添える。
――ここにいた。
エナが表と裏を交互に見た。
「いる人と、いた人?」
「はい」
「もういないのに、書くの?」
「もういないからこそ、消さないために書きます」
「雨で消えたら?」
「また書きましょう」
「盗まれたら?」
「また作ります」
セドが板を受け取り、胸へ抱えた。
「では、なくならない」
「板は、なくなるかもしれません」
「でも、名前は皆が覚えた」
「はい」
名簿を奪われても、名前のすべてまで持ち去られるわけではない。
フィンの身体が大樹の根元へ横たえられ、森人たちが枝葉を重ねていく中、レイラはそのことを忘れないよう、何度も胸の中で名前を呼んだ。




