第九十四部 王女は、帰る場所を守るために剣を取る話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 一人増えても、救出にはならない話
青いインクの連絡所へ三通目の紙が届いたのは、その日の夕方だった。
カミラの現在地は記されていなかったが、次の移送に使われる可能性がある中継所が一つだけ書かれている。
古い公衆浴場を改修した保管所。
表向きは軍と監察局が共同で使う医療物資の中継所だが、実際には拘束者を短時間だけ移し替える場所としても使われているらしい。
次の移送日は不明で、カミラが必ず通るとも限らない。
それでも、一つの場所が分かった。
レオンは紙を二度読み、卓上へ戻した。
「寝る」
ニーナが顔を上げる。
「早いね」
「疲れた」
「夕食は?」
「あとで食べる」
「いま食べて」
「眠い」
レオンはそれだけ答えると、部屋の奥に置かれた寝台へ視線を向けた。
ニーナは、その横顔を疑うように見つめる。届いた紙を読み終えてから、レオンは扉の位置と見張りの交代ばかり確認していた。
いま急に眠ると言い出したことも含め、あまりに怪しい。
「では、私も一緒に寝る」
部屋が静かになった。
レオンが、ゆっくりとニーナを見る。
「……どこで?」
「だから、一緒に」
答え掛けたニーナも寝台を見た。
狭い。
どう見ても一人用であり、二人で横になれば、身体が触れない方が難しい。
自分が何を口走ったのか理解したニーナの頬へ、遅れて赤みが広がった。
「違う。同じ部屋で寝るという意味」
「同じ部屋なら、最初からそう言えばいいだろう」
「急いでいたから、言葉を間違えたの」
「俺は何も言っていない」
「顔が言ってる」
「どんな顔だ」
「一緒に寝るのかと考えた顔」
「お前が言ったんだろう」
二人とも相手から視線を逸らしながら、なぜか妙に姿勢を正した。
長椅子へ座っていたガレスが、深く息を吐く。
「監視方法を決めるだけで、なぜ同衾の相談になる」
「なってない!」
ニーナが即座に否定した。
「声が大きい」
「ガレスが変な言い方をするからでしょう」
「変な言い方を最初にしたのはお前だ」
「一緒に寝るというのは、同じ部屋で見張るという意味で」
「言い直しても遅い」
レオンが口元へ手を当てた。
「笑った?」
「笑っていない」
「では、こっちを見て」
「必要がない」
「二人とも顔を赤くするな。話が進まん」
ガレスが呆れたように言った。
「本気で見張るなら、ニーナは寝台の横の椅子、俺は扉の前だ。王子は寝台から降りた時点で捕まえる」
「俺は囚人か」
「夜中に抜け出す予定の患者だ」
「まだ抜け出すとは言っていない」
「では、早く寝ても問題ないね」
ニーナは寝台脇へ椅子を引き寄せた。
「私は、ここで寝る」
「椅子で?」
「レオンが逃げなければ、寝台より安心できる」
「それは褒められているのか」
「監視されているだけだ」
ガレスが答えた。
レオンは二人を見比べ、諦めたように息を吐く。
「分かった。まず夕食を食べる」
「最初からそうして」
ニーナは椅子を元の位置へ戻したが、頬の赤みだけは、しばらく消えなかった。
◇
夜半を過ぎた頃、連絡所は静まり返っていた。
炉の火が小さく鳴り、見張りの足音が一定の間隔で廊下を通り過ぎる。オルドとラウルは隣室で眠り、ニーナは宣言どおり寝台脇の椅子に座っていたが、いつの間にか壁へ頭を預けて眠っていた。
膝には毛布が掛かっている。
誰が掛けたのか、本人は知らない。
レオンは寝台の上で目を開けた。
しばらく動かず、ニーナの呼吸が規則正しいことを確かめる。
次に、扉の近くを見る。
ガレスは長椅子へ横になり、外套を顔まで被っている。
眠っているように見えた。
レオンは音を立てずに身体を起こし、右肩へ負担を掛けないよう上衣を着た。剣帯を腰へ回し、長靴を履く。
救出へ向かうつもりではない。
中継所の場所を見るだけだ。
警備の人数、出入口、使われている車両、移送の癖を確かめ、誰にも接触せず戻る。
一人なら目立たない。
ニーナもガレスも、オルドもラウルも、青いインクの連絡所も巻き込まずに済む。
そう自分へ言い聞かせ、扉へ手を掛けた。
「どこへ行く」
暗闇からガレスの声がした。
レオンは振り返らなかった。
「便所だ」
「剣を持って?」
「危険かもしれない」
「長靴まで履いているな」
「冷える」
「上衣の留め具も、外へ出る時の結び方だ」
「結び方まで見るな」
ガレスは外套を下ろし、長椅子の上で身体を起こした。
最初から眠っていなかったらしい。
「退け」
「嫌だ」
「様子を見に行くだけだ」
「どこを」
「中継所だ」
「一人で?」
「その方が目立たない」
「捕まった時も?」
「捕まらない」
「賞金首狩りに捕まった奴の言葉とは思えんな」
「同じ失敗はしない」
「別の失敗をする」
声を抑えていたつもりだったが、ニーナが椅子の上で身じろぎした。
「……レオン?」
眠そうに目を開け、扉の前へ立つレオンと、剣帯と長靴を順番に見る。
表情から眠気が消えた。
「行かないって約束したよね」
「救出へ行くとは言っていない。場所を見るだけだ」
「一人で?」
「ああ」
「捕まったら?」
「捕まらない」
「捕まったら?」
ニーナは同じ問いを重ねた。
「俺一人で済む」
「済まない」
「なぜだ」
「カミラって人が一人捕まっている」
ニーナは椅子から立ち上がった。
「そこへ、あんた一人増えても救出にはならない」
ガレスも長椅子を離れる。
「亡国の王子が中継所へ現れれば、警備が増える。移送経路も変わり、カミラはさらに見つからない場所へ送られる」
「顔は隠す」
「顔だけ隠して、歩き方、右肩の傷、剣の癖まで隠せるのか」
「それでも、現場を見なければ」
「青いインクの者へ調べさせればいい」
「時間が掛かる」
「一人で行けば、捕まるのが早くなるね」
ニーナが言った。
「俺には、捕まっても使い道がある」
「何?」
「賞金首であり、亡国の王子でもある。俺を捕らえれば、帝国でも王国でも、どこかが価値を付ける」
ニーナの顔から表情が消えた。
「カミラと交換できるかもしれない」
乾いた音が響いた。
ニーナが、レオンの頬を平手で打っていた。
ガレスまで僅かに目を見開く。
「痛い」
「少し?」
「かなり」
「よろしい」
「診察ではないぞ」
「治療でもない」
「では」
「怒った」
ニーナの声と、打った手が震えていた。
「自分を商品にして、別の商品と交換することを、助けるって言わないで」
「商品では」
「自分で交換材料になると言ったでしょう」
「それでカミラを出せるなら」
「その人は喜ぶの?」
「喜ばない」
「怒る?」
「かなり」
「何て言う?」
レオンはカミラの顔を思い出した。
冷たい目。
静かな声。
自分一人を助けるために、誰を犠牲にした。
お前はそれを救出と呼ぶのか。
「馬鹿だと言う」
「もっと言うでしょう」
「ああ」
「分かっているのに、また勝手に決めるの?」
「分かっていても」
「そこが駄目」
ニーナはレオンの剣帯を掴んだ。
「死んでもよいと思っている人は、死なないと言いながら、死ぬ方へ準備する」
「死ぬつもりではない」
「自分が捕まれば済むと思っている。ほとんど同じでしょう」
レオンは答えられなかった。
自分一人ならよい。
国が滅びたあとも、戦場でも、カミラを追う時も、その言葉で誰にも相談せず、自分の命を勝手に使ってきた。
「第二条」
ニーナが言う。
「勝手に一人で行かない」
「第三条」
「患者を置いていかない」
「俺も患者か」
「右肩」
「かなり痛い」
「第一条も違反」
ガレスが腕を組む。
「第四条もだ」
「余計なことを言わない、だろう」
「自分が交換材料になるという発言は、かなり余計だ」
「お前まで規則を使うな」
「便利だからな」
レオンは、剣の柄へ置いていた手を離した。
「それでも、中継所を見る必要はある」
「ああ」
ガレスが答える。
「だが、今夜ではない」
「なぜ」
「情報が届いたその日に動けば、連絡網のどこから漏れたかを相手へ教えることになる」
「餌かもしれない?」
ニーナが尋ねた。
「ヴィクトルが騙されていない保証もない。わざと中継所の情報を流し、誰が動くか確かめている可能性もある」
レオンは、卓上へ置かれた紙を見る。
「では、また待つのか」
「待つ」
ニーナが答えた。
「何もしないで?」
「準備する」
「何を」
「まず、肩を治す」
「それは救出の準備か」
「途中で剣を落とさないため」
「何でも治療へ持っていくな」
「私は、それしかできないから」
「それだけではない」
レオンは、考えるより先に答えていた。
ニーナの目が僅かに動く。
「何ができるの」
「俺を止めた」
「それは」
「かなり難しい仕事だ」
ガレスが頷いた。
「同意する」
「二人で褒めても、今夜は出さないよ」
「分かっている」
レオンは剣帯を外し、長椅子へ置いた。
「一人では行かない」
「本当に?」
「皆、同じことを訊くな」
「信用がないから」
「ああ」
レオンは、今度は否定しなかった。
「分かっている」
ニーナは剣帯が完全に手から離れたことを確認し、ようやく息を吐いた。
「では、寝て」
「お前はまた椅子で寝るのか」
「逃げなければ」
「首を痛めるぞ」
「誰のせいだと思ってるの」
「では、寝台を使うか」
ニーナの動きが止まった。
レオンも、自分の言葉に一拍遅れて気付く。
「……俺は長椅子で寝るという意味だ」
「最初からそう言って」
「急いでいたから、言葉を間違えた」
「真似しないで」
ガレスが顔を覆った。
「緊張感が戻ったと思ったら、また同衾の話か」
「違う!」
二人の声が重なる。
「声が大きい」
隣室から、ラウルの眠そうな声がした。
「何かあったのか」
「何もない!」
ニーナが答える。
「では寝ろ」
オルドの声も続いた。
ガレスは扉の前へ椅子を運びながら言った。
「王子は寝台、ニーナは寝台脇の椅子、俺は扉の前。これで決定だ」
「なぜ、お前が決める」
「お前に決めさせると、夜中に出ていく」
「否定できない」
「少し成長したね」
ニーナが言う。
「確認するな」
レオンは上衣を脱ぎ、寝台へ戻った。
ニーナも椅子へ腰を下ろす。
今度は互いに妙な言葉を口にせず、少しだけ視線を合わせた。
「レオン」
「何だ」
「カミラって人を助けたいのは、分かってる」
「ああ」
「だからこそ、助けたあと、その人に怒られない方法を探して」
「難しいな」
「探して」
レオンは天井を見た。
「分かった」
「本当に?」
「皆、同じことを訊くな」
「信用がないから」
同じ答えだった。
それでも今夜、レオンは扉へ戻らなかった。
◇
西の森では、帰還者を守るため、王女が血に濡れた剣を取った。
怖さは消えず、剣も満足には扱えなかったが、背後に人がいる間だけは退かなかった。
その前では最強の騎士が、殿下と住民へ刃を向けた者を容赦なく斬り伏せた。
東の連絡所では、王子が一人で剣を持ち、扉を出ようとした。
だが、その剣は今夜、長椅子の上へ置かれた。
剣を取ることが、いつも勇気とは限らない。
剣を置くことも、いつも逃げることとは限らない。
守るために前へ立つ者と、守るためにまだ動かない者。
二人は違う場所で、自分一人の命だけでは決められない道へ、ようやく立ち始めていた。
──第九十四部 了




