第九十四部 王女は、帰る場所を守るために剣を取る話 ⑤ 人数確認と、記録が終わる前に倒れたレイラ
「人数を確認する!」
排水路の方角から、セドの声がした。
一人、二人と子どもたちが戻ってくる。
エナもいる。
最後に現れたセドは泥と煤にまみれ、その腕には入口へ掛けてあった板が抱えられていた。
――ここにいる。
片側は焼け焦げていたが、文字はまだ読める。
「全員か!」
トーマが駆け寄る。
「全員いる!」
エナは父親へ飛び付き、トーマも何も言えないまま少女を抱き締めた。
ドルンは少し離れた場所で人数を確認したあと、槍へ付いた血を拭っている。
「ドルンさん」
トーマが呼んだ。
ドルンは振り返らない。
「ありがとう」
「子どもの前で礼を言うな」
「なぜだ」
「次も助けてもらえると、勘違いする」
エナが顔を上げた。
「次は助けないの?」
ドルンの手が止まる。
「危険な時は助ける」
「では、ありがとう」
「親子で同じことを言うな」
ドルンはそう言い残して歩き去った。
火の明かりの中に、左腕の古い火傷痕だけが浮かんで見えた。
◇
捕らえた襲撃者の一人は、何も話そうとしなかった。
もう一人は口の奥に毒を隠していたが、ガルムが気付き、飲み込ませなかった。
「死ねなかった気分は」
「最悪だ」
「なら、生きて話せ」
「何を」
「名簿を誰へ売る」
男は薄く笑った。
「買う者など、いくらでもいる」
「カロ・ディーノか」
テオが尋ねた瞬間、男の目が僅かに動いた。
「知らない名だ」
「嘘だね」
「なぜ分かる」
「知らない名を聞いた者は、頭の中で一度、その音を繰り返す」
テオは答えた。
「君は繰り返さなかった」
「商人の勘か」
「帳簿を見る時の癖だよ」
男は、それ以上何も話さなかった。
だが、テオには十分だった。
◇
夜が明ける頃、被害の確認が始まった。
誰が残り、誰が負傷し、誰が別の小屋へ移ったのか。何が燃え、何が残り、誰を捕らえ、誰を逃がしたのか。
すべてを書き残す必要がある。
帰還者の一人が、不安そうに尋ねた。
「また、紙へ書くのか」
「はい」
レイラが答える。
「また盗まれたら」
「また書きます」
「また狙われる」
「その可能性はあります」
「それでも?」
レイラは、半分焼けた板を見た。
――ここにいる。
「書かなければ、今夜ここで守った方まで、最初から存在しなかったことにされます」
矢を受けた者、子どもたちを引いた者、水樽を運んだ者、火を消した者。
敵へ鍵の型を渡し、それでも最後には真実を話そうとした夜番。
「私たちが間違えたことも、守れなかったことも書きます」
「王女が失敗したことも?」
「はい」
「剣を持って、何もできなかったことも?」
隣に来ていたルーウェンが尋ねた。
「何も、というほどでは」
「一度受けて、落とし掛けた」
「見ていたのですか」
「戻った時には終わっていた。リューリックから聞いた」
レイラはリューリックを見る。
「なぜ、話したのですか」
「正確な御記録が必要かと存じました」
「そこだけ正確でなくてもよいでしょう」
「なりません」
レイラはしばらく迷ったあと、書記へ向き直った。
「剣を受けた時、腕が痺れて落としそうになったことも書いてください」
「よいのか」
「はい。それから」
もう一度、血の付いた剣と、短剣を持った男の顔を思い出す。
「怖かったことも書いてください」
「それも?」
「怖くなかったように書けば、怖くない人しか前へ立てないように見えます」
怖かった。
逃げたかった。
自分には無理だと思った。
それでも、背後に人がいた。
「怖くても剣を取ったと、書いてください」
書記の筆が、紙の上を動いた。
◇
レイラは、記録が終わる前に倒れた。
正確には、椅子へ座ろうとして膝へ力が入らず、リューリックに受け止められた。
「大丈夫です」
「本日、何度目でございましょう」
「数えていません」
「四度目でございます」
「まだ少ないですね」
「増やすおつもりですか」
「そういう意味ではありません」
「ネリス殿」
「聞こえているよ」
ネリスがレイラの手首を取り、次に額へ触れる。
「身体が冷えているのに、熱が上がり始めてる。魔法を二度使ったからだね」
「二度だけです」
「回数で決まる話じゃないよ」
「子どもと、ハルトさんが助かりました」
「そうだね」
「なら」
「今度は、お前が寝る番だ」
「まだ全員の名前を」
「確認は終わっている」
「本当に?」
「サリエルへ訊きな」
少し離れた場所から、サリエルが答えた。
「全員の所在は確認した。負傷者は七名、死者は一名だ」
レイラの表情が止まる。
「誰ですか」
「北側の見張りだ」
子どもの避難路を守り、矢を受けた森人。
レイラは、その名前を知っていた。
昨日、名簿へ書いたばかりだった。
「そうですか」
何かを言わなければならないと思った。
しかし、言葉が出てこない。
「レイラ」
サリエルが呼ぶ。
「守ると決めることは、誰も死なないと約束することではない」
「分かっています」
「本当に?」
レイラは、すぐには答えられなかった。
「……分かろうとしています」
「なら、まず眠れ」
今度は反論しなかった。
リューリックに身体を支えられ、治療小屋へ向かう途中、半分焼けた板が目へ入る。
ここにいる。
一人は、もういない。
それでも、書いた名前まで消してはならなかった。
◇
森から逃げた襲撃者は、夜明け前に南側の石道へ辿り着いた。
そこで待っていた男へ、短く報告する。
「名簿の残りは取れなかった」
「証人は」
「始末できなかった」
「中の協力者は」
「生きている」
「役に立たんな」
「だが、森人と人間は互いを疑い始めた」
「王女は」
「剣を取った」
待っていた男が、僅かに笑う。
「それなら、十分だ」
「なぜ」
「王女が森を守ると宣言すれば、王女を利用したい者と、森から追い出したい者が、さらに増える」
襲撃の目的は、人を奪い、証人を殺すことだけではなかった。
守ったという事実さえ、新しい争いの種へ変えるためだった。




