第九十四部 王女は、帰る場所を守るために剣を取る話 ④ 排水路を進む子どもたちと、長くは続かなかった戦闘
北の排水路では、子どもたちが細い縄を握り、一列で進んでいた。
先頭には外縁集落の少女、中央にエナ、最後尾には板を抱えたセドがいる。
「縄を離さないで!」
セドが何度も声を掛ける。
「言われなくても持ってる!」
「言わないと、忘れる人がいる!」
「誰?」
「俺!」
排水路は途中で太い根を越えるため、木板を渡しただけの細い足場へ変わっていた。普段なら子どもでも渡れるが、煙で目が痛み、足元も見えにくい。
「一人ずつ渡って!」
最初の三人が渡り、次にエナが板へ足を置いた。
「前を見て!」
「父さんは?」
「あとで来る!」
「本当?」
「来る!」
セドには、トーマが無事かどうか分からなかった。
それでも、いまはそう答えるしかない。
エナが板の中央へ進んだ時、後ろの樹脂小屋が崩れ、大きな音が響いた。
驚いたエナが振り返り、足を滑らせる。
「エナ!」
身体が足場の横へ落ち、右手だけが縄に残った。
下には水の少ない石の溝があり、子どもの身体でも無事では済まない高さがある。
「離さないで!」
セドが縄を掴んだ。
しかし、エナの重みで自分の身体まで前へ引かれる。先に渡った子どもたちが反対側から縄を握り、必死に引いた。
「痛い!」
「持って!」
「無理!」
その声が、離れた場所にいるレイラへ届いた。
煙の向こうに、落ち掛けているエナと、縄を引く子どもたちが見える。
走っても間に合わない。
その時、淡い金色の糸が現れた。
エナの手と縄、縄を持つセド、反対側から引く子どもたち。すでに全員が、一本の縄を通してつながっている。
レイラは両手を伸ばした。
「少しだけ、支えて」
金色の糸が、エナの指から麻縄へ絡んだ。
新しいつながりを作ったのではない。いま必死に握られている手と縄の関係を、ほんの一瞬だけ強く支える。
エナの手から滑り掛けていた縄が止まり、指がもう一度握り直された。
「引いて!」
セドと子どもたちが一斉に引く。
エナの身体が少しずつ上がり、足場の縁へ近づく。セドが腕を伸ばして手首を掴み、板の上へ引き上げた。
「捕まえた!」
エナが安全な場所へ戻った瞬間、レイラの視界が白くなった。
「殿下!」
身体が傾き、リューリックの腕に支えられる。
指先だけではなく、唇も、身体の中心も冷たくなっていた。
「大丈夫です」
「その言葉は、もう信用できません」
「はい。私も、そう思います」
自分から認めたレイラへ、リューリックは外套を掛けた。
「もう、力をお使いにならないでください」
「ですが、ほかにも」
「子どもたちは助かりました」
「はい」
「残る者は、我々が助けます」
◇
北の森から三本の矢が飛んだ。
一本目は襲撃者の脚へ、二本目は肩へ、三本目は火瓶を持つ手元へ命中する。瓶は投げられる前に砕け、湿った地面で油が燃え上がった。
「伏せろ!」
低い声とともに、木々の間からルーウェンが現れた。
続いてエルナ、ガルム、追跡へ出ていた警護役たちが戻ってくる。
「戻ったのですか」
「見れば分かる」
「名簿は?」
「追っていた馬には、何も載っていなかった。囮だ」
ルーウェンは次の矢を弓へ番えた。
「いつ気付いたのですか」
「森が静かすぎた」
遠い場所にいながら、同じ異常へ気付いて引き返してきたのだ。
「遅れた」
「まだ、終わっていません」
「ああ」
放たれた矢が、襲撃者の網を地面へ縫い付ける。
エルナは子どもたちの避難路へ向かっていた弓使いの前へ降り立った。
「子どものいる場所へ向かわれましたね」
声は普段と変わらず、静かな丁寧語だった。
それでも男は一歩下がる。
「弓を置いてください」
「退け」
「置いてください」
「撃つぞ」
「では、先に右肩を使えなくいたします」
エルナの矢が、男の衣服だけを貫き、背後の木へ縫い付けた。
右腕が上がらなくなる。
「次は外しません」
男は弓を落とした。
ガルムは南側へ走りながら声を張る。
「退路を閉じろ!」
警護役たちが左右から森道へ入り、敵の逃げ道を塞いでいく。
水樽、倒した荷車、テオが作らせた狭い通路。襲撃者たちは、入る時に使った道を、そのまま逃げるためには使えなかった。
「西へ走るな!」
テオが叫んだ。
「そこには油が撒かれている!」
襲撃者の一人が火を投げようとする。
ドルンの槍が外套を貫き、腕を木へ縫い付けた。
「人間を入れた森は腐る!」
男が叫ぶ。
「王女へ道を開いたから、こうなった!」
帰還者たちが互いの顔を見る。
森人、人間、混血者。襲撃者が最初から言わせたかった言葉だった。
「聞かないでください!」
レイラが声を上げる。
身体の芯は冷え、リューリックに支えられなければ立っていられない。それでも、黙っているわけにはいかなかった。
「この者たちは、私たちを分けるために来ています!」
「事実だ! 人間を入れたから、名簿を盗まれた!」
「違います!」
「森人だけなら、狙われなかった!」
「違います!」
レイラはリューリックの腕へ手を置き、倒れないよう身体を支えた。
「この方々は、森へ帰ろうとしたから狙われました。森人だからでも、人間と一緒だからでもありません」
捕らえた者を逃がしたくない。
証言を残したくない。
家族を取り戻させたくない。
「人として、自分の名前を取り戻したから狙われたのです!」
帰還者たちが顔を上げる。
「だから、ここで分かれてはなりません」
森人、人間、混血者、被害者、協力者、裏切り者。
敵が作った欄へ、自分たちから分かれて入ってはならない。
◇
戦闘は、それほど長く続かなかった。
襲撃者は九人。
二人が無傷で捕らえられ、三人が負傷した。一人は森の外へ逃れ、残る三人は煙と炎へ紛れ、あらかじめ用意していた別の退路から姿を消した。
仮設保護集落では、食料庫の半分が焼け、記録を置く小屋の屋根が崩れた。
治療用の布と薬草は、テオが早い段階で移させていたため無事だった。
帰還者の一人が矢を受け、警護役にも深い傷を負った者がいる。名簿の鍵を渡した夜番は、腹部の刺傷と肩の矢を受けながらも、治療小屋でまだ生きていた。
「裁くのは、血を止めたあとだよ」
ネリスは傷を縫いながら言った。
協力者であり、裏切り者でもある。
それでも今は、治療を必要とする患者だった。




