第九十四部 王女は、帰る場所を守るために剣を取る話 ② 転がされた水樽と、エナを探す声
南側の進入路へ水樽が転がされた直後、暗い森から六人の男が飛び出した。
顔を布で覆い、二人は弓、一人は短剣を持っている。残る三人が広げていたのは、重りを付けた縄と、人間を包み込める大きさの網だった。
「やはり、連れ去るつもりです」
レイラが呟く。
「殿下は後方へ」
リューリックは答えを待たず、最初の男へ向かった。
低い姿勢で踏み込んできた男が短剣を振り下ろす。リューリックは剣で受けるのではなく、刃の側面を横から払い、相手の手首を跳ね上げた。
返す剣を喉へは向けず、柄で顎を打つ。よろめいた男の身体を反転させ、水樽へ叩き付けた。
別の男が横から網を投げる。
リューリックは身をかわしたが、網の狙いは最初から彼ではなかった。
「ハルト!」
家族の名を呼ばれた男へ、重り付きの縄が飛ぶ。
肩、腕、脚へ網が絡み、身体を締め上げた。森側に立つ男が太い綱を引くと、ハルトの身体が地面を滑り始める。
「離せ!」
近くの帰還者が綱を掴んだものの、二人まとめて引きずられていく。
その時、レイラの目に淡い金色の糸が見えた。
ハルトを縛る網、網を閉じている結び目、森側へ引かれる綱。すべてが、すでに一本の仕組みとしてつながっている。
レイラは結び目へ向け、手を伸ばした。
壊そうとしたのではない。網が閉じている場所を探し、その締まりをほんの僅かだけ緩めようとした。
金色の糸が結び目へ集まり、硬く締まっていた縄の輪が指一本分だけ広がる。
「いまです!」
ハルトが両腕を開いた。
肩から縄が滑り、隣の帰還者が網を剥がす。森側の男が引いた綱だけが、急に力を失ったように地面へ落ちた。
「何をした!」
「ほどける場所へ触れただけです」
答えながら、レイラは指先から熱が抜けていくのを感じた。
まだ立っていられる。視界も消えてはいない。
「殿下」
「本当に、まだ大丈夫です」
リューリックがレイラへ視線を向けた、その一瞬を狙って別の男が短剣を投げた。
リューリックは振り返りざまに剣で弾き、硬い音とともに短剣が地面へ落ちる。
「後ろへお下がりください」
今度の声は、頼みではなかった。
レイラは反論せず、一歩だけ下がった。ただし、戦場を離れるほど遠くへは行かなかった。
◇
集落の北側では、セドが子どもたちを集めていた。
「手を離さないで!」
火と煙、大人たちの怒鳴り声、泣く子ども。どこへ逃げればよいか分からない者たちを、セドは昼間まで遊び場にしていた樹脂小屋の裏へ連れていく。
「こっち!」
「どこへ行くの?」
「水路!」
「暗いよ!」
「明るい方は燃えてる!」
小屋の裏には、樹脂を洗い流すために使われていた浅い排水路があった。大人が立って歩くには狭すぎるが、子どもであれば身体をかがめて通ることができる。
セドは細い縄を入口へ結び付けた。
「一人ずつ入って、この縄と、前の人の服を持って!」
「怖い」
「俺も怖い!」
強がることはしなかった。
「でも、ここにいるよりはいい!」
子どもたちは一人ずつ水路へ入っていく。
最後まで入口に残った少女は、集落の板を抱えていた。
――ここにいる。
「それは置いて!」
「嫌!」
「重いだろ!」
「なくなる!」
少女は板を離そうとしなかった。
セドは一瞬だけ迷い、板を受け取った。
「俺が持つから、先に行って!」
少女が排水路へ身体を入れた直後、背後の樹脂小屋へ火矢が突き刺さった。乾いた屋根材へ炎が走り、梁が軋む音がする。
セドも板を抱えたまま、急いで水路へ潜り込んだ。
◇
「エナはどこだ!」
トーマが叫んだ。
「セドが子どもたちと北の排水路へ連れていった!」
テオが答えると、トーマはすぐさま走り出した。
しかし、ドルンがその腕を掴む。
「待て」
「娘がいるんだ!」
「だから、そのまま走るな」
「放せ!」
「お前が敵を引き連れて行けば、子どもの逃げ道を教えることになる」
トーマの動きが止まった。
ドルンは槍を握り直す。
「私が先へ出る。お前は後ろから来い」
「なぜ、そこまで」
「子どもがいるからだ」
「人間の子でも?」
ドルンの目が鋭くなる。
「いま、その話をするのか」
槍先を敵が現れた方角へ向けた。
「父親なら娘を迎えに行け。ただし、死ぬな」
トーマは一度だけ頷き、ドルンの後ろへ続いた。




