第九十四部 王女は、帰る場所を守るために剣を取る話 ① 眠れなかった夜と、名簿を追って森へ出た者たち
名簿が盗まれた夜、仮設保護集落で眠れた者は、ほとんどいなかった。
家族の名前、最後にいた港、乗せられた船、逃げてきた道、そこで誰を見て、どのような薬を使われたのか。ようやく自分たちが人として書き戻した情報が、いまは名も知らない誰かの手へ渡っている。
帰還者たちは小屋の扉を閉じても眠れず、炊事場の火の周りへ集まっていた。一人になることを恐れ、名前を呼ばれることを恐れながら、それでも再び名前を失うことを、何よりも恐れている。
セドと子どもたちが作った板は、集落の入口へ掛け直されていた。
――ここにいる。
夜風を受け、歪んだ文字が小さく揺れている。
「火を落とした方がよいのではありませんか」
レイラが尋ねた。
仮住まいの外周では、警護役たちが弓を手に歩いている。火は帰還者たちに安心を与える一方で、森の外から集落の位置を知らせる目印にもなる。
「暗くすれば、不安が増す」
サリエルが答えた。
「敵へ位置を知らせてしまいます」
「この集落がどこにあるかは、すでに知られている」
盗まれた名簿には、保護された者の名だけではなく、仮住まいの設置場所や、そこへ出入りした者について推測できる情報も含まれている。敵が何も知らないと考える方が危険だった。
「それでも、今夜また来るでしょうか」
「分からぬ」
サリエルは、安心させるための言葉を加えなかった。
「分からないものを、来ないと決めるな」
レイラは静かに頷いた。
森議会の長は、いま危険がないとも、必ず守れるとも、誰一人失わないとも言わない。その厳しさは恐ろしかったが、少なくとも聞き心地のよい嘘ではなかった。
◇
名簿を追って森へ出たのは、ルーウェン、エルナ、ガルム、そして外縁警護を担う五人だった。
盗人の足跡は集落の南側から古い森道へ続いていたが、追跡隊が出てから一刻半を過ぎても、連絡は一度も届いていない。
「遅いですね」
「まだ一刻半だ」
サリエルが答える。
「ルーウェンたちなら、戻る時を自分たちで決める」
「心配ではないのですか」
「心配だと言えば、早く戻るのか」
「戻りません」
「ならば、見張りを減らす理由にはならぬ」
正しすぎる答えは、ときに感情を置く場所をなくす。
リューリックはレイラの半歩前へ立ち、森の暗がりを見続けていた。右手はいつでも剣を抜ける位置へ置かれ、視線だけが木々の間を静かに動いている。
「何か聞こえますか」
「北側で鳥が二羽。小動物が一匹。集落内を歩く見張りが三名分でございます」
「それだけですか」
「はい」
レイラも耳を澄ませた。
森は夜でも音を持っている。虫の羽音、葉の擦れる音、獣の足音、遠くを流れる水。そのすべてが重なり、森が生きていることを知らせている。
しかし、南側だけは異様に静かだった。
「静かですね」
「静かすぎます」
リューリックの答えを聞いた瞬間、レイラの背筋へ冷たい感覚が走った。
「サリエル」
呼び掛けるよりも先に、リューリックが剣を抜いた。
「伏せてください!」
風を裂いた一本の矢が、炊事場の柱へ突き刺さる。
鏃の後ろには油を染み込ませた布が巻かれていたが、火は付いていなかった。代わりに、甘く鼻の奥へこびりつくような、強い薬草の匂いが広がる。
「息を止めな!」
ネリスが叫んだ。
「眠り薬だよ! 火へ近づけるんじゃない!」
続けて二本、三本と矢が飛んだ。今度は先端に火が付いている。
狙われたのは人が眠る小屋ではなく、食料庫、名簿を保管していた小屋、治療用の布と薬草を置く倉だった。
殺すことだけが目的ではない。火と煙で集落の者を外へ動かし、混乱の中で誰かを連れ去ろうとしている。
「水を!」
誰かが叫び、帰還者たちが一斉に火の方へ走ろうとする。
「全員で火へ行かないで!」
テオの声が、それを止めた。
「燃えているんだぞ!」
「だからです!」
テオは炊事場の横に置かれた水樽を指した。
「水樽は二つだけ運んでください。残りは南側の道へ転がし、進入路を狭くします。食料車は横倒しにして壁へ。薬箱は石造りの炊事場へ移し、油壺は火から離してください!」
テオは剣も弓も持たないが、集落に何が何個あり、どこに置かれているかを把握していた。
「歩ける者が物を運び、戦える者は前へ出すぎないでください! 家族ごとに固まり、一人では動かないで!」
敵は帰還者を殺すだけではなく、生け捕りにしようとしている可能性がある。混乱に任せて森へ散れば、一人ずつ奪われる。
「自分の名前を呼ばれても、外へ出ないでください!」
テオがそう叫んだ直後、南の森から声が響いた。
「サフィラ・ロウェン!」
長い時間を掛けて自分の名を選び直した老女が、反射的に顔を上げた。
「港倉庫で白い鳥を見た、ハルト・フェイン!」
別の男が立ち上がろうとする。
「妻と息子を返してほしければ、南の道へ出ろ!」
名簿へ書いた名前、家族、証言のすべてを、敵は知っている。
「出ないでください!」
レイラが叫んだ。
「妻が、あいつらのところにいるかもしれない!」
ハルトの声が震えている。
「妹も、息子も!」
「それが本当だという証拠はありません。名前を知っているのは、名簿を盗んだからです!」
「でも、本当に捕まえているかもしれない!」
「はい」
否定はできなかった。
「ですが、いま一人で出れば、あなたまで奪われます」
「では、どうしろと!」
「ここにいてください」
「それだけか!」
「はい!」
レイラは逃げずに答えた。
「いまは、それしか言えません。ですが、あなたを一人にはしません」
ハルトの怒りも、恐怖も、正しかった。家族の名前を盗まれ、その名を敵から呼ばれた者へ、冷静でいろと命じることなどできない。
それでも隣にいた帰還者が、ハルトの腕を掴んだ。
「行くな」
「放せ」
「一緒に探すんだろう」
もう一人が反対側へ立つ。
ハルトはしばらく抵抗していたが、やがて力を失うように膝をついた。




