第九十三部 帰還者の名簿は、宝石より高く売れる話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 生きている監察官は、四つの牢へ同時に入れられる話
青いインクの連絡所へ二通目の返事が届いたのは、昼を過ぎた頃だった。
紙は小さく、折り目が多い。表側には乾いた薬草の値段しか書かれていないが、水へ軽く浸すと裏側から斜め三本の青い線と文字が浮かび上がった。
「ヴィクトルの字だ」
レオンが言う。
以前、印刷所で見た細く、急がず、無駄のない字。
連絡所の女は紙を卓上へ置いた。
「読む前に確認する。聞いたあと、勝手に動かないと約束できるか」
「内容による」
「では、読まない」
女が紙を畳もうとし、レオンが手を伸ばすより早くニーナが手首を掴んだ。
「レオン」
「何だ」
「約束して」
「聞いてから」
「聞いたあとでは遅いから、先に言ってる。一人で行かない、それだけでいい」
旅の第二条。
レオンは紙を見る。
カミラが生きていることまでは分かった。この先、場所が記されていれば、自分が何をするか、自分でも信用できない。
「一人では行かない」
「本当に?」
連絡所の女が尋ねる。
「皆、同じことを訊くな」
「信用がないからだろう」
ガレスが言う。
「お前まで」
「俺は、お前を捕まえたことがある。信用しない理由は十分だ」
「それは逆では」
「約束したね」
ニーナが確認する。
「ああ」
「では、読んで」
女は紙を開いた。
◇
最初の一行は、前の返事と同じだった。
――カミラ・パヴェルは生存している。
確認日は七日前。
その先に、レオンが欲しかった居場所は書かれていない。代わりに四つの組織名が並んでいた。
人民監察局。
軍保安部。
党倫理委員会。
対ザクセル特別工作部門。
「何だ、これは」
「カミラを拘束している者たちだ」
連絡所の女が答える。
「四か所へ分けられているのか」
「違う。一人の女を、四つの機関が別の理由で拘束している」
監察局の記録では、職務権限を停止された監察官。
軍保安部では、軍事情報を持つ重要証人。
党倫理委員会では、革命理念へ重大な疑義を生じさせた審査対象。
対ザクセル工作部門では、国外工作を妨害する危険人物。
「同じ人間へ、四つの名前を付けてるの?」
ニーナが言う。
「そうだ」
「どれが本当?」
「全部、書類上は本当だ」
「そんな」
「制度は、一人の人間を一つの理由だけで縛るとは限らない」
ガレスが紙を見る。
「命令を一つ盗んでも、出せないな」
「監察局の解放命令を作れば軍が止め、軍の移送命令を作れば党側が監察対象だと言う」
「全部を偽造すれば」
「四つの命令が同時に動けば、偽造だと気付かれる」
女は紙の次の一行を読む。
――正式な訴追は、まだ行われていない。
「罪がないのか」
「罪を決めれば、公開の審理が必要になる」
「公開できない?」
「カミラが持っていた記録が法廷へ出るからだ」
消された配給台帳。
坑夫の証言。
武器流通。
偽の通行許可。
革命の名を使った国外工作。
「有罪にできないのではない。公に裁けない」
「なら、いつまで」
「決められていない」
「裁判もなく?」
「保護隔離、職務保全、重要証人の安全確保。言葉はいくらでもある」
「牢ではない、と役所は言う」
「本人は出られない」
ニーナが言った。
「なら、牢でしょう」
政治の言葉を知らなくても、それだけは分かる。
◇
「場所は」
「書いていない」
「ヴィクトルは知っているのか」
「一部だけ」
「一部?」
「移送が繰り返されている」
同じ施設へ十日以上置かず、監察局の名で動かし、軍の車両へ載せ、党側の建物へ入れる。次に医療移送として別の場所へ動かす。
「なぜ、そこまで」
「一つの機関がカミラと長く接触することを、互いに恐れている」
「監視している側まで信用し合っていないのか」
「国家は、大きくなるほど自分を信用しなくなる」
ヴィクトルらしい言葉だった。
「なら、移送中を狙う」
レオンが椅子から立ち上がり、ニーナがすぐ上衣を掴んだ。
「座って」
「一人では行かない」
「皆で行けばいいという意味じゃない」
「移送中なら、施設よりは」
「最後まで読め」
ガレスが言う。
「ヴィクトルが、そこへ気付かないと思うか」
紙の最後には、少しだけ強い青い字が残されていた。
――移送車を襲えば、カミラ・パヴェルは政治的拘束者ではなく、武装反乱組織へ救出された逃亡者となる。
――政府は、彼女の証言を反政府宣伝と呼べる。
――彼女を助けた者だけではない。彼女へ情報を渡した坑夫、医師、印刷工、元監察官が処刑される。
――彼女の記録は、反乱組織の偽造文書として処理される。
レオンは紙を握った。
「では、何もするなと?」
その下に一行だけ書かれていた。
――私一人を出して、十人を殺すつもりか。
カミラの言葉だった。
ヴィクトルが書いたのか、本人から届いた言葉なのかは、紙だけでは分からない。
それでも、声ははっきり思い出せた。
「言いそうだな」
「本人の言葉?」
ニーナが尋ねる。
「似たことを言われたことがある」
「何て答えたの」
「それでも助ける、と」
「いまも?」
レオンはすぐには答えられなかった。
カミラ一人のために、十人、二十人、印刷所、協力した坑夫、証人、医師を犠牲へするのか。
「分からない」
人前で、助け方が分からないと認めた。
ガレスが僅かに眉を上げる。
「珍しいな」
「何が」
「剣を抜く前に、分からないと言った」
「殴るぞ」
「第四条」
ニーナが言う。
「そこへ使うのか」
「余計」
◇
「ヴィクトルは、何をしろと」
レオンが紙を見る。
「最後にある」
連絡所の女が読み上げる。
――カミラを助けたいなら、まず彼女を国家が隠せない名前へ戻せ。
「名前は、カミラ・パヴェルだ」
「政府の紙では、四つに分けられている」
ニーナが言う。
権限停止中の監察官。
重要証人。
倫理審査対象。
危険人物。
「全部を、一人のカミラって人に戻す?」
女が頷く。
「彼女が何を調べ、なぜ拘束され、誰がその記録を恐れているのかを公へ出す」
「場所を広めれば殺される」
「だから段階が要る」
ヴィクトルの青いインク。
坑夫。
監察局内部。
ザクセル。
カラドリン。
複数の場所へ同じ事実を少しずつ流す。
「カミラを殺せば、証拠を消すためだと誰もが疑う状態を作る」
「それまで牢へ置いておけと?」
「生かしておくためだ」
「安全とは限らない。拷問されているかもしれない」
ニーナの表情が変わる。
「怪我は」
「分からない」
「食事は?」
「分からない」
「薬は?」
「分からない」
「分からないことばかり」
「だから調べている」
ニーナは紙を見る。
政治犯。
監察官。
国家安全保障。
どれも診療所では使わない言葉だった。
「でも、生きているなら患者になるかもしれない」
「患者?」
「助け出したあと、治療が要るかもしれないでしょう」
「まだ助け方も」
「だから準備する」
ニーナはレオンを見る。
「何もできないと言って座るのと、今すぐ一人で走るのは、同じくらい役に立たないよ」
「厳しいな」
「どちらもやりそうだから」
「否定できない」
「少し成長した」
「確認するな」
◇
ガレスは四つの組織名をもう一度見た。
「護送を動かす者が多すぎる」
「何か分かるのか」
「兵だけなら兵の癖があり、監察官なら監察官の道を使い、党の役人は兵より体面を気にする」
「四つが混じれば?」
「全員、自分の命令を優先したがる」
「弱点になる?」
「同時に動かせれば」
ガレスは答えた。
「命令が多い隊は強いように見えるが、何か起きた時、誰の指示を聞くかで止まる」
レオンは紙を見る。
「国を迷わせる」
「何だ」
「いや」
まだ言葉にするには早い。
だが、剣で全員を倒す以外の道が僅かに見えた。
「俺は政治が嫌いだ」
「知ってる」
ニーナが答える。
「政治も、たぶん俺が嫌いだ」
「それは知らない」
「両想いではないな」
「第四条」
「いまのは必要な確認だ」
「不要」
ガレスが紙を畳む。
「嫌われていても使え」
「お前に言われるとは」
「俺は金貨千枚へ嫌われた」
「自分で手放したんだろう」
「それでも惜しい」
「正直でよろしい」
ニーナが言う。
「嬉しくない」
◇
レオンはカミラの手紙を取り出した。
何度も折り、胸元へ入れていた紙。
生きて戻ってこい。
私も戻る。
約束をした女は、いま四つの名前へ分けられ、一つの牢ではない場所へ閉じ込められている。
剣で扉を壊せば助けられるかもしれない。
同時に、カミラが守ってきた記録も、彼女を信じた者も、すべて殺すことになる。
「助けたい。でも、助け方が分からない」
誰に聞かせるでもなく言った。
ニーナが隣へ座る。
「なら、探す」
「簡単に言うな」
「簡単ではないよ」
ニーナは手紙へ触れず、レオンの手首へ指を置いた。
「分からないまま、一人で行くよりはいい」
「時間が掛かる。その間に」
「生きてる」
「次の返事までに」
「それでも」
ニーナはレオンを見る。
「死んで助けるより、生きて困って」
馬車の中でも言われた。
まず生きて、それから、ちゃんと困って。
「管理指示か」
「そう」
「難しいな」
「実行」
「ああ」
ガレスが向かい側へ座った。
「俺も行く」
「どこへ」
「次の連絡先だ」
「カミラを助けたいのか」
「まだ、そこまでは知らん。ただ、俺たちを使い捨てた依頼と、この女を消そうとしている紙が、どこかでつながっている可能性がある」
「それだけ?」
「お前一人で行かせれば、金貨千枚分の騒ぎを起こす」
「もう賞金は」
「まだ消えていない」
「そこを期待するな」
「期待ではなく確認だ」
オルドとラウルも入口側から話を聞いている。
まだ仲間ではなく、目的も行き先も完全には同じではない。
それでも、一人だけが立ち上がり、ほかを置いていく一行ではなくなっていた。
◇
西では、帰ろうとした者たちの名簿が盗まれた。
名は、助けを求め、家族を探し、傷を治し、帰る場所を作るために書かれた。
だが、同じ紙は逃げた者を捕らえ、家族を脅し、証人を殺すためにも使える。
東では、カミラ・パヴェルという一人の女が、四つの機関から四つの名前を与えられていた。
名は存在を残すと同時に、人を分け、縛り、牢へ閉じ込める。
それでも、名を書かないという道は選べない。
書かなければ、消す者の思いどおりになる。
名簿は盗まれ、偽の名簿が残された。
だが、仮住まいの入口には、子どもたちの歪んだ文字が残っている。
――ここにいる。
紙が奪われても、その言葉までは、まだ奪われていなかった。
──第九十三部 了




