第九十三部 帰還者の名簿は、宝石より高く売れる話 ⑤ 偽の名簿の重さと、南の石道で待つ男
偽の名簿を調べるほど、盗まれたものの重さが分かった。
家族の情報。
薬物依存から回復途中の者。
人身売買の船を見た者。
カランの兵士の顔を覚えている者。
カラベルへ運ばれた人の名を聞いた者。
帰還路。
途中で休んだ宿駅。
シルヴァス側の案内役。
「全員が狙われます」
レイラが言う。
「全員ではない。より高く売れる者からだ」
テオは答えた。
「高く?」
「証人、家族を持つ者、薬を必要とする者、再び従わせやすい者」
声は冷静だったが、頁を持つ指には力が入っている。
「薬を必要とする者の情報は、治療記録へ分けました」
ネリスが言う。
「本物の名簿には詳しく書いていない」
「それでも、治療中という印はあった。それだけで買う者には十分だ」
薬を断った者へ再び与える。
家族の名を使って脅す。
逃げた者へ、元の番号を突き付ける。
「私たちが名前を書いたから」
レイラは声を押し殺した。
「違う」
テオがすぐに否定する。
「書かなければ、守れなかった」
「ですが」
「盗んだ者が悪い」
「守れなかった責任は」
「僕にもある」
「テオだけでは」
「なら、全員にある」
テオはレイラを見る。
「でも、名前を書いたことを間違いにはしないでくれ。それを間違いにすれば、カロのやり方が正しかったことになる」
名を隠せ。
家族を書き残すな。
傷を知らせるな。
誰が生き、どこへ帰ったのかも残すな。
そうすれば人は孤立する。
「紙は人を殺す。でも、紙がなければ助けられない人もいる」
「では、どうすれば」
「盗まれない紙を作るのではない。そんなものはない」
複写。
別々の場所へ預ける記録。
本人が持つ札。
家族が覚える名前。
証言する者。
「盗まれても、名前を取り戻せるようにする。一冊へ全部を預けず、一人へ全部を任せない」
その言葉は、紙だけの話ではなかった。
小屋の外では、騒ぎへ気付いた帰還者たちが起き始めている。
誰の名が盗まれたのか。
また連れ戻されるのか。
森の中にまで敵がいるのか。
恐怖が火より速く広がる。
「皆へ話します」
レイラが言った。
「名簿が盗まれたことを?」
ドルンが尋ねる。
「はい」
「隠さないのか」
「隠して、あとから知られれば、もう誰も紙へ名前を書かなくなります」
「怖がるぞ」
「はい」
「逃げる者もいる」
「それでも、自分の名前が誰の手へ渡ったかもしれないことを、本人だけが知らない状態にはしません」
サリエルはしばらくレイラを見た。
「行け。ただし、守れると約束するな」
「はい」
「必ず取り戻すとも」
レイラの胸が痛む。
「はい」
「いま分かっていることだけを話せ」
「分かりました」
「本当に?」
レイラは小さく息を吸った。
「分からないことは、分からないと申し上げます」
サリエルは頷いた。
◇
帰還者たちは、昼間ここにいると書いた板の下、炊事場の前へ集められた。
レイラは全員の顔が見える場所へ立つ。
「名簿が、今夜盗まれました」
最初の一言で声が震えそうになったが、止めなかった。
ざわめきが広がる。
「誰が!」
「外へ出たのか!」
「家族の名も?」
「港のことも書いた!」
「また来るのか!」
トーマがエナを自分の後ろへ隠し、名を選んだ老女は胸元を押さえた。
「いま警護役が追っています。ですが、誰が盗んだのか、どこまで運ばれたのかは、まだ分かりません」
「守ると言った!」
男の一人が声を上げる。
「名を残せば、探せると!」
「はい」
「その名を盗まれた!」
「はい」
「では、書かなければよかった!」
否定できない痛みだった。
レイラは逃げずに男を見る。
「そう思われて当然です」
「謝って済むか!」
「済みません」
「なら、何をする!」
「まず、誰の情報がどこまで盗まれたかを確認し、危険が高い方は今夜中に居場所を変えます。警護も増やします」
「また紙へ書くのか」
「書きます」
強く答える。
男の顔へ怒りが浮かぶ。
「また盗まれる!」
「かもしれません」
「なら!」
「ですが、名前を書かなければ、奪われなかったことにはできません」
レイラは名を選んだ老女、家族の名を三つ書いた男、エナとトーマを見る。
紙へ書かなくても、その人は存在し、家族を探し、傷を抱え、薬を必要とする。
「盗まれることが怖いからと、もう一度、皆さんの名を消すことはしません」
「では、どう守る」
「一冊だけにしません」
テオがレイラの隣へ立つ。
「本人へ渡す記録、家族の記録、森議会の記録、治療の記録。全部を分ける」
「また紙か」
「紙だけではない。名前を覚える人を増やす」
その時、セドが入口の板を外した。
――ここにいる。
子どもたちと書いた板。
「これも記録。字、汚いけど」
何人かが僅かに息を吐く。
「消されたら、また書く。盗まれたら、もう一枚」
簡単な言葉だった。
それだけで失った恐怖が消えるわけではない。
それでも老女が、自分で選んだ名を小さく口にした。隣の者がその名を繰り返す。
男が探している妻の名前を言い、続けて息子と妹の名を告げた。
別の者が、聞いた名を繰り返す。
一人ずつ、盗まれた名を自分たちの口へ取り戻していく。
レイラも聞いた名前を一つずつ呼んだ。
名簿は盗まれた。
だが、名前まですべて持ち去られたわけではなかった。
◇
森の南側、外縁から離れた古い石道で、一人の男が包みを別の馬へ渡していた。
受け取った男はその場で名簿を開かず、表紙、重さ、綴じ方だけを確認する。
「全部か」
「原本だ」
「複写は」
「森に偽物を置いた」
「いつ気付く」
「早くて朝だ」
実際には、すでに気付かれている。
だが、二人は知らない。
「値は」
「誰へ売るかによる」
受け取った男は答えた。
「宝石なら買う者は一人だが、この名簿は違う」
逃亡者を取り戻したい者。
証人を消したい者。
家族を脅したい者。
シルヴァスへ不信を広げたい者。
「同じ名前を、何度でも売れる」
包みが別の馬の鞍袋へ収められる。
「清書屋へ?」
「まずは写す」
「原本は」
「そのあとだ」
馬は森から遠ざかる道へ走り出した。




