第九十三部 帰還者の名簿は、宝石より高く売れる話 ④ 夜半の異変と、本人が森へ入ったのかという問い
異変に気付いたのは、夜半を少し過ぎた頃だった。
最初に騒いだのは警護役ではなく、セドだった。
「違う」
仮住まいの中央へ声が響き、夜番の森人が振り返る。
「何がだ」
「紙」
セドは名前を保管する小屋の前に立ち、手には一冊の名簿を持っていた。
「なぜ持ち出した」
「中へ灯りが見えたから」
「入るなと」
「扉、開いてた」
夜番の顔色が変わる。
扉の鍵は壊れず、蝶番にもこじ開けた跡はない。名簿も箱の中へ収まり、表紙、紐、封印のすべてが、見た限りでは変わらなかった。
「何が違う」
セドは頁を開いた。
「エナ」
指したのは、家族関係を記した頁だった。
エナ。
森人の血を持つ帰還者。
同行者、人間、トーマ。
「父って書いた。昨日、見てた」
紙には同行者としか書かれていない。
「書き間違いでは」
「違う。この人も」
別の頁には、森で呼ばれた名を選んだ老女の記録があった。
本人が選ぶまで待つ、という文は消え、代わりに生来の氏名不詳と書かれている。
「こんな書き方じゃなかった」
夜番が名簿を受け取る。
見た目は正しく、字も整い、頁数も百二十一頁ある。
だが、人の話を聞きながら書いた言葉が、役所の言葉へ置き換えられていた。
「ガルムを呼べ。サリエルも、テオもだ」
セドは名簿の表紙を見る。
「これ、俺たちの紙じゃない」
◇
テオは眠りから起こされたとは思えない速さで、名簿を確認した。
表紙を撫で、綴じ紐を見て、紙を灯りへ透かし、一頁ずつ匂いまで確かめる。
狭い保管小屋にはレイラ、リューリック、ルーウェン、サリエル、ガルム、ドルン、ネリス、エルナが集まっていた。
「偽物か」
ガルムが尋ねる。
「そうだね」
「いつ入れ替えられた」
「夕食のあとには本物でした。百二十一頁で、最後だけ逆に結んだ紐も確認しました」
レイラが答える。
「頁数は同じだ」
「紐も」
「似せてある」
テオが結び目へ爪を入れると、糸が僅かに割れた。
「森の麻糸へ油を塗り、撚りを潰している。遠くから見れば、僕の糸に見える」
「鍵は」
「複製されている」
「いつ」
「蝋で形を取れば、短い時間で作れる」
「誰が鍵へ触れた」
ガルムが夜番へ尋ねる。
「保管担当と書記、それから」
「それから?」
「夕方、紙を北の記録庫へ移すと言った使者が来た」
「誰の使いだ」
「森議会の書記の名を出した」
「木札は」
「持っていた」
「どこにいる」
「確認へ行くと言うと、明朝改めて来ると」
ドルンが低く吐き捨てる。
「内側の名を知っている」
「森の者とは限らない」
テオは名簿の最後の頁を開く。
そこには、北部記録庫へ複写を送るため原本を一時移動、と書かれ、担当者として森議会で古い記録を補修していた書記の名が記されていた。
「この者は、二年前に死んでいる」
サリエルが言った。
小屋の空気が、さらに冷たくなる。
「死者の名義」
「はい」
テオの声から僅かな軽さが消えた。
「正しい役職、正しい書式、正しい移送理由、そして死んだ者の名」
紙を閉じる。
「カロ・ディーノだ」
◇
「本人が森へ入ったのか」
ルーウェンが尋ねる。
「分からない」
「手口だけで決めるな」
「決めてはいない。ただ、この紙は単に盗む者の仕事ではない」
テオは偽の名簿を卓上へ置いた。
盗むだけなら箱を空にすればよく、燃やすなら火を付ければよい。
「これは、盗まれたことへ気付かせないための紙だ」
「なぜ、内容まで書き換えた」
レイラが尋ねる。
「偽の名簿を、あとから本物として使えるようにするためだ」
テオはエナの頁を示した。
「家族を同行者へ変え、本人が選ぶまで待つを氏名不詳へ変える。曖昧な関係を、役所が処理しやすい形へ直している」
「処理しやすい?」
「人を、もう一度荷物へ戻す書き方だ」
カロ・ディーノ。
清書屋。
汚い嘘を、正しい書式へ直す男。
「本物は、誰かの手に渡った」
レイラの声が低くなる。
「もう森の外へ出ている可能性が高い」
「追えるか」
ガルムが尋ねる。
「持ち出した者の足は追える」
エルナが答える。
「ただし、途中で別の者へ渡していれば」
「道が分かれる」
ルーウェンが言う。
「何人出せる」
「すぐ動けるのは八人」
「私も行きます」
レイラが言った。
「行かない」
ネリス、リューリック、ルーウェンの声が重なる。
「なぜですか」
「魔法の反動が残っている」
ネリスが言う。
「森道を走れる状態ではございません」
リューリックが続ける。
「追跡の邪魔になる」
最後にルーウェン。
「もう少し違う言い方があるでしょう」
「事実だ」
「私にもできることは」
「ある」
テオが答えた。
「何ですか」
「何が盗まれたかを、正確に確かめる」
「名簿です」
「名簿では足りない。誰の名、どの家族、どの証言、どの港、どの病気、何が複写され、何が消されたかを調べる」
偽の名簿には、本物にあった情報のすべてが残されているわけではなく、必要なものだけが抜かれている。
つまり、盗んだ者が欲しかった情報も、書き換えられた場所へ現れる。
「カロの目的を読む。それが殿下にできる仕事だ」
レイラは外へ向かうエルナたちを見た。
追いたい。
自分で取り戻したい。
だが森道を知らず、体力も戻り切っていない。同行すれば、誰かが自分を守るため足を止める。
「分かりました」
「本当に?」
ルーウェンが尋ねる。
「行きません」
「その顔は、行きたい顔だ」
「行きたいです」
「なら、なぜ残る」
「邪魔になるからです」
自分で言うと、かなり腹が立った。
それでも以前なら、必要とされたい気持ちだけで付いていったかもしれない。
「必ず戻ってください」
レイラはエルナを見る。
「できない約束は」
ルーウェンが言い掛ける。
「あなたには言っていません」
エルナは弓を背負い直した。
「戻る努力をいたします」
「それでは足りません」
「以前、同じやり取りを見た気がします」
「では、学んでください」
「承知しました」
エルナは、ほんの少しだけ笑う。
「名簿を持って戻ります」
そして、ガルム、ルーウェン、警護役たちとともに夜の森へ消えた。




