第九十三部 帰還者の名簿は、宝石より高く売れる話 ② 家族の名前を書く帰還者たちの手
次に問題となったのは、名前だった。
テオが作った紙には、現在使っている名、生まれた時の名、家族から呼ばれていた名、外で使っていた名、偽の通行札へ書かれた名、探している家族、最後に会った場所、傷、服用中の薬、薬物を強制的に使われた経験、書類上の死亡記録、同行者と、多くの欄があった。
「多すぎるよ」
ネリスが言う。
「必要だ」
「誰に?」
「探す側にも、治療する側にも」
「全部を同じ紙へ書けば、盗まれた時に全部知られる」
「だから保管を分ける」
「患者の薬を商人へ見せる必要はない」
「僕も見ない」
「では、同じ紙へ欄を作るんじゃない」
ネリスが炭筆で紙の中央へ線を引いた。
「名前と家族、治療、移動。三つへ分けな」
「紙が三倍になる」
「人を一枚へ詰めるから、便利すぎる紙になるんだよ」
テオは引かれた線を見た。
「便利すぎる紙は、たいてい誰かを殺す」
「分かっているなら、最初から分けな」
「分かっていても、効率を考えるのが商人だ」
「だから嫌われる」
「よく言われるよ」
テオは紙を三種類へ分け始めた。
その横で、レイラは帰還者から名前を聞いていた。
最初に座った老女は、名を尋ねられると長く黙った。
「いまお使いのお名前で構いません」
「どれが、いまなのか分からない」
「いくつあるのですか」
「森で呼ばれていた名、町で使った名、島で付けられた名」
最後の言葉だけ、声が小さくなる。
「どのお名前で呼ばれたいですか」
「分からない」
「では、いまは空けます」
「名がないように見える」
「ありません、とは書きません」
紙へ短く記す。
――本人が選ぶまで待つ。
老女は、その文字を見た。
「それで、よいのか」
「はい」
「呼ぶ時は?」
「お声を掛けます」
「不便だ」
「少しは。ですが、勝手に決めるよりはよいと思います」
老女はしばらく考えたあと、幼い頃に姉から呼ばれていた森の名を告げた。
レイラは音を間違えないよう、もう一度聞き、本人が選んだ名として紙へ残した。
◇
別の男は、家族の欄へ妻、息子、妹の三つの名前を書いた。
「生存は」
「分からない」
「最後に会った場所は?」
「妻と息子は港の倉庫、妹は船へ乗せられた」
「船の名前は」
「知らない」
「印は?」
「白い鳥」
サレーネ船団を装った偽の白い鳥。
テオの指が少しだけ止まる。
レイラは生存とも死亡とも書かず、行方不明、最後の確認場所、分離された方向という、分かることだけを記した。
「探していただけるのですか」
男が尋ねる。
「必ず見つけるとは申し上げられません」
「では、なぜ書く」
「探す時に、誰を探しているのか忘れないためです」
レイラは紙へ書いた三つの名前を見る。
男は紙を見たまま、何も言わなかった。
◇
エナは自分の名前をかなり大きな字で書き、紙の枠から少しはみ出した。その下に、トーマ、父、と書く。
「血縁、なし」
横から見ていた書記が言った。
エナの顔が曇る。
レイラは書記を見る。
「父親の欄です」
「血縁欄ではないのか」
「昨日、変えました」
テオが作り直した紙を示す。
家族として申告。
関係。
確認状況。
「血縁は別紙だ」
テオが言う。
「父と書いたことと、血がつながっていないことは同時に残せる」
「複雑だな」
「人が複雑だからね」
エナは書き終えた紙をレイラへ見せた。
「これで、父さん?」
「はい」
「紙がなくなったら?」
レイラは少し考えた。
「あなたが、そう呼ぶ限りは」
エナは安心したように頷く。
「ただし、紙もなくさないようにします」
「王女様が持つ?」
「皆で守ります」
「王女様、昨日、酒をなくしたでしょう」
周囲が静かになる。
「なぜ知っているのですか」
「皆が話してる。耳を借りようとしたって」
レイラは遠くで警護の確認をしているエルナを見た。
エルナはこちらを見ていないが、尖った耳だけが僅かに動く。
「その話は、名簿へ書かなくてよいです」
「もう書いてある」
書記が答えた。
「そちらではありません!」
大声を出したため、小屋を修繕していた者たちまで振り返った。
レイラは、もう何も言わないことにした。




