第九十二部 血が扉を開いても、残る理由までは決めない話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 父親の名は、娘を言い訳にしてよい名前ではない話
青いインクの連絡所で迎える二日目の朝、照会への返事はまだ届かなかった。
負傷した伝令は一度だけ目を覚まし、水を少し飲んで革筒が無事であることを確かめると、また眠った。
ニーナは夜明け前から順番に全員の傷を診ていた。
オルド。
ラウル。
レオン。
最後に、ガレス。
「脇腹を見せて」
「昨日診た」
「昨日と今日は違う」
「何が」
「時間」
「傷は同じだ」
「昨日より悪くなってたら、同じじゃない」
ガレスは椅子へ座り、外套を開いた。包帯の下には、仲間四人が死んだ夜に受けた深い剣傷がある。
「血は、昨日より少ない」
「なら問題ない」
「痛みは」
「少し」
ニーナが傷の縁を押すと、ガレスの顔が歪んだ。
「かなり」
「最初から言って」
「第一条は、お前たちの規則だ」
「いまは診察」
「どちらにしても逃げられないな」
ニーナが薬草を塗り、ガレスが僅かに身体を固くした時、外套の内側から小さな布包みが落ちた。
古びた赤い紐と、木を削って作られた小さな鳥。片方の翼は少し大きく、嘴は曲がり、足は三本あるように見える。上手な細工ではなかった。
ニーナが拾う。
「返せ」
ガレスの声が、普段より強くなった。
「取らない。落ちたから拾っただけ」
ニーナは木の鳥を掌へ載せたまま答え、差し出された手へ返した。
「誰が作ったの」
「関係ない」
「では、聞かない」
ニーナは包帯を巻き始め、それ以上追及しなかった。
だが、ガレスの方が木の鳥を見ていた。赤い紐を親指でなぞり、やがて自分から口を開く。
「ミアだ」
ニーナの手が少しだけ止まる。
「名前?」
「娘の」
部屋の端にいたレオンが顔を上げ、オルドとラウルも何も言わず耳を向けた。
「何歳」
「九歳だ」
「いま?」
「ああ」
「一緒に暮らしてるの」
「暮らしていない。妻の姉のところにいる」
「なぜ」
「兵だったからだ」
答えは短かった。
ニーナは包帯を巻きながら、続きを急かさず待った。
「国境の小さな砦にいた。妻とミアは、砦から半日の町で暮らしていた」
元国境兵。
戦争が始まれば最初に呼ばれ、平時も密輸人や傭兵を追う。
「冬に補給が止まった年がある。食料だけではなく、薪も薬も、兵士の給金も届かなかった」
妻が熱を出した時も、ガレスは敵が国境を越えるという情報のため砦を離れられなかった。結局、敵は来ず、町へ戻った時には妻は埋められたあとだった。
ミアは当時五歳で、母親の死後、妻の姉に引き取られた。
「軍は、未払いの給金を払わなかった」
「なぜ」
「帳簿では支払ったことになっていた」
レオンの表情が変わる。
国も軍も、紙の上では兵士へ給金を渡していたが、実際には誰かが途中で抜いた。
「訴えたか」
レオンが尋ねる。
「した」
「結果は」
「上官が替わり、帳簿もなくなった」
「それだけ?」
「俺は砦を辞めた」
正確には、辞めさせられた。
命令へ従わず、上官を疑った扱いにくい兵士として記録された。
「それから賞金首狩りを?」
「ああ」
「ミアには、何て言ってるの」
「隊商の護衛をしていると」
「嘘」
「本当の仕事もある」
「人を捕まえて売る仕事は?」
「言っていない」
「なぜ。嫌われるから?」
「……ああ」
包帯が一周する。
「最後に会ったのは」
「八か月前」
「何て言われたの」
ガレスは木の鳥を見た。
「次は、いつ帰るのかと」
「何て答えたの」
「大きな仕事が終わったら」
金貨千枚。
レオンの賞金。
「それが、俺だったのか」
「ああ」
「金貨千枚あれば、何をするつもりだった」
「家を買う」
妻の姉が暮らす町で小さな家と畑を買い、冬を越せる薪を備える。
「ミアを引き取り、学校へ行かせる。もう、仕事で何月も離れない」
「残りは」
「一生分には足りる」
一般家庭が一年生きるために必要な金は、金貨五枚から十枚ほど。金貨千枚なら、本当に一生を買える額だった。
「だから、お前を運ぼうとした」
レオンは何も返さなかった。
怒りも、理解もある。
「娘のためなら、レオンを商品にしてよかったの」
ニーナが言った。
「よいとは言わない」
「でも、やった」
「ああ」
「仲間が四人死んだ。私を殺すかもしれないと脅した。全部、娘のため?」
ガレスは、すぐには答えなかった。
「そう思っていた」
「いまは?」
「分からん」
ニーナの手が止まる。
「ミアって子は、あんたに誰かを攫ってほしいと言ったの」
「言うわけがない」
「なら、娘の名前を自分を許すために使わないで」
鋭い言葉だった。
ガレスの目がニーナへ向く。
「娘のために金が欲しかったことも、会いたかったことも、家へ帰りたかったことも悪いとは言わない。でも、ほかの人を荷物にしたことまで、娘のせいにしないで」
「娘のせいには」
「娘のためと言うたびに、少しずつ同じになる」
ガレスは反論せず、木の鳥を握る指へ力を入れた。
「分かっている」
「本当に?」
「分かろうとしている」
レオンが僅かに口元を動かす。
「どこかで聞いた言葉だな」
「余計」
ニーナが即座に返す。
「第四条」
「まだ何も」
「顔が言ってた」
「俺の顔への規制が厳しい」
重くなった空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
「ミアは、お前を待っているのか」
ラウルが壁際から尋ねた。
「知らん」
「待っていると思っていたから、木の鳥を持っているのでは?」
オルドが言う。
「これは五歳の時に作ったものだ」
「では、四年も捨てなかった」
「捨てる理由がない」
「帰る理由では」
ガレスは木の鳥を外套の内側へ戻した。
「帰るなら、何て言うの」
ニーナが尋ねる。
「何を」
「この四年、何をしていたか」
「全部は言わない」
「また嘘をつく?」
「九歳の子へ、人を攫った話をするのか」
「言い方は選べばいい。間違ったことをした、と」
「それだけで済むか」
「済まないから、言うんでしょう」
ガレスが僅かに眉を寄せる。
「お前は、自分の父親へ何でも言えたのか」
「言えなかった」
ニーナの答えは早かった。
「父さんが死んでから、言えなかったことをたくさん思い出した。だから、言える相手が生きているなら、勝手に終わらせない方がいい」
ガレスはしばらく黙った。
「許すのか」
「何を」
「俺がしたことを」
「許さない」
即答だった。
「娘がいるからといって、レオンを攫ったことも、私を脅したことも、四人が死ぬまで金を手放さなかったことも許さない」
ガレスの表情は変わらないが、言葉をすべて受けている。
「でも、娘に会いたいことまで悪いとは言わない」
「違いが分からん」
「許すことと、痛かったことを認めるのは別」
ガレスは包帯を巻かれた脇腹を見る。
「医者は、皆そうやって人を切り分けるのか」
「私は正式な医者じゃない」
「そこだけは、すぐ言うな」
「でも、傷としたことは別でしょう」
「したことが傷を作ることもある」
「なら、両方診る」
「随分と大きく出たな」
「診られないものは、分からないと言う」
ニーナらしい答えだった。
◇
レオンはガレスの向かいへ座った。
「俺を売れば、娘へ帰れると思ったのか」
「ああ」
「俺は、自分が死ねば誰かを助けられると思っていた」
ガレスが顔を上げる。
「同じだと言うつもりか」
「違う。お前は他人を使い、俺は自分を使った」
「なら違うだろう」
「どちらも、自分で勝手に誰かのためだと決めた」
レオンは肩へ巻かれた包帯を見る。
レイラのため。
国のため。
カミラのため。
そう言えば、自分の命を捨てることも正しく見えた。
「娘は、お前へ金貨千枚を頼んでいない」
「ああ」
「カミラも俺へ死ねとは頼んでいない」
ニーナがレオンを見る。
「ようやく分かった?」
「分かろうとしている」
「まだ?」
「長い癖だからな」
「実行」
「ああ」
ガレスが僅かに息を吐いた。
「王子も面倒だな」
「元だ」
「賞金は現役だ」
「そこを基準にするな」
「金貨千枚を手放したことは、少し後悔している」
ガレスが言う。
「少し?」
「かなり」
ニーナが頷いた。
「正直でよろしい」
「嬉しくない」
「皆、同じことを言うね」
◇
昼前、連絡所の女が休憩室へ入ってきた。
「照会の返事が一つ来た」
レオンが立ち上がり掛け、ニーナが肩を押さえる。
「座って」
「まだ何も」
「立とうとした」
「話を聞くだけだ」
「座っても聞ける」
レオンは座り直した。
女は斜めに青い線が三本入った小さな紙を卓上へ置く。
「カミラ・パヴェルは生きている」
レオンの呼吸が止まった。
「居場所は」
「まだ渡せない」
「なぜ」
「照会を続けている」
「生きているのは確かか」
「この紙が届いた時点では。ただし、通常の牢ではない。監察機関、軍、党側の複数の命令が重なっている」
「奪えば」
「お前だけの問題では済まない」
昨夜と同じで、単純に走ればよい道ではない。
「二つ目の返事を待て」
「いつ」
「分からない」
「また待つのか」
「嫌なら出ていけ」
レオンは紙を見た。
生きている。
その言葉だけで走り出したいが、隣にはニーナ、向かいにはガレス、入口にはオルドとラウルがいる。
一人で進むなという規則。
患者を置いていかないという規則。
そして、カミラ自身の立場を壊さず救う必要がある。
「待つ」
レオンは言った。
女が僅かに目を細める。
「本当に?」
「皆、同じことを訊くな」
「信用がないから」
ニーナが答えた。
「二つ目の返事が来るまで、ここにいる」
「逃げない?」
「お前がいるからな」
ニーナが眉を上げる。
「私のせい?」
「俺一人なら、たぶん走っている」
「褒めてないね」
「かなり褒めている」
「分かりにくい」
ガレスは壁へ背を預け、小さく言った。
「娘へ帰る前に、誰が俺たちを雇ったのか確かめる」
「そのあと?」
ニーナが尋ねる。
「分からん」
「ミアへ会う?」
ガレスは木の鳥が入った場所へ手を当てた。
「会える顔になれたらな」
「それも、自分だけで決めるの?」
ガレスの手が止まる。
「会いたいなら会えばいい。許すかどうかは、ミアが決める」
ガレスはしばらく何も言わず、やがて小さく答えた。
「そうだな」
◇
西では、血のつながらない父娘が、同じ森へ残ることを認められた。
七年間、食事を分け、熱の夜を越え、不格好な髪を結び、互いを家族と呼んだ時間は、紙へ書かれていないというだけでは消されなかった。
東では、血のつながった父親が、娘の名前を自分の罪を軽くするために使えないと知った。
父親であることは、血だけでは決まらない。
娘のためだと口にすることでも、誰かへ認められることでもない。
戻り、話し、許されなくても逃げず、それでも子どもの前へ立つことだった。
レイラへ流れる血は、森への扉を開いた。
だが、彼女が森へ残る理由を、三百年前の姫が決めたわけではない。
エナとトーマ、帰ろうとしても帰れない者たち、そしてレイラ自身が選んだ。
血は、どこから来たのかを教える。
けれど、誰と生きるのか、どこへ残るのか、誰のもとへ帰るのか。
そこまでは、血にも決められなかった。
──第九十二部 了




