第九十二部 血が扉を開いても、残る理由までは決めない話 ① 朝と、寝台から降りるまでの一刻
朝。
レイラは、自分の頭蓋骨の内側で誰かが鐘を鳴らしている音を聞いていた。
一度、重く響き、少し間を置いてもう一度鳴る。そのたびに目の奥まで痛んだ。
森の鐘だろうかと思い、シルヴァスには朝を知らせる鐘などなかったことを思い出す。では、誰が鳴らしているのか。
目を開けて確かめようとしたが、瞼が重く、光が怖い。喉は乾き、舌には昨夜飲んだ樹蜜酒の甘さが、嫌な形で残っていた。
「起きたかい」
ネリスの声がした。
その声だけで、昨夜の記憶が一つ戻る。
頬。
口づけ。
約束。
おばあちゃん。
レイラは毛布を頭まで引き上げた。
「起きていません」
「返事をしただろう」
「眠っています」
「眠っている奴は、自分で眠っていると言わないよ」
「いま、言いました」
「では、起きてるね」
毛布を剥がされる。
「やめてください」
「朝だよ」
「まだ暗いです」
「お前が目を閉じているからだ」
ネリスは木椀をレイラの鼻先へ近づけた。苦い薬草と樹皮、土のような匂いが混じり、甘さの欠片もない。
「飲みな」
「嫌です」
「昨日、水は味がないと言ったから、味を付けてやったよ」
「これは嫌な味です」
「まだ飲んでいないのに分かるのかい」
「匂いで分かります」
「なら、鼻を摘まんで飲みな」
レイラは身体を起こそうとしたが、頭の鐘が今度は三つ同時に鳴った。
「……無理です」
枕へ戻る。
「何が」
「世界が、立たせてくれません」
「世界のせいにするんじゃないよ」
「森が揺れています」
「昨日から一度も揺れていない」
「昨夜も皆、そう言いました」
「皆が正しいからだ」
ネリスが背中へ手を入れ、無理やり上半身を起こす。木椀が唇へ当たった。
「飲みな」
「少しずつ」
「昨日は酒を、ずいぶん早く飲んでいたね」
「覚えていません」
「嘘だね」
「覚えているところと、覚えていないところがあります」
「都合の悪いところだけ?」
レイラは答えず、苦い液体を一口飲んだ。舌から喉まで、身体のすべてが拒絶する。
「苦いです」
「薬だからね」
「毒では?」
「毒なら、もっと静かになるよ」
もう一口飲み、レイラは木椀を睨んだ。
「ネリス」
「何だい」
「昨夜、私は」
「いろいろしたね」
「いろいろとは」
「聞きたいのかい」
「……聞きたくありません」
「なら飲みな」
レイラが少しずつ残りを飲み、ようやく木椀の底が見えた時、戸が叩かれた。
「レイラ殿下」
リューリックの声だった。
レイラの手から空の木椀が滑りそうになる。
「入れないでください」
小声で言ったつもりだった。
「聞こえているよ」
ネリスが答える。
「聞こえないように言いました」
「まったく小声になっていない」
「ネリス」
「何だい」
「昨夜、リューリックに」
「好きかと訊いたね」
鐘が、いままでで最も強く鳴った。
レイラはそのまま毛布へ倒れ込む。
「死にたいです」
「兄妹で似たことを言うんじゃないよ」
「今だけです」
「今だけでも駄目だ」
戸の外が、少しだけ静かになった。
「殿下」
リューリックが言う。
「体調はいかがでございましょう」
「よくありません。頭が痛く、喉も渇いていて、昨夜のことを少しずつ思い出しています」
「それは」
リューリックが一度、言葉を止めた。
「御快復の兆候かと存じます」
「絶対に違います」
「記憶の御確認は、後ほどになさった方がよろしいかと」
「覚えているのですか」
「何をでございましょう」
「全部です」
「御質問の範囲が広すぎます」
「忘れてください」
「承知いたしかねます」
昨夜と同じ返事だった。
レイラは毛布の中で顔を覆う。
「なぜですか」
「殿下より、御自身を見てほしいと仰せになりましたので」
「それを、いま言いますか」
「申し訳ございません」
「謝る声ではありません」
「どのような声が適切か、判断いたしかねます」
ネリスの肩が揺れていた。明らかに笑っている。
「ネリス」
「薬が効いてきたようだね」
「どこを見て、そう思うのですか」
「昨日より会話が通じる」
「昨日も通じていました」
「水面へ映った自分に、誰ですかと訊いていたよ」
レイラは目を閉じた。それも少し覚えている。
「エルナは」
恐る恐る尋ねる。
「外にいるよ」
「なぜ」
「昨夜、お前に水を飲ませたから、朝の様子も見届けるそうだ」
「会えません」
「もう戸の前だよ」
返事をするより先に戸が開き、銀髪のエルナが入ってきた。冷静な表情はいつもと変わらないが、レイラを見る目には僅かな温度がある。笑いを堪えている目だった。
「おはようございます、レイラ殿下」
「おはようございます」
「耳は、まだ生えておりませんね」
レイラは反射的に自分の耳を押さえた。
「その話は」
「昨夜、何度も確認されましたので」
「忘れてください」
「私は覚えていると、申し上げました」
「意地悪です」
「はい」
即答された。
「それから、私の耳は今日もお貸しできません」
「もう借りません」
「両頬へ口づける必要もありません」
「それも」
「左右を公平にする必要もございません」
「分かりましたから!」
大きな声を出したため、頭の鐘が再び鳴り、レイラは額を両手で押さえた。
「痛いです」
「大声を出すからだよ」
ネリスが言う。
エルナは水差しから木椀へ水を注ぎ、レイラへ差し出した。
「葉は浮いておりません」
「確認しなくても分かります」
「昨夜は三度確認されました」
「覚えています」
「では、御自身でお飲みください」
レイラは木椀を受け取り、一口飲んだ。
水は味がしない。
今日は、そのことがありがたかった。
◇
レイラが寝台から降りられるようになるまで、さらに一刻掛かった。
身体は酒だけではなく、金色の糸を使った反動でも重く、指先には冷たさが残り、力を入れると僅かに震える。
ネリスは朝食として薄い粥を出した。
「全部食べな」
「量が多いです」
「昨日、魔法へ熱を使った」
「半分では」
「全部」
「三分の二」
「全部」
「交渉の余地は」
「ない」
レイラは匙を持ち、一口、二口と食べた。味は薄い。
「塩は」
「頭が痛い時に濃い味を食べると吐くよ」
「では、このままで」
「賢くなったね」
「昨日も賢かったです」
ネリスとエルナが同時にレイラを見る。
「何ですか」
「何でもありません」
エルナが答えた。
これ以上は尋ねない方がよいと判断し、レイラは粥へ視線を戻した。
半分ほど食べた時、また戸が叩かれた。
今度はサリエルだった。
「入るぞ」
許可を待たず戸が開く。
サリエルはレイラの顔、粥、水、毛布を順番に確認した。
「話せるか」
「はい」
「立てるか」
「少しなら」
「昨夜よりは、ましか」
「昨夜の私を基準にしないでください」
「基準としては分かりやすい」
サリエルの後ろには、古い記録を預かる書記が立っていた。手には新しい木板がある。
レイラは嫌な予感がした。
「それは」
「昨夜の記録だ」
「破棄してください」
「できない」
「なぜですか」
「三百年前の記録と照合するためだ」
「必要な部分だけでよいでしょう」
「どこが必要になるか、三百年後まで分からない」
「三百年後の方へ、私の酔態を残すのですか」
「お前も、三百年前の姫の酔態に助けられただろう」
「助けられたという表現は、正しいのでしょうか」
「血統の確認には役立った」
「ほかの方法は」
「なかった」
サリエルは淡々としていた。
書記が木板へ何かを書き加える。
「いま、何を書いたのですか」
「本人は記録へ強く反対、と」
「そこまで残さないでください」
「反対したことも記録だ」
レイラは、昨夜とは違う意味で泣きたくなった。
「それより、南境の受入れについて話がある」
サリエルの声が変わり、レイラの表情から羞恥が少しずつ消える。
「エナと、トーマさんですか」
「そうだ」
昨夜、眠りへ落ちる前に内容までは聞いていないが、南境から伝令が来たことは、どこかで覚えていた。
「決定は」
「止めた。結論は、これから出す」




