第九十一部 王女は、酒を飲むと三百年前の姫に似る話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 上衣を脱いでも、隠した名前までは消えない話
第九十一部 王女は、酒を飲むと三百年前の姫に似る話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 上衣を脱いでも、隠した名前までは消えない話
レオンたちは、夜を越すことになった。
負傷した伝令は、まだ目を覚まさない。
ニーナが傷を縫い。
連絡所の手当て役が、その後を見ている。
伝令が運んでいた革筒には、誰も触れなかった。
扉を開けた女は、
「本人が目を覚ますまで待て」
とだけ言った。
「中身を確認した方が早い」
レオンが言うと。
「真を持っていたからといって、他人の伝令を開く権利はない」
と返された。
正しかった。
だから、余計に腹が立つ。
◇
連絡所の奥には、小さな休憩室があった。
寝台が二つ。
長椅子。
水桶。
簡単な炉。
窓はない。
地下ではないが、外から光が入らず、時間の感覚が薄い。
オルドとラウルは入口側へ置かれた。
完全に信用されたわけではない。
だからこそ、連絡所の者から見える場所で見張りを手伝っている。
ガレスは長椅子へ座り。
ニーナは薬箱を広げた。
「次」
「誰だ」
レオンが尋ねる。
「あんた」
「俺は問題ない」
「右肩」
「問題ない」
「さっきから、左手で物を取ってる」
「右を休ませている」
「なぜ」
「均等に使うためだ」
「上衣を脱いで」
「話を聞いていたか」
「聞いたから言ってる」
レオンはガレスを見る。
「出ていけ」
「なぜ」
「診察だ」
「俺も受けた」
「俺の診察だ」
「男の上半身を見て、何を気にする」
「お前が気にしなさすぎる」
ガレスは壁へ背を預ける。
「縛って馬車へ載せた時は、武器を隠していないか全部調べた」
「本人と女の前で言うな」
「いまさらだろう」
「いまさらではない」
「縛られていた時より、状況はよい」
「比較対象が悪すぎる」
ニーナが、レオンの上衣の紐へ手を掛ける。
「腕を上げて」
「自分で脱げる」
「では早く」
レオンは渋々、両腕を上げた。
途中で。
右肩が引きつる。
僅かに顔が歪んだ。
「ほら」
「何が」
「痛い」
「少しだ」
「少し?」
「中くらい」
「本当は」
「かなり」
「最初から言って」
上衣を脱がせる。
右肩には。
古い切創の上へ、新しい赤みが広がっている。
傷口そのものは開いていない。
だが。
川で荷車を持ち上げた時に、筋と古傷へ負担が掛かったらしい。
「三日は重い物を持たない」
「無理だ」
「何を持つ予定?」
「状況による」
「状況へ言って」
「聞いてくれるならな」
「では、四日」
「なぜ増える」
「反論したから」
「医療ではない」
「管理」
ニーナは肩の周囲を指で押す。
「ここ」
「痛くない」
少し位置を変える。
「ここ」
「少し」
さらに奥。
「ここ」
「……かなり」
「よろしい」
「よくない」
「正しく言えた」
「ガレス」
レオンが呼ぶ。
「何だ」
「出ていけ」
「いまのやり取りを見るために残っている」
「なお悪い」
◇
ニーナは包帯を取り。
レオンの肩から脇へ回した。
身体が近い。
診察だと分かっている。
それでも。
髪が胸元へ触れるたび、少しだけ落ち着かない。
「動かないで」
「動いていない」
「息が変」
「包帯がきつい」
「まだ巻いてない」
「これからきつくなる予感だ」
「第四条」
ガレスが言った。
「お前が使うな」
「便利だ」
レオンは反論しながら、胸元へ手を伸ばした。
上衣を脱いだ拍子に。
内側へ入れていた紙が、寝台へ落ちている。
何度も折られた手紙。
ニーナが先に気付いた。
「これ」
手を伸ばす。
レオンは、反射的に紙を押さえた。
右肩が動く。
痛みが走った。
「何してるの!」
「これは」
「肩を動かさないで」
ニーナが紙ではなく、レオンの腕を押さえる。
紙の端に。
書いた者の名前が見えていた。
カミラ・パヴェル。
ニーナの指が止まる。
「あの人の手紙?」
「ああ」
以前。
馬車の中でも話した。
カミラを追っていること。
好きなのかと聞かれ。
簡単な言葉にはできないと答えたこと。
隠していたわけではない。
それでも。
実際の手紙を見られると。
胸の奥へ触れられたような気がした。
「読まないよ」
ニーナが言った。
「分かっている」
「分かってない顔」
「俺の顔は、最近信用されなさすぎる」
「分かりやすいから」
ニーナは紙を拾い。
文字が見えない向きへ折り直した。
レオンの手元へ戻す。
「大事?」
「ああ」
「何て書いてあるの」
「生きて戻ってこい」
レオンは答えた。
「私も戻る、と」
ニーナは、包帯を持ったまま黙った。
「だから追ってる?」
「ああ」
「助けたい?」
「ああ」
「好きだから?」
レオンは。
以前のように、たぶんとは言わなかった。
「好きだ」
言葉へ出す。
ニーナの目が。
ほんの少しだけ揺れた。
「そう」
「ああ」
「なら」
包帯を肩へ回す。
「助けて」
「よいのか」
「よくはない」
「また、どちらか分からない答えだな」
「見捨てて帰ってきたあんたを」
包帯を引く。
「私は、もっと嫌いになる」
「もっと?」
「余計なところを拾わない」
「第四条?」
「そう」
結び目を作る。
「ただし」
「まだあるのか」
「助けるために、勝手に死なない」
「難しい条件だな」
包帯が少し強く締まる。
「痛い」
「何か言った?」
「守る」
「努力?」
「実行する」
ニーナは、ようやく手を離した。
◇
休憩室の扉が開いた。
連絡所の女が立っている。
視線が。
レオンの手元にある紙へ落ちた。
「いま、何という名を言った」
部屋の空気が変わった。
レオンは手紙を胸元へ戻す。
「カミラ・パヴェル」
「ここで、その名を大きな声で言うな」
「知っているのか」
「質問へ質問で返すな」
「生きているのか」
女の目が鋭くなる。
「今夜、答える話ではない」
「なぜ」
「真の活字は、話を聞くための証しだ。すべての答えを渡す証しではない」
レオンが立ち上がろうとする。
ニーナが肩を押さえた。
「座って」
「だが」
「第一条と第二条と第四条」
「一度に使うな」
「座って」
レオンは座った。
女は、少しだけ目を細める。
「その手紙は、本人から受け取ったのか」
「ああ」
「いつ」
「アルムロイトを出る前だ」
「内容は」
「言わない」
「先ほどは言っただろう」
「全部は言わない」
女は、しばらくレオンを見た。
「分かった」
「何が」
「お前が、ただ名前を聞いただけの賞金首ではないことは」
「では」
「照会を出す」
「どこへ」
「答えない」
「いつ返る」
「早ければ二日。遅ければ、返らない」
「二日も」
「待てないなら、扉は閉じる」
レオンは歯を食いしばった。
走れば。
何かを変えられる気がする。
だが。
どこへ走ればよいかも分からない。
いま飛び出せば。
連絡所を見張る者へ、道を教えるだけだ。
「待つ」
答えた。
「二日」
「条件がある」
「何だ」
「外へ出ない。勝手に扉を開けない。連絡所の者へ本名を尋ねない」
「食事は」
ニーナが尋ねた。
女が、そちらを見る。
「出す」
「患者の分も?」
「負傷した伝令か」
「それと五人」
「全員、患者なのか」
「傷があるから」
ガレスが鼻で笑った。
「俺も含まれているらしい」
「脇腹を見せて」
「さっき診た」
「包帯がずれてる」
ガレスが自分の脇腹を見る。
外套の内側から。
小さな布包みが落ちた。
古びた赤い紐。
子ども用らしい、小さな木の飾り。
ガレスは素早く拾い、懐へ戻した。
ニーナは何も言わない。
レオンも。
ただ。
ガレスが賞金首狩りになる前に。
誰かの父親だったのかもしれない。
その可能性だけが、部屋へ残った。
◇
西では。
三百年前の血が、淡い金色の糸となって現れた。
ただし。
それを証明したのは、魔法だけではなかった。
同じ酒に負け。
同じ相手へ抱き付き。
同じ言葉で周囲を困らせ。
古い記録と同じ順番で、他人の心へ踏み込んだ。
森人たちは笑い。
呆れ。
夜半まで振り回された末に。
疑う方が難しいと認めた。
東では。
カミラ・パヴェルの名が、閉ざされた連絡所の空気を変えた。
だが。
名を知っているだけでは、扉は開かない。
待つこと。
置いていかないこと。
自分一人の焦りで、道を壊さないこと。
兄も。
妹も。
受け継いだ血と名前を持ちながら。
それだけでは決まらない道へ、足を置き始めていた。
──第九十一部 了




