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第九十一部 王女は、酒を飲むと三百年前の姫に似る話 ⑤ 後退するテオと、リューリックの視線

 テオは、帳簿を持ったまま少しずつ後退していた。


 誰にも気付かれない速度で。


 だが。


 レイラは見つけた。


「テオ」


 足が止まる。


「僕は忙しい」


「何を?」


「帳簿を読む」


「逆です」


「何が」


「帳簿」


 テオが手元を見る。


 上下が逆だった。


「これは、逆から確認している」


「嘘」


「根拠は」


「耳」


「耳は根拠にならない」


「赤いです」


「樹蜜酒の匂いが強いからだ」


 レイラはテオへ近づく。


 最後の一歩で距離を誤り。


 ほとんど胸元へぶつかった。


「近い」


「テオが近いです」


「君が来たんだよ」


「動きました?」


「動いていない」


「皆、動いてないと言います」


「実際に動いていないからね」


 レイラは、テオの顔を両手で挟んだ。


「優しいです」


「何の話だい」


「妹さん」


 テオの目が変わる。


「麻薬の時、怖い顔でした」


「当然だ」


「怒っていました」


「ああ」


「売った人に」


「ああ」


「使わせた人に」


「ああ」


「止められなかった、自分にも?」


 テオは答えなかった。


「テオ」


「何だい」


「優しいです」


「酔った王女の評価は信用できない」


「違います」


「何が」


「酔う前から、思ってました」


 そこだけは。


 酔っていても、はっきりしていた。


「でも、言えませんでした」


「なぜ」


「恥ずかしいから」


「いまは?」


「恥ずかしくないです」


「それが酒だよ」


「便利ですね」


「危険だ」


 レイラは、さらに顔を近づける。


「耳、もっと赤いです」


「離れてほしい」


「嫌です」


「なぜ」


「観察してます」


「何を」


「優しい商人」


「珍しい動物のように言わないでくれ」


 古い書記が、記録板へ目を落とす。


「北枝の姫も、王家の書記の帳面を逆さにし、耳が赤いと言った」


 ネリスの笑いが。


 少しずつ止まった。


「そこまで残っているのかい」


「宴席記録だからな」


「次代へ酒を飲ませないため、細かく書いたらしい」


 テオは、静かに帳簿を正しい向きへ戻した。


「警告は、正しかったようだね」



 ◇


 リューリックは。


 今度こそレイラを座らせようとした。


「殿下」


「レイラ」


「レイラ殿下」


「殿下、要りません」


「要ります」


「なぜ?」


「私には必要でございます」


「私は要りません」


「殿下の御希望だけでは外せません」


「頑固」


「承知しております」


 レイラは、リューリックを見る。


 目が合う。


 なぜか胸が苦しい。


 近くにいるのに。


 遠い。


「リューリック」


「はい」


「兄様ばかり、見ないで」


 笑っていた者たちが静かになる。


「私は」


「兄様を探しています」


「はい」


「リューリックも、兄様を探しています」


「はい」


「私を守ってくれたのも」


「当初は、レオン殿下より託された御役目として」


「当初?」


 レイラは、その一語だけを拾った。


「では、いまは?」


「殿下」


「いまは、何ですか」


「この場でお答えすることでは」


「私も、ここにいます」


 一歩近づいた。


 真っ直ぐ歩いたつもりだったが。


 身体が左へ流れる。


 リューリックが両腕で支えた。


「ほら」


「何がでございましょう」


「見てないと、捕まえられません」


「見ております」


「兄様の妹として?」


「それだけではございません」


 答えが胸へ落ちるまで。


 少し時間が掛かった。


「もう一度」


「それだけではございません」


「何が?」


「殿下をお守りする理由でございます」


「分かりません」


「私も、すべてを言葉にできておりません」


「では、好き?」


 リューリックの呼吸が止まった。


「はいか、いいえ」


「その二つだけでは」


「テオなら、帳簿にできます」


「できないよ」


 テオが即答した。


「では、口で」


「僕へ回さないでくれ」


 レイラは、リューリックの両頬へ手を添えた。


「見て」


「見ております」


「目、逸らしました」


「後方確認でございます」


「後ろに敵はいません」


「可能性は」


「私が敵?」


「違います」


「では、見て」


 リューリックは逃げられなかった。


 レイラが転ばないよう、腰へ腕を回している。


 離せない。


 近い。


 全員が見ている。


「好き?」


「殿下御自身の御判断を、私は支えたいと」


「長いです」


「申し訳ございません」


「もっと、短く」


「困ります」


「私も困っています」


「何にでございましょう」


「リューリックが、分からない」


 レイラは泣きそうに笑った。


「兄様の家令で。私の護衛で。優しくて。固くて。近いのに、遠いです」


「殿下」


「レイラ」


「レイラ殿下」


「半分」


「何がでございましょう」


「半分、取れました」


 満足して。


 リューリックの首へ抱き付いた。


「……殿下!」


「固いです」


「何がでございましょう」


「全部」


「離れていただけますか」


「嫌です」


「転倒なさいます」


「抱えて」


「すでに支えております」


「もっと」


 リューリックが、周囲へ明確に救援を求める顔をした。


「ルーウェン殿」


「自分で何とかしろ」


「テオ殿」


「帳簿では扱えない」


「エルナ殿」


「警護の範囲外です」


「ネリス殿」


「そのまま持っていな。離せば転ぶよ」


 誰も助けなかった。


「リューリック」


「はい」


「置いていかないで」


 声が、急に小さくなる。


「兄様がいなくても」


 抱き付く腕へ力が入った。


「私を、置いていかないで」


 リューリックの返事は。


 今度は迷わなかった。


「置いてまいりません」


「本当に?」


「はい」


「約束?」


「お約束いたします」


「好き?」


「その問いは、明日」


「明日は、忘れるかも」


「覚えておられる時に、改めてお尋ねください」


「いま、覚えてます」


「いまは酔っておられます」


「酔ってません」


 その場にいた全員が。


 同時に息を吐いた。



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