第九十一部 王女は、酒を飲むと三百年前の姫に似る話 ④ 引き離されたあとと、水を持ってきたネリス
ルーウェンから引き離されたあと。
レイラはエルナの耳を見つけた。
銀色の髪の間から伸びる。
整った尖った耳。
片方。
もう片方。
二つある。
とてもきれいだった。
「エルナ」
「はい」
「耳」
「耳が、どうかしましたか」
「貸してください」
「何をでしょう」
「片方」
「貸せません」
「二つあるのに?」
「二つとも私のものです」
「一つくらい」
「取れません」
「引けば?」
「引かないでください」
レイラの指は、すでに耳へ伸びていた。
エルナが手首を掴む。
「触れないでください」
「きれいです」
「ありがとうございます」
「私にも、生えますか」
「生えません」
「明日?」
「明日も生えません」
「来年?」
「生えません」
「王女でも?」
「身分では耳の形は変わりません」
レイラは自分の耳を両手で摘まみ、上へ引いた。
「尖りません」
「御自分で引けば、痛むだけです」
「痛いです」
「手を離してください」
「エルナみたいになりません」
「そのままでよろしいでしょう」
「丸くても?」
「はい」
「本当に?」
「本当に」
嬉しい。
今度は、理由が分かった。
丸いままでよいと言ってくれた。
「エルナ、優しいです」
「酔っておられますね」
「きれいで、怖くて、優しい」
「評価が混ざっております」
「弓を持つと、怖いです」
「必要ですので」
「でも、いてくれました」
「同行の役目です」
「戻るまで」
「はい」
「戻ってからも」
「私の国ですから」
「それでも」
言葉では、足りない気がした。
どうすれば、もっと伝わるだろう。
レイラは考えた。
考えて。
エルナの両肩へ手を置いた。
エルナが、はっきりと嫌な予感を覚えた顔になる。
「レイラ殿下」
「はい」
「何をなさるおつもりですか」
「ありがとう」
「言葉だけで十分です」
「足りません」
「足りております」
レイラは、エルナの頬へ口づけた。
エルナの身体が固まる。
弓を構える時も。
追跡者を射た時も。
ここまで隙を見せたことはなかった。
「……何をしているのですか」
「伝えました」
「何を?」
「ありがとう」
「言葉で十分です」
「反対も」
「反対?」
もう一方の頬へも口づける。
「左右、同じです」
「公平にする必要はありません!」
エルナの声が。
珍しく大きくなった。
レイラは嬉しくなった。
「エルナも、大きい声を出すんですね」
「誰のせいですか」
「森?」
「あなたです」
近くにいた年配の森人が笑った。
「北枝の姫も、警護の女へ左右一度ずつ口づけたそうだ」
「三百年前の宴席記録か」
「酒を飲んだ姫の話だろう」
「似た酔っ払いなら、いくらでもいる」
まだ。
笑い話だった。
◇
ネリスが水を持ってきた。
「飲みな」
「酒?」
「水だよ」
「本当に?」
「葉がないだろう」
「隠したかも」
「誰が」
「ネリス」
「何のために」
「もう一度、酔わせるため」
「もう十分酔ってるよ」
「酔ってません」
「その言葉は、もう禁止だね」
レイラは水面を覗き込んだ。
底が遠い。
自分の顔が映っている。
「誰ですか」
「お前だよ」
「私?」
「そうだ」
「少し、変な顔です」
「酔っ払いの顔だね」
「王女です」
「いまは酔っ払いだよ」
「王女と酔っ払いは、同時にできます」
「できているね」
ネリスが呆れている。
でも。
水を持ってきてくれた。
怒りながら世話をしてくれる。
「ネリス」
「何だい」
「おばあちゃんみたいです」
周囲が静かになった。
ネリスの眉が上がる。
「誰が、おばあちゃんだい」
「違います」
「いま言っただろう」
「おばあちゃんではなくて」
言葉が逃げる。
「おばあちゃんみたいな、ネリス」
「同じだよ!」
「優しいという意味です」
「最初からそう言いな」
「でも、怖いです」
「水を飲みな」
「抱き付いても?」
「なぜそうなる」
レイラは、もう抱き付いていた。
小柄な身体を、両腕で包む。
「二十三人」
「何だい」
「忘れません」
「いま、その話をするのかい」
「ミレアさんも」
「分かったよ」
「帰りたかったかもしれないことも」
また涙が出た。
さっき笑っていたはずなのに。
「忘れません」
「分かった」
「本当に?」
「私が言うことじゃないだろう」
「約束します」
「明日も言えたら、聞いてやる」
「いまも聞いて」
「聞いているよ」
「では」
レイラは、ネリスの頬へ口づけた。
「約束です」
「口づけを契約の印にするんじゃない!」
「駄目ですか」
「駄目だよ」
「では、返してください」
「何を」
「口づけ」
「返せるか!」
ネリスがレイラの額を押し戻す。
押されたまま。
レイラは笑った。
「やっぱり、優しいです」
「どこがだい!」
◇
ドルンは。
レイラが自分を見つける前に席を立とうとした。
遅かった。
「ドルンさん」
「明日話す」
「まだ何も言ってません」
「いまのお前が言うことは、聞かない」
「どうして?」
「酔っている」
「酔ってません」
「その言葉を言った回数を数えろ」
「一回?」
「もう覚えていない」
ドルンが歩き出す。
レイラも追う。
本人は普通に追っているつもりだった。
椅子へ躓き。
卓の端を掴み。
最後はドルンの背へ額をぶつけた。
「痛いです」
「なぜ私へ言う」
「ドルンさんが止まりました」
「お前がぶつかったからだ」
「逃げないで」
「逃げていない」
「皆、そう言います」
レイラは、ドルンの左袖を掴んだ。
火傷痕が残る腕。
そこへは触れない。
ただ、離さなかった。
「怖いです」
「なら離せ」
「嫌です」
「どちらだ」
「ドルンさんは、怖いです」
「ああ」
「私を嫌いです」
「王家を信用していない」
「でも、話をしてくれます」
「必要だからだ」
「帰れとは言いませんでした」
「森議会が決める」
「でも」
涙がまた出た。
「ミレアさんを、忘れないでって」
「私は言っていない」
「言いました」
「言っていない」
「顔が」
「顔で話を作るな」
「帰れなかった人を、忘れないでって顔です」
ドルンの表情が硬くなる。
「酔ったまま、母の話をするな」
「忘れてないです」
「だから、明日話せ」
「明日も、忘れません」
「お前はいま、エルナの耳を借りようとしていた」
「きれいでした」
「話を戻せ」
「ドルンさん」
「何だ」
「ごめんなさい」
「お前が閉じた道ではない」
「でも、私の家です」
「お前が生まれる前だ」
「それでも、私の名前です」
言葉が止まらない。
涙も止まらない。
「だから、捨てません。忘れません。許してくださいとは、言いません。でも、忘れないでって、言ってください」
「何をだ」
「忘れないでって」
「私が?」
「はい」
ドルンは、長く黙った。
「忘れるな」
ようやく言う。
レイラは泣きながら笑った。
「はい」
「明日も覚えていろ」
「はい」
「それから、袖を離せ」
「嫌です」
「なぜ」
「怖い顔ですが」
「言うな」
「優しいです」
「言うな」
近くで記録を確認していた書記が顔を上げる。
「北枝の姫も、最も自分を嫌った男へ同じことを言っている」
ドルンの顔が。
心底嫌そうに歪んだ。
「何と」
「怖い顔だが、優しい、と」
レイラは嬉しそうにドルンを指した。
「同じです」
「喜ぶな」
周囲から笑いが起きた。
だが。
サリエルは笑っていなかった。
古い記録とレイラを、交互に見ている。




