第九十一部 王女は、酒を飲むと三百年前の姫に似る話 ③ 代わる代わる捕まるルーウェンと、琥珀色の飲み物
夕方。
外縁集落の炊事場には、普段より多くの卓が並んだ。
豪華な宴ではない。
避難者を迎え。
ルーウェンが、もう一度森へ戻ったことを確かめるための食事だった。
茸と豆の煮込み。
薄く切った燻製肉。
香草入りの平たいパン。
焼いた木の実。
干した果実。
蜂蜜を使った小さな菓子。
セドと少女が、最後の菓子へ同時に手を伸ばした。
「俺が先」
「私が先に見てた」
「見ただけでは取ったことにならない」
「欲しいと思ったのは先」
「証拠は?」
「ない」
少女は菓子を割った。
大きい方を自分へ。
小さい方をセドへ渡す。
「半分じゃない」
「私が割ったから」
テオが横から言った。
「分ける者へ権限を集中させると、よく起きる問題だね」
「菓子へ政治を持ち込まないでください」
レイラが言う。
「食料の配分は、最初の政治だよ」
「では、テオが公平に分けてください」
「帳簿を作ろうか」
「食べ終わります」
リューリックが、後ろの配膳台を示した。
「同じ菓子が、あと十二個ございます」
セドと少女が、同時に振り返る。
次の瞬間。
二人とも走り出した。
「走るんじゃないよ!」
ネリスの杖が床を鳴らす。
二人は歩きへ変えた。
ただし。
歩いてよい速度の限界には挑んでいた。
◇
ルーウェンは、代わる代わる集落の者に捕まっていた。
「今度は、いつまでいる」
「決めていない」
「また百年か」
「九十七年だ」
「変わらん」
「三年は長い」
「九十七年帰らなかった奴が言うな」
別の老人が杯を置く。
「俺の父がお前へ貸した弓を覚えているか」
「返した」
「弦が切れていた」
「使ったからだ」
「張り直して返せ」
「九十七年前の話だ」
「お前が訂正したんだろうが」
ルーウェンは、逃げなかった。
責められ。
笑われ。
古い借りまで掘り返され。
それでも席にいる。
「嬉しそうですね」
レイラが小声で言った。
隣のリューリックが、ルーウェンを見る。
「そのようには見えませんが」
「逃げていません」
「逃げれば捕らえられるからでは」
「それでもです」
帰る場所とは。
何も言わずに受け入れる場所ではないのかもしれない。
戻らなかったことを怒り。
借りた物を返せと責め。
それでも。
食卓へ席を残しておく。
◇
卓上には、二種類の琥珀色の飲み物が置かれていた。
一つは、蜂蜜と潰した果実を水で割ったもの。
もう一つは、樹液へ蜜を加え、森の酵母で発酵させた樹蜜酒。
酒の杯には、小さな葉が一枚浮かべられている。
森の者なら、見間違えない。
初めて飲む客人へも、普通なら説明する。
ただ。
その夜は、人が多かった。
給仕を手伝っていた少女が、二つの杯を同じ卓へ置く。
「王女様。こっちが甘いよ」
「ありがとうございます」
少女が指したのは、確かに果実水だった。
だが、その直後。
菓子の皿を抱えたセドが、卓の脚へ足を引っ掛けた。
「危ない!」
杯は倒れなかった。
中身も零れていない。
ただ。
二つの位置だけが入れ替わった。
「菓子は?」
少女が尋ねる。
「無事」
「ならいい」
「俺は?」
「立ってるから無事」
誰も、杯まで見ていなかった。
レイラは、手前へ来た杯を取った。
一口。
甘い。
蜂蜜よりも深く、樹木の香りがする。
喉を通ったあと、胸の奥へ小さな灯が落ちた。
「おいしいですね」
もう一口。
一口目よりも、おいしい。
なぜだろう。
同じ飲み物なのだから、同じ味のはずだった。
それなのに、二口目の方が身体へ馴染む。
三口目を飲んだ頃には。
卓の角が、少し丸く見えた。
向かいに座るテオの顔も、いつもより柔らかい。
いや。
テオの顔ではなく。
空気が柔らかい。
空気が柔らかいとは、どういうことだろう。
触れば分かるかもしれない。
レイラは空中へ手を伸ばした。
何も掴めない。
「逃げました」
「何がだい」
テオが尋ねる。
「空気です」
「空気は掴めないよ」
「商人でも?」
「商人でも難しいね」
「テオにも、できないことがあるのですね」
「かなりある」
「意外です」
「どういう評価だったんだい」
レイラは答えようとした。
だが。
何を答えるつもりだったのか。
もう忘れていた。
代わりに。
杯をもう一度口へ運ぶ。
その時。
リューリックが気付いた。
「レイラ殿下」
「はい」
返事をしたつもりだった。
自分の声が、少し遠くから聞こえた。
「その杯を、こちらへ」
「これです?」
「はい」
「なぜ?」
「樹蜜酒でございます」
レイラは杯を見る。
葉が一枚。
琥珀色。
甘い香り。
「お酒?」
「はい」
「これが?」
「はい」
「でも、甘いですよ」
「甘い酒でございます」
「では、甘い方で合っています」
「合っておりません」
話が噛み合っていない。
どちらが間違っているのだろう。
甘い。
酒。
甘い酒。
ならば、甘い飲み物である。
何も間違っていない気がした。
「大丈夫、です」
「信用いたしかねます」
「まだ、全然……」
杯を持ち上げる。
中には、僅かしか残っていない。
「あります」
「ほとんど残っておりません」
「少し、あります」
「残量ではなく、召し上がった量を申し上げております」
「同じでは?」
「反対でございます」
レイラは真剣に考えた。
残っている量。
飲んだ量。
確かに反対だ。
リューリックは正しい。
「リューリック、賢いですね」
「いま、その話はしておりません」
「褒めたのに」
「ありがとうございます。ですから杯を」
「嫌です」
杯を背中へ隠す。
隠したあと。
なぜ隠したのかを忘れ。
もう一口飲んだ。
「殿下!」
「何ですか」
「いま、お飲みになりました」
「飲んでません」
杯は、まだ口元にあった。
周囲が静かになる。
レイラは杯を見る。
リューリックを見る。
もう一度、杯を見る。
「……少し」
「見ておりました」
「見ないでください」
「それは無理でございます」
「では、忘れて」
「それも無理でございます」
「リューリックは、融通が利きません」
ルーウェンが、横から杯を取り上げた。
「あ」
手の中が空になった。
レイラは掌を見る。
つい先ほどまで。
確かにあった。
消えた。
「私の」
「酒だ」
「返して」
「駄目だ」
「私のです」
「違う」
「私が飲んでいました」
「だから取り上げた」
「ひどい」
「水を飲め」
「水は、味がしません」
「水だからな」
「役に立ちません」
「水へ何を求めている」
レイラは立ち上がった。
立ったはずだった。
だが、身体だけが少し遅れてついてきた。
床が右へ逃げる。
左へ足を出す。
今度は卓が近づいた。
卓が動いたのではない。
たぶん。
「森が、揺れています」
「揺れていない」
「でも、そちらへ行きました」
床を指す。
「床は動かない」
「見ていない時に、動いたかも」
「見ていた」
「ルーウェンが二人います」
「一人だ」
「右と、左」
「左には誰もいない」
「では、右が本物」
「ああ」
レイラは、右側のルーウェンへ向かった。
本人のつもりでは、真っ直ぐだった。
実際には。
卓へ腰をぶつけ。
椅子を一つ巻き込み。
最後はルーウェンの胸へ倒れ込んだ。
「捕まえました」
「何をだ」
「ルーウェン」
「逃げていない」
「逃げました」
「いつ」
「九十七年と四か月」
「それは」
「長い」
レイラは顔を上げる。
「長すぎます」
「聞いた」
「九十七年」
「分かっている」
「と、四か月」
「そこまで言わなくていい」
「四か月も大事です」
「誰にとって」
「待っていた人に」
突然。
胸の奥が苦しくなった。
さっきまで笑いたかったのに。
今度は涙が出そうだった。
待っていた人。
帰れなかった人。
兄。
ルーウェン。
二十三人。
全部が同時に頭へ入り。
どれから考えればよいのか分からなくなる。
「遅いです」
ルーウェンの胸を指で押す。
「遅い。遅い。遅すぎ」
「分かった」
「分かっていません」
「何を」
「帰ってきてほしかった人が、いたのに」
「……ああ」
「怒っていた人も」
「ああ」
「怒るのは」
言葉が逃げた。
さっきまで、口の中にあったはずなのに。
「怒るのは……怒ってるからです」
「そのままだな」
「違います」
「何が」
「帰ってきてほしかったから、怒ってるんです」
ルーウェンの外套を掴む。
「ばか」
周囲の空気が止まった。
レイラ自身も。
何を言ったのか、少し遅れて理解した。
「私は」
口元を押さえる。
「いま、何と」
「ばかと言った」
「誰が?」
「お前が」
「誰に?」
「私に」
「……ごめんなさい」
「別にいい」
「でも、ばかです」
「どちらだ」
「ごめんなさい。でも、ばか」
泣きながら、笑ってしまった。
なぜ笑っているのかは、分からない。
「もう、いなくならないで」
「できない約束はしない」
「また、それ」
「何だ」
「すぐ、できないって言う」
「できないことは」
「嫌」
「話を聞け」
「嫌です」
「王女」
「レイラ」
「レイラ」
「もう一度」
「レイラ」
名前を呼ばれた瞬間。
なぜか、とても嬉しくなった。
レイラはルーウェンへ抱き付く。
「帰ってきて、よかった」
「……ああ」
「本当に」
「ああ」
「もう一回」
「何を」
「よかったって」
「私が言うのか」
「はい」
ルーウェンは、長く黙った。
やがて。
「帰ってきて、よかった」
と答えた。
レイラは満足して頷き。
抱き付いたまま、目を閉じた。
「眠るな」
「眠ってません」
「目を閉じている」
「考えています」
「何を」
「忘れました」




