第九十一部 王女は、酒を飲むと三百年前の姫に似る話 ② 円堂の中央に広げられた古い誓約書
円堂の中央へ、古い誓約書が広げられた。
羊皮紙は、前回レイラが見た写しより大きい。
中央には、シルヴァスの白枝鳥の印。
向かい側には、リュカリオン王家の紋。
二つの印の間を、細い蔓のような装飾が結んでいる。
顔料は剥がれ。
文字も所々薄れていた。
それでも、原本は残っている。
「これが」
「原本だ」
書記が答えた。
「何度も補修されている。紙より、補修布と樹脂の方が多いくらいだ」
古い文章が読み上げられる。
森の民が、人間の王国へ道を貸すこと。
人間の王家が、森の民を外敵へ売らないこと。
追われる者が白い羽根を持って森へ来た時、森はその声を聞くこと。
王家が自らの血を他者の命より重く扱った時、道を閉じること。
そこまでは、以前にも聞いている。
だが。
原本には、その先が残っていた。
「婚姻によって結ばれた枝が、両家の間に残る限り」
書記が読む。
「その血へ現れた力を、支配の証しとしてはならない」
レイラは顔を上げた。
「婚姻?」
「写しでは省いた部分だ」
サリエルが答える。
「なぜですか」
「意味が分からなかった」
「分からない部分を消したのですか」
「原本からは消していない。誤った意味を付けて広めるより、閉じた記録へ残した」
言い訳はしなかった。
ただ、森議会が選んだ判断を述べる。
「婚姻した方の記録は?」
「シルヴァス側へ残っている」
書記が、薄い木板を開いた。
「北の枝に属した姫。人間の国へ嫁いだのち、森側では名を閉じられた」
「なぜですか」
「当時、エルフの姫が人間へ嫁いだことを恥とする者がいた」
サリエルが答えた。
「人間側にも、王家へエルフの血が入ったことを嫌う者がいた。両方が、都合の悪い部分を遠ざけた」
リュカリオン王家の古い系譜も開かれる。
三百年ほど前。
北方から迎えた姫。
出身国は記されていない。
婚姻後の名だけが残されている。
婚姻の年。
夫となった王子。
姫の年齢。
シルヴァス側の記録と一致していた。
「この方が、北エルフの姫?」
「可能性は高い」
「断定はしないのですね」
「紙が二つ重なっただけだ」
書記は言った。
「見たい答えへ急いではならない」
森らしいと、レイラは思った。
裏切り者の名も。
死んだ者の思いも。
すぐには決めなかった。
「姫には」
ルーウェンが言った。
「何か力があったのか」
「記録が残っている」
物と人との間へ残る縁を、淡い金色の糸として見る力。
結ぶ。
緩める。
支える。
引き寄せる。
ただし。
最初から存在しない縁を、作ることはできなかった。
レイラの左手が。
無意識に動く。
海へ落ちた少年。
絡んだ網。
届かなかった手。
白い羽根を通じて森へ届けた言葉。
何もないところへ、力を生んだのではない。
すでにそこにある何かへ触れた。
「同じように見えるな」
ドルンが言った。
「似ているだけかもしれません」
レイラは答えた。
「試せ」
「何へ?」
「この誓約書へ」
レイラは首を横へ振った。
「できません」
「やる前から?」
「つながりが見えなければ、触れられません。それに」
古い羊皮紙を見る。
「紙を光らせるために使う力ではないと思います」
「人間の王女に都合のよい話だ」
「ドルン」
ガルムが低く止める。
だが、レイラはドルンから目を逸らさなかった。
「疑わないでとは申しません」
言う。
「私も、まだ分かりませんから」
「また、それか」
「はい」
ドルンの母ミレア。
帰れなかった二十三人。
エルフの血が自分へ流れていたとしても。
王家が道を閉じた過去は変わらない。
「今日は、ここまでだ」
サリエルが言った。
「原本は円堂へ残す。明日、もう一度確認する」
「分からないまま終えるのか」
ドルンが尋ねる。
「分からないものを、分かったことにするよりよい」
サリエルは立ち上がった。
「今夜は、帰ってきた者へ食事を出す」




