第九十一部 王女は、酒を飲むと三百年前の姫に似る話 ① 外縁集落の円堂で開かれる誓約書
翌朝。
北部の記録庫から、古い誓約書が届いた。
細長い木箱には樹脂が幾重にも塗られ、雨や虫だけでなく、森の湿気からも中身を守る造りになっている。
それを運んできたのは、記録を預かる書記二人と、森議会の護衛三人だった。
もう一つ。
小さな箱もある。
蓋が開かれると、中から古い封印板が現れた。
翼を広げる金色の鳥。
その下で交差する二本の剣。
旧リュカリオン王家の紋だった。
「前回、お前に見せたものは写しだ」
サリエルが言った。
「原本は北の記録庫から動かしていない」
「なぜ、今回は運ばせたのですか」
レイラが尋ねる。
「前回のお前は、一人だった」
サリエルは、南境の待機所に並ぶ小屋へ視線を向けた。
帰還を望む森人。
混血の者。
人間の家族。
長い道を歩き、傷を負い、それでも森へ帰ろうとした者たち。
「今回は、人を連れて戻った」
「私一人が連れてきたわけではありません」
「知っている」
短く答える。
「古い誓約を、お前一人の保護へ使うのか。それとも、帰ろうとする者の道へ使うのか。改めて確かめる必要がある」
「私が決めるのですか」
「違う」
サリエルは、レイラを見る。
「森議会が決める。だが、お前の言葉も聞く」
以前と同じだった。
白い羽根は、王女が森へ命令するためのものではない。
森へ、自分の声を聞かせるための印。
「分かりました」
「本当に?」
「分かろうとしています」
サリエルは、それ以上問わなかった。
隣では、ネリスが木箱を覗き込んでいる。
「三百年前の紙を、よく南まで運んだね」
「触るな」
書記が言った。
「薬草を扱う手は、紙も扱えるよ」
「昨日、指へ薬液をこぼしただろう」
「洗った」
「匂いが残っている」
ネリスは自分の指を嗅いだ。
「少しだけだ」
「触るな」
「なら、さっさと開けな」
誰が記録を預かっているのか、分からなくなりそうだった。
◇
誓約書は、南境ではなく、外縁集落の円堂で開かれることになった。
南の待機所から、森の内側へ半日ほど進む。
以前、レイラとルーウェンが滞在した集落へ続く道だった。
入口は前回とは違う。
北部の入り江ではなく、カランと接する南境から入った。
それでも、森の奥へ進むにつれ、見覚えのある景色と匂いが増えていく。
湿った薪の煙。
干した茸。
獣皮をなめす薬液。
大鍋で煮た豆。
花と清流だけではない、森で暮らす者の匂いだった。
集落の入口へ着くと、子どもたちが真っ先に気付いた。
「王女様!」
以前、レイラへ木の実をくれた少女だった。
少しだけ背が伸びている。
だが、最初に確かめることは変わらない。
「お菓子は?」
「ありません」
「また?」
「途中で買う場所がありませんでした」
「王女様なのに?」
「王女でも、何もないところから菓子は作れません」
「魔法で?」
「できません」
「役に立たないね」
久しぶりに会った王女へ向ける言葉としては、かなり厳しかった。
隣にいたセドが頷く。
「俺も同じことを言われた」
「あなたは王女ではないでしょう」
「王女と一緒なら、持ってると思われる」
「では、次は用意します」
「約束?」
少女が目を輝かせる。
レイラは、口を開く前にルーウェンを見た。
「何だ」
「まだ何も言っていません」
「約束する顔をしている」
「顔で分かるのですか」
「お前は分かりやすい」
ネリスが横を通りながら言った。
「森の子どもは、百年でも覚えているよ。特に菓子の約束はね」
「約束ではありません。努力すると申し上げようとしただけです」
「子どもには同じだよ」
少女が大きく頷く。
レイラは、早くも負けた気がした。
◇
円堂へ入る前。
ルーウェンは、自分の家だった建物の前で足を止めた。
戸を開けば、積み上げられた冬根。
吊るされた塩漬け茸。
壁際まで並んだ木箱。
以前と同じく、家ではなく倉庫として使われている。
「片付けられていない」
ルーウェンが言った。
後ろにいたエルナが、静かに答える。
「使うと伺っておりませんでしたから」
「前回、帰ってきた」
「また出ていきました」
「用があった」
「服は、まだ冬根の下です」
「出していないのか」
「必要だと言われておりません」
「いま必要だ」
「宴で九十七年前の服を着るおつもりですか」
「九十七年と四か月だ」
「御自身で訂正するのですね」
ルーウェンは、言ってから後悔した顔になった。
セドが木箱の札を読む。
「九十七年前の衣服。上へ物を積まないこと」
「書く必要があるのか」
「食料と一緒に埋められている私物だと、誰にも分かりませんので」
「私の家だ」
「三十年前から倉庫です」
「所有権は」
「森議会へ申し立ててください」
レイラは顔を横へ向けた。
「笑っているな」
ルーウェンが言う。
「いいえ」
「肩が動いている」
「森では、見えないと思って笑わない方がよいのでしたね」
エルナの口元が。
ほんの僅かに上がった。




