第九十部 一度通った森は、同じ顔で迎えない話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 真の活字は、五人分の信用にならない話
五人は、日が沈む前に町へ入った。
レオン。
ニーナ。
ガレス。
オルド。
ラウル。
エルマンの脚は、ニーナが縫い、板を当てて固定してある。
少なくとも今夜は動かせない。
宿の女主人が負傷者の世話へ慣れていたため。
ニーナは、ようやく患者を預けることを認めた。
ただし。
水を飲ませる量。
包帯を見る間隔。
熱が上がった時に使う薬。
吐いた時の身体の向き。
指示は、宿の壁へ一枚では収まらなかった。
「読めるよ」
女主人が言った。
「念のためです」
「一刻後に戻ってきそうだね」
「必要なら」
「戻らなくていいから、行っておいで」
半ば追い出されるように。
五人は宿を出た。
◇
連絡所は。
町の南側にある、使われなくなった染物小屋だった。
壁には青い染料の跡が残っている。
窓は板で塞がれ。
扉の上へ掛けられた看板は、半分焼けていた。
表から見れば。
人がいるようには見えない。
「見張りが二人」
ガレスが言った。
「どこ」
ニーナが尋ねる。
「向かいの荷運び人。路地の老人」
「老人も?」
「左手に豆がある」
「豆?」
「剣を握る手だ」
オルドが言った。
「右足へ体重を掛けていない。隠しているが、短剣もある」
「二人とも連絡所の者?」
ラウルが尋ねる。
「片方は違う」
ガレスが、荷運び人を見る。
「歩く時、周囲ではなく入口だけを見ている。見張る側ではなく、入る者を待っている」
「官憲か」
「あるいは、別の追手だ」
レオンは外套の内側へ手を入れた。
古い活字。
真。
ヴィクトルから預かった、一度だけ使える証し。
「正面へ行く」
「一人で?」
ニーナが尋ねる。
「全員で」
「成長した」
「確認するな」
「褒めてない」
「では、何だ」
「第四条」
レオンは、それ以上言わなかった。
◇
扉を三度。
間を置き。
二度叩く。
返事はない。
もう一度。
同じ合図。
しばらくして。
扉の内側から、女の声がした。
「何を持っている」
「真」
「誰から」
「ヴィクトル」
「一人で入れ」
「五人いる」
「一人で入れ」
「断る」
扉の向こうが静かになる。
「なら帰れ」
「話を聞くだけでも」
「真を持つ者、一人だけだ」
「残りも一緒に入る」
「賞金首狩りを?」
ガレスの目が細くなる。
向こうは。
すでに自分たちを見ている。
「元だ」
ガレスが言った。
「本人の申告は証明にならない」
「では、何ならなる」
「少なくとも、お前ではない」
次に。
女の声が続く。
「右手を負傷した男。回収部隊の装備を使っている」
オルド。
「背中を縫った男。同じ部隊だな」
ラウル。
「医療資格を持たない女」
「町医者の娘」
ニーナが答えた。
「正式な医者ではない」
「でも傷は見える」
「地下組織へ入れる理由にはならない」
「怪我した人がいるなら、理由になる」
「いない」
「では、私が入る理由はないね」
ニーナは簡単に答えた。
扉の向こうが。
また少し静かになる。
「レオン」
女の声が言った。
「活字を扉の下へ」
小さな隙間が開く。
レオンは真の活字を取り出した。
溝へ残る、乾いた青いインク。
一度だけ使える。
それを隙間へ置く。
内側の指が受け取った。
長い時間を掛けて。
角。
欠け。
文字の形を確認している。
「本物だ」
「なら」
「お前一人なら入れる」
「断る」
「なぜ」
レオンは。
ガレスたちを見る。
完全に信用しているわけではない。
ガレスは、自分を金貨千枚で売ろうとした。
オルドとラウルは、回収部隊として殺しに来た。
ニーナは。
危険な馬車へ、自分から乗った。
「置いていけば」
レオンは答えた。
「俺が戻るまでに、何をするか分からない」
「信用していないのか」
「完全には」
「なら、なぜ連れている」
「一人で行くより、ましだからだ」
「随分と低い評価だな」
「高く言えば、本人たちが困る」
「困らない」
ガレスが言った。
「では、信用している」
「急に上げるな」
「どちらなんだ」
「途中だ」
レオンは扉へ向き直る。
「全員、途中だ。それでも置いていかない」
扉の向こうから返事はなかった。
やがて。
隙間が閉じる。
「帰れ」
鍵が離れる音もしない。
完全な拒絶だった。
◇
「どうする」
ラウルが尋ねた。
「待つ」
レオンが答える。
「いつまで」
「向こうが根負けするまで」
「先に俺たちが捕まる」
ガレスは、向かい側の通りを見る。
荷運び人を装っていた男が。
いつの間にか消えている。
「動いた」
「どちらへ」
「裏だ」
その直後。
染物小屋の裏手から。
何かが倒れる音がした。
五人は同時に動いた。
路地へ回る。
若い男が、石壁へ背を預けて座り込んでいた。
衣服の脇腹が赤い。
右手には、小さな革筒。
指先へ。
青いインクが付いている。
「連絡所の人?」
ニーナが駆け寄る。
「待て」
ガレスが腕を掴んだ。
「追手がいる」
「血が出てる」
「見れば分かる」
「なら放して」
「先に周囲を」
「その間に死んだら?」
ガレスは、ほんの一瞬だけ迷い。
腕を離した。
ニーナは負傷者の前へ膝をつく。
「聞こえる?」
男は答えない。
「脇腹、見せるよ」
衣服を切る。
短い刃が、肋骨の下へ入っている。
深い。
「レオン。布」
「ある」
「押さえて」
レオンが傷へ布を当てる。
「強く?」
「そこまで。息を吐いた時に」
「分かった」
「ガレス」
「何だ」
「追手」
「二人。路地の両側」
ガレスは短剣を抜いた。
「正面から来ない。片方が騒ぎを起こし、もう片方が革筒を取る」
「なぜ分かる」
オルドが尋ねる。
「賞金首を生け捕りにする時と同じだ」
「では」
「俺とオルドが左。ラウルは右を見ろ」
「背中が」
「戦えとは言わない。声を出せ」
「分かった」
レオンは。
ニーナの手元を見る。
負傷者。
追手。
閉じた扉。
いまなら。
追手へ飛び掛かることもできる。
だが。
傷を押さえている手を離せば。
男の血が増える。
「レオン」
ニーナが言った。
「ここ」
「分かっている」
「離さないで」
「ああ」
戦うのは。
ほかの者へ任せる。
それも。
以前のレオンには、難しい選択だった。
◇
路地の入口へ。
荷運び人の男が現れた。
「何があった」
声だけは、心配しているように聞こえる。
だが。
視線は負傷者ではなく、革筒へ向いていた。
「医者を呼ぶ」
「ここにいる」
ニーナが答える。
「正式な医者か」
「違う」
「なら任せられない」
男が近づこうとする。
ガレスが前へ出た。
「止まれ」
「何だ、お前は」
「その男を知っているのか」
「知らない」
「なら、なぜ革筒を見た」
男の足が止まる。
「見ていない」
「三度見た」
「言い掛かりだ」
「では帰れ」
ガレスの声は低かった。
男は。
周囲を一度だけ見る。
次の瞬間。
腰へ手を伸ばした。
短剣を抜く前に。
オルドが左手で男の肘を押さえた。
「動くな」
「放せ!」
「右手が使えないと思ったか」
オルドは負傷した右手を胸元へ置いたまま。
左腕だけで男の身体を壁へ押し付ける。
反対側の路地から。
もう一人が走り込んだ。
「右!」
ラウルが叫ぶ。
ガレスが振り返り。
男の手首を蹴る。
落ちたのは。
剣ではない。
小さな火瓶だった。
「燃やすつもりだ」
ガレスが言う。
「人も紙も一緒に」
閉じていた染物小屋の裏扉が、内側から開いた。
弩を持った女が立っている。
「下がれ」
短い命令。
追手の二人は。
抵抗をやめなかった。
だが。
路地の上にも。
いつの間にか連絡所の者が二人いる。
逃げ道はなかった。
◇
負傷者は。
染物小屋の中へ運び込まれた。
ニーナも、そのまま入った。
「そこへ寝かせて」
「お前は入れると言っていない」
先ほど扉越しに話していた女が言う。
「いま追い出したら死ぬ」
「手当て役は中にいる」
「止血がずれてる」
「何?」
「運ぶ時、布が動いた。ここ」
ニーナは。
返事を待たず、傷へ手を置いた。
「お湯。針。糸。酒精は?」
「ある」
「では持ってきて」
女は一瞬だけ、ニーナを睨んだ。
だが。
負傷者の顔色を見て。
奥へ指示を出した。
レオンたち四人は。
入口へ立ったままだった。
「入ってよいのか」
レオンが尋ねる。
「まだだ」
「ニーナだけ?」
「患者を放さない」
「それは知っている」
「残る四人は」
女の視線が。
ガレス。
オルド。
ラウルへ移る。
「追手の癖を見抜いた」
「仕事だったからな」
ガレスが答える。
「襲った側の知識だ」
「知識は、使う先を変えられる」
「信用しろと?」
「まだ言っていない」
ガレスは。
わずかに口元を歪めた。
「話は早い」
「回収部隊の二人は」
「元だ」
オルドが言う。
「証明は」
「いま、火瓶を持った男を押さえた」
「それだけでは足りない」
「分かっている」
女は。
最後にレオンを見た。
「真の活字は、本物だった」
「なら」
「一人分の話を聞く証しだ」
「五人いる」
「残る四人は、自分で入口を作った」
女は扉を大きく開いた。
「入れ」
「全員?」
「全員だ」
レオンは。
一歩入ってから、振り返った。
「真は」
女の掌に。
古い活字がある。
「一度だけ使えると聞いた」
「使った」
女は答えた。
「これは、こちらで預かる」
「返さない?」
「次に同じものを持ってきても、扉は開かない。一度だけとは、そういう意味だ」
レオンは。
ほんの少しだけ、空になった革袋を見た。
長く持っていたものが。
一つ減った。
だが。
失ったのではない。
必要な場所へ渡した。
「ヴィクトルへ会えるのか」
「まだだ」
「なぜ」
「活字は、話を聞くためのものだ。信用を丸ごと買うものではない」
どこかで。
同じような言葉を聞いた気がした。
白い羽根は。
森へ命じるものではない。
話を聞かせるための印。
「では、何をすればいい」
「今夜は待て」
女は言った。
「伝令が目を覚ませば、何を運んでいたのか確認する」
「カミラ・パヴェルについて」
レオンが言った瞬間。
室内の空気が変わった。
「その名を」
女の目が鋭くなる。
「外で口にするな」
「生きているのか」
「今夜は待てと言った」
「答えろ」
「第四条」
奥から。
ニーナの声が飛んできた。
レオンは口を閉じた。
女が、少しだけ眉を上げる。
「何だ、それは」
「規則だ」
ガレスが答える。
「かなり重要な」
オルドが続ける。
「本人だけが反対している」
ラウルが言う。
「全員、余計なことを言うな」
レオンが低く返す。
「第四条」
三人の声が重なった。
扉の女は。
初めて。
ほんの僅かに笑った。
◇
西では。
白い羽根が、もう一度、森へ声を聞かせた。
それでも。
森は、すぐに助けるとは言わなかった。
東では。
真の活字が、閉じた扉を一度だけ開いた。
それでも。
青いインクは、すぐに信用するとは言わなかった。
話を聞いてもらうこと。
扉を少しだけ開けてもらうこと。
答えを得る前に。
まず、その場所へ残ること。
兄も。
妹も。
以前なら、力で先へ進もうとしたかもしれない。
だが。
いまは。
一人だけが通れる道ではなく。
隣にいる者も置いていかずに進める入口を、探し始めていた。
──第九十部 了




