第九十部 一度通った森は、同じ顔で迎えない話 ① 答えを渡しきらない言い方と、棘の間の道
シルヴァスへ戻る道は、前に森へ入った時よりも長かった。
以前、レイラとルーウェンは、フィヨルドから小舟へ乗り、北部の入り江へ辿り着いた。
潮の匂いが残る岩場。
森へ続く細い水路。
そこで舟を降り、森そのものに道を問うた。
今回は、海からではない。
リヴェンから西へ戻り、オーランドの街道を抜け、カラン北部の人目を避ける古い道を通った。
正規の関所は使えなかった。
エルフの避難者を伴って、カランの役人の前へ出るわけにはいかない。どれほど正しい通行札を持っていても、相手が耳の形だけで人の価値を決めるなら、紙は盾にならなかった。
旅は二十日近くに及んだ。
負傷者を休ませるため、丸一日動かなかった日もある。
巡回兵をやり過ごすため、火を焚かずに夜を越したことも。
道を知るエルナとルーウェンが前を見て、リューリックが後方を警戒する。
テオは食料と荷車を整え、セドは歩けなくなった子どもの荷物を持った。
レイラも包帯を替え、食事を分け、眠れない者の隣へ座った。
早く戻りたい者ばかりだった。
それでも。
早く歩ける者だけを先へ進ませれば、この旅を選んだ意味がなくなる。
十九日目の午後。
カラン側の乾いた丘陵を越えたところで、前方の景色が変わった。
深い緑。
幾重にも重なった木々。
山裾から地平まで続く、巨大な森の壁。
シルヴァス神聖王国。
「見えました」
レイラが呟いた。
隣にいたセドが、目を細める。
「あれ全部、国?」
「ええ」
「町は」
「森の中です」
「壁は?」
「森です」
「門は?」
「知らない者には、見えません」
セドはしばらく森を見た。
「面倒な国だね」
「否定はしません」
少し前を歩いていたエルナが振り返る。
「聞こえていますよ」
「まだ悪口とは言ってない」
「これから言うつもりでしたか」
「考えてただけ」
「森では、考えている顔も見られます」
「それは嘘でしょう」
「どうでしょうね」
エルナは、それ以上答えなかった。
以前と同じ、答えを渡しきらない言い方だった。
◇
南側の入口は、北部の入り江とはまるで違っていた。
海から入る北側では、森が道を隠していた。
カランと接する南側では、森は道を隠すだけでなく、明確に敵を拒んでいる。
木々の間へ張り巡らされた細い縄。
踏めば樹上の鈴へ伝わる仕掛け。
低木に見せ掛けた棘の柵。
高い枝の上には、弓を持つ森人がいる。
一行が森から十数歩離れた場所へ着くと。
どこからともなく声が落ちた。
「止まれ」
リューリックの手が剣の柄へ近づく。
エルナが小さく首を横へ振った。
リューリックは、すぐに手を離した。
「名を」
声が続く。
以前。
北の森で、エルナから最初に問われた言葉と同じだった。
だが。
今度のレイラは、迷わなかった。
「レイラ・ヴァン・リュカリオンです」
森の中で。
複数の弓弦が引かれる音がした。
レイラは続ける。
「以前、北部の入口から入境し、森議会から三十日間の滞在を認められました。白い羽根も所持しています」
「羽根を」
レイラは革袋から白い羽根を取り出した。
ただし、掲げるだけで。
前へは出ない。
北部で初めて名乗った時。
エルナは羽根へ手を伸ばさなかった。
羽根は命令書ではない。
森へ、話を聞かせるための印。
そのことを。
レイラはいまも覚えている。
「同行者は」
「ルーウェン」
ルーウェンが答えた。
森の中で、別のざわめきが起きた。
「また戻ったのか」
誰かが言った。
「聞こえている」
ルーウェンが返す。
「聞かせた」
木々の間から返事が来た。
ルーウェンは、わずかに眉を寄せた。
以前の帰還から、それほど長い年月は経っていない。
それでも。
九十七年と四か月戻らなかった男へ向けられる言葉が、すぐ尽きるわけではないらしい。
「リューリックと申します」
リューリックが続いた。
「レイラ殿下の護衛でございます」
「テオ。商人だ」
「セド」
その後ろで。
エルナが自分の木札を取り出した。
「エルナです。外地で保護した者たちとともに戻りました」
「予定にない帰還だ」
「予定どおりに戻れる道ではありませんでした」
冷静な声だった。
弓は下りない。
「後ろの者は」
「帰還を望む森人と、その家族です」
エルナが答える。
「人間もいる」
「います」
「混血も」
「います」
「カランの者が紛れていない証拠は」
「ありません」
木々の向こうが静かになった。
「ないのか」
「いま、ここで断言できる証拠はありません」
エルナは言う。
「だから、確認してください。ただし、傷のある者と子どもを森の外へ立たせたまま、何刻も待たせないでください」
レイラは、後方を見た。
人間の養父トーマ。
その服を握る混血の少女エナ。
杖をつく老女。
長い移動で熱を出し、荷車へ横たわっている若者。
ようやく森へ着いた。
そう思っている者たちの前に。
今度は、森の弓がある。
「外縁の待機所まで入れる」
樹上の声が言った。
「入境を認めたわけではない」
「分かりました」
レイラが答える。
「本当に?」
森の中から届いた問いに。
レイラは、少しだけ懐かしさを覚えた。
「分かろうとしています」
以前と同じ答えだった。
白い羽根の根元へ引かれた透明な樹脂が、ほんの僅かに光を返した。
枝が動く。
棘の間に、人が通れる道が現れた。




