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第八十九部 王女は、兄とは反対の道を選ぶ話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 急ぐ道ほど、患者を置いてはいけない話

 石祠の屋根から。


 残った雫だけが、一定の間隔で落ちている。


 朝の診察は。


 ニーナの指示で始まった。


「ガレス」


「脇腹は中くらい」


「まだ訊いてない」


「先に言った」


「よろしい」


「嬉しくない」


「オルド」


「右手。昨日より腫れは少ない。指は動く」


「ラウル」


「背中。息を吸うと痛い。熱は昨日より少し低いと思う」


「思う?」


「測ってくれ」


「レオン」


「俺は健康だ」


 四人がレオンを見る。


「何だ」


「第一条」


 ガレスが言う。


「脇腹は少し。足も少し。肩は問題ない」


 ニーナが顔を近づける。


「少し?」


「中くらい」


「最初から」


「言おうとした」


「嘘」


「顔で分かる?」


「かなり」


 ニーナはレオンの脇腹へ手を伸ばした。


「待て。朝食が先では」


「傷が先」


「空腹で倒れたら」


「そのまま診る」


「逃げ道がない」


「傷を見せたら逃げられないって、自分で言ったでしょう」


「過去の俺は、余計なことを言った」


「第四条」


 オルドが言う。


 レオンは黙った。


 規則は。


 作った翌日から。


 さらに使いやすくなっていた。



 ◇


 ヴァルガスへ続く裏道へ戻ったのは、太陽が雲の上へ出た頃だった。


 道はまだ濡れている。


 車輪が泥へ沈むたび、ガレスが手綱を引き。


 オルドが横から地面の状態を見る。


「右を通れ」


 オルドが言う。


「右は深い」


 ガレスが答える。


「左に石がある」


「車輪が乗れば傾く」


「前に倒木」


「見えている」


「なら」


「黙って座れ」


「御者台へ一人で座っているから見落とす」


「お前が隣にいるから馬が苛立つ」


「馬のせいにするな」


 荷台の中で。


 ニーナが顔を上げた。


「相談して」


 二人が同時に口を閉じる。


「右と左、どっち」


「中央だ」


 ガレスが答える。


「最初から、そう言えばいい」


「中央は轍が深い」


 オルドが言う。


「相談は終わっていない」


「なら、石を退ける」


「誰が」


 二人が荷台を見る。


 レオンとラウルが。


 同時に視線を逸らした。


「患者一号」


 ガレスが呼ぶ。


「脇腹が中くらいだ」


「患者三号」


「背中へ矢を受けたばかりだ」


「患者四号」


「右手が使えない」


 全員。


 ニーナを見る。


「私は治療者」


 即答だった。


「結局、俺か」


 レオンが馬車を降りた。


「元気だと言ったでしょう」


「第一条が、こんな形で返ってくるとは思わなかった」


 道端の石を動かす。


 重い。


「手伝おうか」


 ニーナが尋ねる。


「大丈夫だ」


「本当?」


「中くらいだが動かせる」


「なら、無理したら止めて」


「はい」


 ガレスが御者台から言う。


「素直になったな」


「石をお前の足へ落とすぞ」


「第四条」


 オルドとラウルが。


 今度は同時に言った。



 ◇


 昼前。


 道は、小さな川へ差し掛かった。


 橋はない。


 浅瀬を渡る。


 雨の翌日で水かさが増している。


 ガレスが馬車を止めた。


「先を見る」


「相談」


 ニーナが言う。


「川幅は狭い。全員から見える。俺とオルドで足場を確認する」


「ラウルとレオンは?」


「馬車」


「私は?」


「馬車」


「分かった」


 相談は。


 すでに日常へなり始めていた。


 ガレスとオルドが浅瀬へ入る。


 水は膝の下。


 流れは速い。


 石を踏み。


 深さを確かめる。


 その時。


 オルドが下流を見た。


「荷車がある」


 川岸の柳。


 その根元へ。


 小さな二輪荷車が横倒しになっている。


 荷台には、濡れた紙束。


 片方の車輪が外れ。


 泥の中へ半分沈んでいた。


「人がいる」


 ガレスが走った。


 荷車と地面の間から。


 腕が一本見える。


「ニーナ!」


 呼ばれる前に。


 彼女は薬箱を持って馬車を降りていた。


「第二条」


 レオンが言う。


「見える範囲」


「相談してない」


「急患」


「なら俺も行く」


「脇腹」


「中くらい」


「無理しない」


「実行する」


 ラウルが荷台から身体を起こす。


「俺は」


「寝てて」


「何かできる」


「背中の傷が開く」


「縄くらい持てる」


 ニーナは一瞬考えた。


「じゃあ、馬を押さえて。馬車が動いたら呼んで」


「分かった」


「オルド!」


「ここだ」


「荷車を動かす前に、どこが挟まっているか見て!」


 オルドが泥へ膝をつく。


 荷車の下を覗く。


「右脚だ。膝から下」


「血は」


「見えない」


「見えないだけかもしれない。引っ張らないで」


 挟まっているのは。


 五十前後の男だった。


 灰色の髪。


 紙商人らしい厚手の上着。


 顔は泥だらけ。


 意識がない。


 呼吸はある。


 ニーナは荷車の脇へ腹這いになった。


 首。


 胸。


 腹。


 手で触れられる範囲を確認する。


「頭に傷」


「深いか」


 レオンが尋ねる。


「分からない。血は止まりかけてる」


「脚は」


「荷車を上げないと見えない」


 ガレスが車軸へ手を掛ける。


「上げるぞ」


「待って」


 ニーナは泥へ手を入れた。


 脚の周囲を探る。


「車輪の金具が食い込んでる。上げた瞬間、血が出るかもしれない」


「どうする」


「布を用意。太腿を縛れる長さ」


 レオンが自分の外套の裏布を裂いた。


 オルドが左手で結び目を作る。


「これでいいか」


「もう少し幅を広く」


「右手が」


「私が直す」


 ニーナは布を受け取り、男の太腿へ回した。


「強く締めるのか」


 ガレスが尋ねる。


「上げてから。まず押さえる場所を作る」


「誰が荷車を」


「ガレスとレオン。オルドは脚。私は傷を押さえる」


「右手一つで?」


 オルドが言う。


「左手で支えて。無理ならすぐ言って」


「分かった」


「ラウル!」


 離れた馬車から返事が来る。


「何だ!」


「縄!」


 ラウルは荷台に残ったまま、長い縄を投げた。


 レオンが受け取る。


 荷車の上部へ回し。


 柳の幹へ掛ける。


「引けば少し軽くなる」


 ガレスが言う。


「患者三号、引けるか!」


「背中を動かさない範囲なら!」


「無理なら離せ!」


「分かってる!」


 ニーナが全員を見る。


「一度だけで上げる。途中で落とさない」


「了解」


 ガレス。


 レオン。


 オルド。


 ラウル。


 少し前まで。


 互いを売り。


 殺そうとしていた男たちが。


 一人の見知らぬ患者を中心に。


 同じ指示を待っている。


「一、二」


 ニーナが息を吸う。


「三!」


 縄が張る。


 荷車が持ち上がる。


 ガレスとレオンが車軸を押し上げる。


 オルドが挟まれた脚を引く。


 男の身体が泥の上へ滑った。


 同時に。


 膝下から血が溢れた。


「布!」


 ニーナが傷へ両手を当てる。


「締めて!」


 オルドが太腿の布を引く。


 左手だけでは力が足りない。


 ガレスが片手を添える。


「もっと!」


「これ以上は」


「締めて!」


 男の脚から出る血が。


 少しずつ弱くなる。


「息は」


 レオンが首へ触れる。


「ある。弱い」


「呼んで」


「何と」


「名前が分からない」


「おい、紙屋!」


 レオンが呼ぶ。


 男は反応しない。


「雑!」


「では、何と呼ぶ」


「聞こえますか!」


 ニーナが顔を近づける。


「荷車の下から出ました。いま、脚の血を止めています。目を開けて!」


 瞼が。


 僅かに動いた。


「聞こえますか」


「……紙」


 掠れた声。


「紙は後」


「濡れる」


「命が先」


「売り物だ」


「死んだら売れないでしょう」


 男の目が。


 ほんの少し開く。


「正しい」


「名前は」


「……エルマン」


「エルマン。眠らないで」


「眠い」


「駄目」


「厳しいな」


「よく言われる」


 レオンが横で言う。


「俺たち全員から」


「第四条」


 ニーナは傷から手を離さずに言った。


 レオンは黙った。


 この状況でも。


 規則は有効だった。



 ◇


 出血が弱まったあと。


 ニーナは傷を清潔な布で包み。


 折れた脚を。


 荷車の板を使って固定した。


 完全な治療ではない。


「ここでは、これ以上できない」


 ニーナが言う。


「骨が折れてる。傷も深い。縫うなら、もっと明るい場所と湯が必要」


「次の村は」


 ガレスが地図を見る。


「半刻戻ったところに、小さな巡礼宿がある」


「戻る」


 ニーナが即答した。


 レオンは。


 ヴァルガスの方角を見る。


 古い印刷所。


 カミラの生存。


 急ぐな。


 急げば死ぬ。


 紙にはそう書かれていた。


「レオン」


 ニーナが呼ぶ。


「戻る」


 彼女が何か言う前に答えた。


「よいのか」


 ガレスが尋ねる。


「患者を置いていかない」


「第三条」


 ラウルが馬車から言った。


「分かっている」


「成長したな」


「全員、俺を育てた気になるな」


 オルドが。


 エルマンを抱き上げる準備をしながら言う。


「黙って持て」


「右手は」


「左肩を使う」


「無理するな」


 ニーナが言う。


「患者が増える」


「分かっている」


 ガレスとレオンが脚側。


 オルドが上半身。


 三人で。


 エルマンを馬車へ運ぶ。


 ラウルは荷台の中で毛布を広げた。


「ここへ」


「背中は」


 ニーナが尋ねる。


「痛い」


「よろしい」


「だから褒めるな」


 全員が。


 ほんの少しだけ笑った。



 ◇


 エルマンを荷台へ乗せたあと。


 ニーナは濡れた上着を切り開き。


 ほかに傷がないかを確認した。


 胸元から。


 小さな革袋が落ちる。


「触るな」


 エルマンが言った。


 意識は。


 先ほどより戻っている。


「薬?」


「違う」


「なら、あと」


「紙屋の荷だ」


「紙は逃げない」


「人は逃げる」


「あなたはいま逃げられない」


 エルマンは苦い顔をした。


「正しい」


 ニーナは革袋を拾い。


 本人の胸元へ戻した。


「勝手に見ない」


「なぜ」


「患者の物だから」


 エルマンが。


 初めてニーナの顔を、はっきり見た。


「医者か」


「町医者の娘」


「正式な?」


「違う」


「それで、この人数を従えているのか」


「従えてない」


 御者台のガレスが振り返る。


「従わされている」


「違う」


 オルドも言う。


「規則を守っているだけだ」


「同じだろ」


 ラウルが答える。


「俺は患者だから仕方なく」


「全員、言い訳が多い」


 ニーナは薬箱を閉じた。


 エルマンが掠れた声で笑う。


「青いインクより、面倒な一行だな」


 レオンの目が変わった。


「青いインクを知っているのか」


「紙屋だ」


「それだけでは」


「お前」


 エルマンは、レオンを見る。


「派手な傭兵だな」


 レオンの顔が止まった。


「その呼び方を、誰から聞いた」


「紙屋は、名前より先に噂を運ぶ」


「ヴィクトルか」


 エルマンは答えない。


 代わりに。


 視線をレオンの革袋へ向けた。


「持っているんだろう」


「何を」


「一度だけ使えるものを」


 レオンは、しばらく動かなかった。


 ガレスが馬車を止める。


 オルドの左手が短剣へ近づく。


 ラウルも、痛む身体を起こした。


 ニーナだけが、エルマンの脈を取っている。


「全員、動かないで」


「だが」


 ガレスが言う。


「この人、血が足りてない。話すなら短く」


「治療者」


 エルマンが呼ぶ。


「何」


「少しだけ、二人で話せないか」


「駄目」


 レオンが答える。


「第二条」


 ニーナが言う。


「そうではなく」


「私は患者から離れない」


「なら、全員で聞くか」


 エルマンは。


 諦めたように目を閉じた。


「青いインクも、ずいぶん変わった仲間を待たせたものだ」


 レオンは革袋へ手を入れた。


 小さな活字。


 古いイタリカ文字。


 溝へ残る青いインク。


 真。


 掌へ出す。


 エルマンの目が開いた。


「本物だ」


「分かるのか」


「その角の欠け方を知っている」


「ヴィクトルから?」


「昔、同じ棚で働いた」


 エルマンは息を整える。


「それは、一度だけ使える」


「知っている」


「青いインクの仲間へ見せれば、話くらいは聞く」


 ヴィクトルが。


 夜明け前の井戸小屋で言った言葉。


 そのままだった。


 レオンは活字を握った。


「お前が、話を聞く相手か」


「違う」


「では」


「俺は、入口まで紙を運ぶだけだ」


「入口はどこだ」


「鐘の鳴らない礼拝堂」


 オルドが眉を寄せる。


「礼拝堂に鐘がないのは、珍しくない」


「ヴァルガスの南門跡から、古い水路を西へ。焼けた染物小屋の裏だ」


「合図は」


「夕刻」


 エルマンは。


 次の言葉を出すまで、長く息を吸った。


「扉を三度。間を置いて、二度」


「誰が出る」


「知らない」


「ヴィクトルは」


「いないかもしれない」


 レオンの眉が動く。


「なぜ」


「ヴァルガスの地下は、いま割れている」


「割れている?」


「青いインクを、名前を残すために使う者」


 息。


「政権を倒すために使う者」


 さらに息。


「金で紙を売る者」


「カロか」


 テオの追う男の名を。


 レオンが口にする。


 エルマンは知らないような顔をした。


「清書屋の名なら、聞いた」


「関わっている?」


「紙は、一度流れれば」


 目を閉じる。


「誰の手にも入る」


「エルマン」


 ニーナが肩を軽く叩く。


「眠らないで」


「もう、話した」


「巡礼宿まで」


「遠い」


「半刻」


「長い」


「なら、話の続きを作る」


 レオンが言った。


 ニーナが彼を見る。


「何の話」


「生き残るコツ」


「続き、あるの?」


「嘘だ」


「ないの」


「いまから作る」


 エルマンの口元が。


 ほんの僅かに上がった。


「派手な傭兵」


「何だ」


「ヴィクトルが、気に入りそうだ」


「もう会ってる」


「なら」


 目が閉じかける。


「また、面倒を持ち込め」


「眠るな」


「治療者より、うるさい」


「それは聞き捨てならない」


 ニーナが言った。


「私の方が、ちゃんとうるさい」


「競うところか?」


 ガレスが尋ねる。


「患者を起こすなら必要」


「では、二人でやれ」


 馬車が。


 巡礼宿へ向けて動き出す。


 ヴァルガスとは反対の方角。


 ほんの半刻。


 それでも。


 カミラから遠ざかる道。


 以前のレオンなら。


 焦ったかもしれない。


 一人だけ降りて。


 先へ行こうとしたかもしれない。


 だが。


 荷台には。


 血を失った紙屋がいる。


 背中に傷を負ったラウル。


 右手を負傷したオルド。


 脇腹を縫ったガレス。


 薬箱を抱くニーナ。


 同じ紙へ名前を書いた者たち。


「レオン」


 ニーナが呼ぶ。


「何だ」


「急いでる?」


「ああ」


「止まってて、大丈夫?」


「大丈夫ではない」


 正直に答えた。


「でも」


 エルマンの脚を固定する板を見る。


「止まる」


「よろしい」


「褒めてる?」


「かなり」


 レオンは。


 ほんの少しだけ笑った。


 急ぐな。


 急げば死ぬ。


 青い紙に書かれた警告を。


 初めて。


 他人から押さえ付けられずに守っていた。


 西では。


 妹が兄とは反対の道を選んだ。


 東では。


 兄が目的地とは反対へ、患者を運んでいる。


 互いに。


 相手が遠ざかったことを知らない。


 それでも。


 誰かを置いていかないために選んだ道は。


 不思議と。


 同じ方向へ続いていた。



 ──第八十九部 了


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