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第八十九部 王女は、兄とは反対の道を選ぶ話 ① 眠れない夜と、お互い長生きできるという言葉

 レイラは、ほとんど眠れなかった。


 寝台はあった。


 毛布も乾いていた。


 窓は閉まり、廊下から聞こえてくるのは、宿の主人が薪を足す音と、ときおり馬小屋で馬が床を蹴る音だけだった。


 リヴェン野戦第三病院の椅子より、ずっと眠りやすい。


 それなのに。


 目を閉じるたび、二枚の紙が浮かんだ。


 斜めに青い線を三本引かれた印刷物。


 百年帰らぬ者へ、と書かれたシルヴァス長老会の文。


 その間へ。


 フィアの名が書かれた記録板が入る。


 兄と思われる者の痕跡を追えば、道は東へ続く。


 東では、カミラ・パヴェルという監察官が消えている。


 かつて兄が、査問を見届けるために進路を戻した女。


 だが。


 現在の兄が、カミラと関わっているのかは分からない。


 再会したのか。


 一緒にいるのか。


 失踪を知っているのか。


 何も分からない。


 一方。


 西では、シルヴァスへ帰ろうとした者が、森へ着く前に襲われた。


 名簿を奪われ。


 連れ戻され。


 殺された。


 こちらには、血の付いた羽根がある。


 考えれば考えるほど。


 どちらの道を選んでも、もう片方を置いていく気がした。


 夜明け前。


 レイラは毛布を畳み、外套を羽織った。


 隣の寝台では、エルナが眠っている。


 起こさないよう静かに戸を開けた。


 階段を下りる。


 食堂には誰もいない。


 厨房の火も落ちている。


 裏口から外へ出ると、空はまだ青黒かった。


 宿の裏にある小さな礼拝堂の前で、人影が一つ動いた。


「眠れなかったか」


 ルーウェンだった。


 石段へ座り。


 血で汚れた白い羽根を、両手の間へ持っている。


「ルーウェンも」


「前にこの道を通った夜よりは、少し眠った」


 レイラは彼の隣へ腰を下ろした。


 夜明け前の風は冷たい。


 西から吹く風には、湿った木と土の匂いが混じっている。


 レイラも、すでに知っている匂いだった。


 初めてではない。


 一度。


 ルーウェンとともに、この先へ入った。


 白い羽根と、古い誓約を持ち。


 シルヴァスの森を歩いた。


 外から眺めるだけだった国へ入り。


 そこに生きる者の顔も。


 閉ざされた道も。


 人間へ向けられる警戒も見た。


 だからこそ。


 今回は、前より怖かった。


「帰りたいですか」


 レイラが尋ねた。


 ルーウェンは、すぐに答えなかった。


「その質問は、前にも聞かれた気がする」


「答えは変わりましたか」


「前回は、森へ入れば何かが分かると思っていた」


「実際は?」


「分からないことが増えた」


 ルーウェンは白い羽根を見る。


「私が知っていた森は、百年前の森だった。だが、一度戻ったことで、いまの森が昔と同じではないことだけは分かった」


「それでも、もう一度戻る」


「今度は、自分が通れるか確かめるためではない」


 ルーウェンは、血の付いた羽根を握った。


「通ろうとした者が、道の途中で消えた」


 前回。


 レイラたち自身は、森へ入ることができた。


 警戒され。


 疑われ。


 それでも、白い羽根と古い誓約は、少なくとも二人のためには道を開いた。


 だが。


 同じ道を。


 誰もが通れるわけではなかった。


「前に通った時は」


 レイラが言う。


「私たち自身のことしか、見えていなかったのかもしれません」


「お前は追われていた」


「それでもです」


 自分が保護されるか。


 古い誓約が残っているか。


 自分の血が何を意味するのか。


 それだけで精いっぱいだった。


 帰還者の名簿。


 混血の子ども。


 人間の土地で育った者。


 エルフではない家族を持つ者。


 彼らが、どのように森へ戻るのか。


 戻れないのか。


 そこまでは見ていなかった。


「西へ進むことが、怖いです」


 レイラは正直に言った。


「兄様から、また遠ざかるかもしれません」


「東を選べば」


「フィアさんや、セラフィナさんと同じような人が、また連れ去られるかもしれません」


「どちらも、お前が止めなければならないことなのか」


 問いは厳しかった。


 だが。


 責めてはいない。


 レイラは自分の手を見る。


 王女の手。


 逃亡者の手。


 患者へ水を飲ませ。


 名が書かれた板を預かった手。


「すべてを止められるとは思っていません」


「なら」


「だから、選ばなければなりません」


 ルーウェンが、初めてレイラを見た。


「兄様を追うことは」


 言葉を一度止める。


「私の願いです」


 十年間。


 死んだと思っていた兄。


 生きているかもしれないと知った。


 会いたい。


 顔を見たい。


 なぜ帰らなかったのかと責めたい。


 生きていたことへ感謝したい。


 何より。


 もう一度、兄と呼びたい。


「でも、白枝道を通った人たちは」


 レイラは続けた。


「自分で西を選びました」


 奴隷の場所から逃げ。


 人間の町を越え。


 森へ戻ろうとした。


「それなのに、途中で道を奪われた」


 選ぶことさえ。


 許されなかった。


「兄様は」


 東の暗い空を見る。


「自分の足で、どこかへ進んでいます」


 どこへ向かっているのかは分からない。


 だが。


 少なくとも、兄は自分で道を選べる。


「でしたら」


 レイラは立ち上がった。


 夜の端が、少しずつ白くなっている。


「私は、選ぶ道さえ奪われた人の側へ行きます」


 ルーウェンは、まだ座ったままだった。


「決めたのか」


「はい」


 迷いが消えたわけではない。


 東を捨てたわけでもない。


 ただ。


 いま進む方角を決めた。


「兄様が東へ進むなら」


 レイラは言った。


「私は、西を止めます」


「西そのものを?」


「人が帰る道を奪う者を」


 ルーウェンの口元へ。


 ほんの僅かに。


 いつもの笑みが戻った。


「大きく出たな」


「兄様よりは、控えめだと思います」


「比較する相手が悪い」


 背後で、礼拝堂の戸が小さく軋んだ。


「私も、そのように存じます」


 リューリックが立っていた。


 外套を着込み。


 剣を腰へ下げている。


「いつから聞いていたのですか」


「殿下を比較対象になさった辺りからでございます」


「ほとんど最後ではありませんか」


「重要な結論は伺いました」


 その後ろから。


 テオも出てくる。


 帳面を脇へ抱えていた。


「商人は夜中に帳簿を広げるなと言われたはずでは」


 レイラが言う。


「まだ夜明け前だ。夜中ではない」


「詭弁です」


「商人には必要だよ」


 さらに。


 礼拝堂の壁の向こうから、セドが顔を出した。


「皆、起きてた」


「あなたまで」


「寝相を証明するために、起きてた」


「それでは証明になりません」


「寝なければ落ちない」


「不正です」


 エルナも裏口から歩いてきた。


 髪をまとめながら、深く息を吐く。


「結局、誰もまともに寝ていないのね」


「私は少し眠りました」


 レイラが言う。


 全員が彼女を見る。


「……ほとんど眠っていません」


「正直でよろしい」


 エルナが答えた。


「セラさんの言葉が、完全に一行へ根付きましたね」


 リューリックが真面目に頷く。


「有用な教えでございます」


 レイラは、集まった全員を見た。


「西へ戻ります」


 改めて言う。


「シルヴァスへ入り、白枝道で何が起きているのかを確かめます。帰ろうとする人が、森へ届く前に連れ去られる流れを止めたいと思います」


 リューリックは頭を下げた。


「御意に」


 その答えが早すぎて。


 レイラは少しだけ眉を寄せた。


「よいのですか」


「何がでございましょう」


「あなたも、兄様を追いたいはずです」


 リューリックは、すぐには答えなかった。


 十年間。


 兄とともに歩いた男。


 レイラより長く。


 レオンの傷も。


 笑いも。


 失敗も。


 すべて見てきた。


「お会いしたいと、思っております」


 静かな答えだった。


「いまも、毎日」


「なら」


「しかし、殿下は御自身で道を選び、動いておられます」


 レイラが先ほど口にした言葉と、同じだった。


「そして、私が現在お仕えしているのは」


 リューリックは深く頭を下げる。


「レイラ殿下でございます」


 その言葉に。


 レイラの胸が僅かに痛んだ。


 兄から奪ったように感じたからではない。


 リューリックが。


 兄へ会いたい気持ちを持ったまま。


 自分の選択へ従おうとしていることが分かったからだった。


「ありがとうございます」


「礼には及びません」


「いいえ」


 レイラは言った。


「必要です」


 リューリックは少しだけ目を伏せた。


「では、頂戴いたします」


 テオが帳面を開いた。


「東側の情報は、捨てなくていい」


「どうするのですか」


「青いインクの紙を写す。一部は僕たちが持つ。もう一部は、東へ向かう商人の経路へ流す」


「誰へ届くか分からないのでは」


「紙は、人間より長く道へ残る」


 テオは答えた。


「レオン本人へ届かなくても、東側で同じことを追う誰かへ届けばいい」


「改竄される可能性は」


「ある」


「奪われる可能性も」


「ある」


「燃やされる可能性は」


「かなり」


 テオは薄く笑った。


「だから、一枚だけにはしない」


 印刷工ではない。


 だが。


 商人にも、紙を運ぶ道がある。


「ヴィクトルという方と、少し似ていますね」


「会ったことはないけれど」


 テオは斜め三本線の紙を見る。


「話は合いそうだ」


「帳簿を預けられる相手でしょうか」


 リューリックが尋ねる。


「預けない」


「では」


「見せ合うくらいなら」


 テオは答えた。


「その方が、お互い長生きできる」



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