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第八十八部 青いインクは、遠い国の傷を同じ紙へ載せる話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 「真」の一文字は、五人には少し重い話

 ヴェルシャイン王国東部。


 南東へ延びる巡礼路は、昼過ぎから細い雨に覆われていた。


 馬車の幌へ、一定の間隔で水滴が落ちる。


 ぱた。


 ぱた。


 時々、風向きが変わると、幌の隙間から細かな雨が入り込んだ。


 ニーナは薬箱へ布を掛け。


 その上から、自分の外套まで重ねていた。


「お前の服が濡れるぞ」


 レオンが言う。


「薬が濡れるよりいい」


「風邪を引く」


「引いたら治す」


「自分を?」


「できる範囲で」


「医療者が倒れるのは困る」


 オルドが言った。


 ニーナが顔を上げる。


「心配してる?」


「荷が増える」


「患者四号も、ずいぶん言い方がガレスに似てきたね」


「その呼び方をやめろ」


「オルド」


「何だ」


「外套の端、貸して」


「なぜ」


「薬箱を包む」


「俺の外套も濡れる」


「傷へ雨が入るよりいいでしょう」


「俺のためか、薬箱のためか」


「両方」


 オルドは不満そうにしながら、外套の端を薬箱へ掛けた。


 ラウルが荷台の奥で笑う。


「隊長様が、医療者の荷物係だ」


「元隊長だ」


「そこを否定するのか」


「お前は黙って寝てろ」


「第一条。背中が痛い」


「正直でよろしい」


 ニーナが答える。


 ラウルは顔をしかめた。


「褒められるたび、なぜ腹が立つんだ」


「子ども扱いされてるからだ」


 ガレスの声が御者台から飛んでくる。


「一番年下なのにな」


 レオンが言った。


「何が」


 ニーナが尋ねる。


「いや」


「第四条?」


「まだ何も言っていない」


「顔が言ってる」


「俺の顔は、そんなに分かりやすいか」


「かなり」


 オルドが答える。


「お前まで」


「賞金首を見分ける仕事をしていた。顔は見る」


「俺を売るために身に付けた技術が、会話へ使われている」


「便利だろう」


「複雑だな」


 馬車は雨の中を進んだ。


 五人。


 敵だった者。


 売る側だった者。


 売られる側だった者。


 医療者。


 まだ仲間ではない一行。


 それでも、荷台の中には少しずつ役割が生まれていた。


 ガレスが道を選ぶ。


 オルドが前方と荷台の間を見張る。


 ラウルが、聞き覚えのある宿駅や人の名を思い出す。


 ニーナが傷を見る。


 レオンが余計なことを言う。


 最後だけは役割ではないと、本人は主張していた。


 夕刻前。


 ガレスが馬車を止めた。


「どうした」


 レオンが御者台へ顔を出す。


 道の先に、小さな石祠がある。


 旅人が雨宿りできる程度の屋根。


 祠の前には折れた杖。


 供物用の皿。


 そして。


 濡れないよう石の下へ挟まれた、一枚の紙。


「罠?」


 ニーナが尋ねる。


「分からない」


 ガレスは弩を手へ取った。


「全員、馬車へ残れ」


「第二条」


 ニーナが言う。


「祠は、ここから見える」


「相談して」


 ガレスは一度、祠と周囲の木立を見た。


「では相談だ。俺が一人で確認する。馬車から見える範囲を出ない。何かあれば、すぐ戻る」


 ニーナも距離を測った。


 走れば、すぐに届く。


「分かった」


「ずいぶん素直だな」


「相談したから」


 ガレスは御者台を降りた。


 弩を構えたまま祠へ近づく。


 紙には触れない。


 周囲。


 地面。


 足跡。


 木立。


 屋根の裏。


 すべてを確かめてから、短剣の先で紙を持ち上げる。


「印がある」


「何の」


 レオンが尋ねる。


「青い線。斜めに三本」


 レオンの顔から軽さが消えた。


 馬車を降りる。


「知ってるの?」


 ニーナも荷台から顔を出す。


「ヴィクトルの印だ」


「印刷所の人?」


「ああ」


「信じられる?」


 レオンは、すぐには答えなかった。


 ヴィクトル・コヴァチ。


 カミラのかつての同志。


 革命の理想を捨てず、国家の外側へ残った男。


 レオンを助けた。


 同時に。


 自分たちの地下網を守るためなら、レオンを利用することもためらわない男。


「信用できる部分はある」


「全部ではない?」


「全部を信用できる人間は、たぶんいない」


 ニーナが少し考える。


「私も?」


「お前は、全部信用すると怖い」


「どういう意味」


「傷を見せたら、逃げられない」


「逃がさないから」


「ほら」


 ガレスが紙を持って戻る。


「読むぞ」


 文章は短かった。


 真を持つ者へ。


 北東監察道を避けよ。


 ヴァルガス正門は監視下。


 古い印刷所を探すなら、真を示せ。


 偽りの真は、火へ返す。


 ラウルが眉を寄せた。


「意味が分からない」


「俺には分かる」


 レオンは革袋へ手を入れた。


 これまで、何度も触れた。


 取り出さず。


 見せず。


 持っていることだけを確かめてきたもの。


 小さな活字。


 古いイタリカ文字。


 真。


 ニーナは、初めて見る。


「これが?」


「ヴィクトルから預かった」


「いつ」


「ヴァルガスを出る時だ」


「ずっと持ってたの」


「ああ」


「賞金首狩りに奪われなかった?」


「価値が分からなかったらしい」


 オルドが活字を見る。


「こんな小さな金属片が、通行証なのか」


「通行証ではない」


「では」


「問いだ」


 レオンは答えた。


「これを見せる人間が、真実を知りたいのか。自分に都合のよい話を真実と呼びたいだけなのか。向こうも、それを見る」


「面倒だな」


 ガレスが言う。


「革命家は面倒なんだ」


「お前が言うのか」


「俺も面倒だから分かる」


「第四条」


 ニーナが言った。


「自己分析だ」


「必要?」


「少しは」


「なら許す」


 オルドは活字から目を離さない。


「それを見せれば、古い印刷所へ入れる」


「おそらく」


「入ったあと、俺たちはどうなる」


「分からない」


「捕虜として渡すのか」


 ニーナがレオンを見る。


 ラウルも。


 オルドも。


 ガレスは何も言わず、レオンの答えを待った。


 五人の規則。


 同じ紙へ書いた名前。


 しかし。


 オルドとラウルは元敵。


 ヴィクトル側から見れば、危険人物であることに変わりはない。


「渡さない」


 レオンは答えた。


 オルドの目が僅かに動く。


「なぜ」


「ニーナが治療中だ」


「それだけか」


「第三条」


 患者を置いていかない。


 レオンは、わざと軽く言った。


 だが。


 誰も笑わなかった。


「お前たちが敵だったことは話す」


 レオンは続ける。


「知っていることも、やったことも隠さない。ただ、処分するために引き渡すつもりはない」


「ヴィクトルが拒んだら」


 ガレスが尋ねる。


「別の道を探す」


「カミラから遠ざかるぞ」


「ああ」


「それでも?」


 レオンはニーナを見た。


 次に。


 ラウル。


 オルド。


 ガレス。


 自分一人なら。


 以前なら。


 迷わず二人を切り離したかもしれない。


 カミラへ近づくために。


 自分一人が危険へ入ればよいと。


 だが。


 いまは、同じ馬車へ名前が五つある。


「俺が決めた規則ではないが」


 レオンは言った。


「署名した」


 ニーナの口元が、ほんの少しだけ緩む。


「守る?」


「努力する」


「実行」


「ああ」


 今度は、言い直した。


「実行する」


 オルドは左手で右手の包帯を押さえた。


「助けたつもりになるな」


「なっていない」


「俺は、お前を殺そうとした」


「知っている」


「また裏切るかもしれない」


「その時は」


 ニーナが口を挟む。


「怒る」


 オルドが彼女を見る。


「それだけか」


「必要なら縛る」


 ガレスが鼻で笑った。


「聞いた話だな」


「規則は何度でも使うもの」


 ニーナは当然のように答えた。


「便利だね」


 ラウルが言う。


「命が助かる方へばかり便利だ」


「嫌?」


「いや」


 ラウルは雨の向こうを見る。


「いまは、それでいい」


 紙には、さらに小さな文字があった。


 カミラ・パヴェル監察官は生存。


 ただし、場所は移る。


 急ぐな。


 急げば死ぬ。


 レオンの指が止まる。


「カミラ?」


 ニーナが尋ねた。


「ああ」


「生きてる」


「ああ」


 声が僅かに掠れた。


 生きている。


 手紙に書かれていた。


 私も、戻る。


 その約束が。


 まだ消えていない。


 レオンは目を閉じた。


 ほんの一瞬だけ。


 安堵した。


 すぐに。


 紙の最後の一文を見る。


 急ぐな。


 急げば死ぬ。


 それは。


 カミラが死ぬという意味かもしれない。


 ヴィクトルの仲間が。


 証人が。


 あるいは。


 レオン自身が。


「行くの?」


 ニーナが尋ねた。


「行く」


「すぐ?」


 レオンは答えかけた。


 いつもの自分なら。


 すぐだ。


 今夜でも。


 一人でも。


 そう言う。


 しかし。


 ガレスの脇腹。


 ラウルの背中。


 オルドの右手。


 雨に濡れたニーナ。


 五人の規則。


「今日は、雨を避ける」


 レオンが言った。


 ガレスが眉を上げる。


「明日、裏道からヴァルガスへ近づく。正門へは行かない。まず連絡場所を探す」


「一人で?」


 ニーナが聞く。


「全員で相談する」


 数秒。


 誰も話さなかった。


「何だ」


「成長した」


 ニーナが言う。


「褒めてる?」


「少し」


「少しか」


「かなり」


 レオンは笑った。


「なら、今日はよく眠れそうだ」


「傷を見てから」


「前言撤回」


「第四条」


 ガレスとオルドの声が重なる。


 ラウルまで、遅れて言った。


「第四条」


 レオンは紙を折り畳んだ。


 青い三本線。


 カミラの生存。


 ヴィクトルへの入口。


 遠く西では。


 同じ三本線を持つ印刷物を、妹が手にしている。


 だが。


 レオンは知らない。


 レイラも。


 兄がカミラ・パヴェルと再び行動し。


 その女を追って東へ向かっていることを知らない。


 レイラが知ったのは。


 かつて兄が、その監察官を紙の上から消させまいと、進路を戻したことだけだった。


 それでも。


 別々の場所で。


 同じ青いインクが。


 兄妹の手へ届いた。


 兄は東へ。


 妹は西へ。


 互いが、誰と歩き。


 何を守ろうとしているのか。


 まだすべては知らない。


 知らないまま。


 同じ大陸の傷だけを、別の側から見始めていた。



 ──第八十八部 了


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