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第八十八部 青いインクは、遠い国の傷を同じ紙へ載せる話 ② 宿の夕食と、自分で選ぶという答え

 宿の夕食は、豆と玉葱を煮たもの、黒パン、干した肉だった。


 卓の中央には、蜜を薄く塗った小さな焼き菓子も一皿だけ置かれている。


 セドが最初に一つ取る。


 ルーウェンが二つ目へ手を伸ばす。


 レイラも、ほとんど同時に手を伸ばした。


 二人の指が、同じ菓子へ触れた。


「どうぞ」


 レイラが手を引く。


「いや、若い者が食べればいい」


 ルーウェンも手を引く。


「では、いただきます」


 セドが間から取った。


「なぜ、あなたが」


「二人ともいらないって言った」


「言っていません」


「手は引いた」


「譲ったのです」


「俺も、食べる人がいないから助けた」


「非常に都合のよい解釈です」


 セドは菓子を半分ほど口へ入れ、残りをレイラの皿へ置いた。


「何ですか」


「全部取ったら怒る顔だった」


「怒ってはいません」


「じゃあ、返して」


 レイラは菓子を手で覆った。


「これは、いただきます」


「怒ってる」


「正当な権利です」


 エルナが笑い、テオも口元を緩めた。


 病院を出てから初めて、全員の間へ柔らかな空気が広がった。


 フィアの記録板は、まだ胸元にある。


 セラフィナも見つかっていない。


 それでも。


 笑うことが裏切りになるわけではない。


 忘れず。


 食べて。


 眠って。


 そのあとで、また歩く。


 病院で見た人々も、そうして生きていた。


 レイラが菓子を一口食べた時だった。


 宿の戸が開いた。


 冷たい風が入り込む。


 外套を濡らした若い男が、息を切らして立っていた。


「ここに」


 男は食堂を見回した。


「セオドール・グラント会長は、いらっしゃいますか」


 テオの表情が変わった。


「僕だ」


 男は近づき、外套の内側から細長い紙包みを取り出した。


 封蝋はない。


 代わりに、紙を結ぶ紐の結び目へ、小さな青い染みが付いている。


「西の宿駅からです」


「誰に頼まれた」


「分かりません。馬を替える場所で、次の宿まで運べと言われただけです」


「報酬は」


「銀貨一枚」


「渡した者の顔は」


「見ていません。紙と銀貨が宿の壁へ掛けられていました」


 テオは紙包みを受け取った。


 すぐには開かない。


 紐。


 紙質。


 折り方。


 青い染み。


 一つずつ見る。


「テオ」


 レイラが呼ぶ。


「少し待って」


 声は穏やかだった。


 だが、目は完全に商人のものへ戻っている。


 テオは紙包みを卓へ置き、短剣で紐だけを切った。


 中には、印刷された紙が三枚入っていた。


 文章も。


 活字の欠け方も。


 折られた位置も同じ。


 ただし、一枚目の端にだけ。


 斜めに走る青い線が三本あった。


 細い。


 互いに僅かに角度が違う。


 手で引かれた線だった。


 リューリックが、紙へ身を寄せた。


「その印は」


 いつもより声が早い。


「ご存じなのですか」


 レイラが尋ねる。


「はい」


 リューリックは三本の線を見たまま答えた。


「イタリカのヴァルガスにて、同じ印を用いる印刷網と接触しております」


「兄様と一緒に?」


「はい。ヴィクトル・コヴァチという印刷工の方が、中心となっておられました」


「ヴィクトル」


 レイラにとって、初めて聞く名前だった。


「表向きは印刷工でございます。ただし、その印刷所の地下では、国家の記録から消された者の名前を残し、逃亡者へ紙と経路を渡しておりました」


「青いインク」


 テオが言った。


 リューリックが彼を見る。


「ご存じでしたか」


「名前だけはね」


 テオは紙の端へ触れる。


「オーランドの港でも噂はある。正式な官報より早く、消えた船、処刑された労働者、役所が記録しなかった死者を知らせる紙だ。発行者の名は出ない」


「ヴィクトル殿たちは、正式な組織名を持っておりませんでした」


 リューリックが答える。


「名を付ければ、潰されるためだと」


「地下の新聞社。地下の郵便局。地下の戸籍係」


 テオが薄く笑う。


「商人から見ても、ずいぶん経費の掛かりそうな仕事だ」


「ヴィクトル殿も、似たようなことを仰っていました。地下も腹が減る、と」


 レイラは、兄とリューリックの知らない旅を、また一つ覗いた気がした。


 地下の印刷所。


 青い活字。


 国家に消された名前を刷り直す男。


「では、この紙は本物なのですね」


「同じ形ではございます」


 リューリックは慎重に答えた。


「しかし、印は模倣できます。内容と紙の回り方を確認するまでは、ヴィクトル殿の正規網だと断言すべきではございません」


「よい判断だ」


 テオが頷く。


「本物の印を知っている者ほど、偽物へ慎重になる」


 レイラは自分の革袋から、小さく折った古い紙片を取り出した。


 アルストラ島の修道院で受け取ったもの。


 青い細線。


 円の中の目。


 透かすと浮かんだ、古い「リュ」。


 いま届いた斜め三本線とは、紙も、色も、線の引き方も違う。


「以前の紙とは違います」


「はい」


 リューリックは見比べた。


「ヴィクトル殿の網は、斜めの三本線でございました。こちらの細線とは別物です」


 テオも、自分の帳面から一枚の荷札を出した。


 海燕号。


 薬草箱。


 麻薬原料。


 その流通へ残されていた、青い二重線。


 三つを卓上へ並べる。


 斜めの三本線。


 細い一本線。


 二本の青線。


「すべて青い」


 エルナが言う。


「同じ組織でしょうか」


「色だけでまとめるべきではないね」


 テオが答える。


「同じ青を使えば、誰が誰の線なのか分からなくなる。模倣する側には、それだけで価値がある」


「殿下も、以前同じ結論へ至られております」


 リューリックが言った。


「兄様が?」


「はい。ヴィクトル殿の三本線、別の紙へ残る細線、行き先や名義を上から書き換えた青い文字。それぞれを分けて考えるべきだと」


 レイラは三種類の青を見た。


 青いから同じではない。


 紙に書かれているから、正しいのでもない。


 誰が。


 何のために。


 何を残し。


 何を消そうとしたのか。


 それを見なければならない。


「内容を確認しましょう」


 テオが言った。


 印刷は粗い。


 一部の文字は欠け、別の活字を削って代用している。


 だが、文章は簡潔に整理されていた。


 最初の見出し。


 リヴェン西部から南部にかけ、医療物資が複数の宿駅で消失。


 レイラとテオの視線が同時に止まった。


「第三病院の薬草箱」


 レイラが言う。


「数と経路が一致する」


 テオが答える。


 次。


 オーランド東部からリヴェンへ流入する銀貨に、規定重量を下回るものが増加。


「軽い銀貨」


 ルーウェンが呟いた。


 次。


 シルヴァス方面から逃れたエルフ及び混血者が、保護宿駅へ到着したのち再び失踪。


 記録を残した者も、帰還者名簿とともに消える。


 レイラの指が、紙の端を押さえた。


 フィア。


 セラフィナ。


 ミレナが話した名簿。


 続いて。


 ザクセルの鉱山労働者へ、出所不明の武器が流入。


 一部はカラドリン工房の刻印を持つが、正規輸出記録はない。


 イタリカ国境軍の複数部隊が、政府の公開命令を示さないまま配置を変更。


 そして。


 イタリカ監察官、カミラ・パヴェル。


 公務中に所在不明。


 政府は職務上の異動と発表。


 監察局の公開記録には、異動先の記載なし。


「カミラ・パヴェル」


 レイラは、その名を初めて口にした。


 自分の記憶にはない名前だった。


「テオは、ご存じですか」


「名前と肩書だけだ」


 テオは答えた。


「イタリカの交易監査や、鉱山関連の報告書へ署名が出ることがある。会ったことはない」


 レイラは、リューリックを見る。


 彼は紙面の名前を見たまま、動かなかった。


「あなたは?」


「存じております」


 迷いのない答えだった。


「直接お会いになったのですか」


「はい。イタリカ北部のガリレオ鉱山にて、初めてお会いいたしました」


 リューリックは、当時のことを思い出すように言葉を選んだ。


「カミラ・パヴェル監察官は、左手首へ奴隷時代の烙印跡を残した方でございます。灰色の上着を着て、御自身を人民監察局の監察官と名乗られました」


「奴隷だった方が、監察官に」


「革命によって、その地位へ就かれたと伺っております」


「どのような方ですか」


「非常に実直な方でございます」


 リューリックの答えは早かった。


「国家を信じておられる。ゆえに、国家が現場で何をしているかを疑うこともやめない方です」


 その表現には。


 聞き覚えがあった。


 兄の周囲には、痛いものを見ないふりのできない者が集まる。


 セラも。


 ニーナも。


 おそらく、この監察官も。


「ガリレオで、何があったのですか」


「坑道の支柱が限界に近づき、多くの坑夫が危険へ晒されておりました。しかし、鉱石の割当と配給のため、現地には坑道を止める権限がなかったのです」


「カミラ監察官が止めた?」


「はい。御自身の名と責任によって、三日間」


「三日だけ」


「三日だけでございます」


 リューリックは静かに頷いた。


「しかし、その三日間は、坑夫とその家族にとって、初めて国家を相手に息を吸えた時間でございました」


「そのために、責任を問われたのですね」


「後日、中央監察団による査問へ召喚されました」


「あなたと兄様も、その場に?」


「はい」


「なぜ」


 リューリックは、ほんの僅かに目を伏せた。


「私が、殿下へ進路を戻すよう申し上げました」


「あなたが?」


「カミラ監察官が一人で書類の上から消されるのを、知らずに街道の先へ進むべきではないと考えました」


「兄様は、すぐ戻ると?」


「お決めになりました」


 レイラの指が、紙の端で止まる。


 兄は。


 カミラという女が責任を問われると知り。


 進もうとしていた道を戻った。


「兄様と、カミラ監察官は親しかったのですか」


 尋ねてから。


 少し踏み込みすぎたかと思った。


 だが、リューリックは表情を変えなかった。


「関係性を、簡潔に申し上げるのは難しゅうございます」


「難しい?」


「殿下は一度、カミラ監察官に頬を打たれております」


 レイラは瞬きをした。


「なぜ、その話から始めるのですか」


「当時のお二人を、最も端的に示す事実かと」


 テオが僅かに顔を逸らした。


 笑いを堪えているらしい。


「兄様は、何をしたのですか」


「水を探す途中で、カミラ監察官の私的な部屋へ入りかけました」


「兄様」


 レイラは、いない兄へ向けて低く言った。


「ただし、殿下は遭難と主張しておられました」


「宿の中で?」


「井戸は反対側にございました」


「それは遭難ではありません」


「私も同様に判断しております」


 宿の卓へ、ほんの一瞬だけ笑いが戻った。


 だが、リューリックはすぐに話を戻した。


「ヴァルガスでは、カミラ監察官から私へ、殿下の移動経路を厳重に管理するよう忠告を受けました」


「正しい判断です」


「左様でございます」


「二人とも、兄様へ遠慮がなかったのですね」


「はい。互いに、相手の言葉を必要以上に飾らない関係であったと思います」


「兄様は、あの方を気に掛けていた?」


「そのように見えました」


 リューリックは、曖昧に逃げなかった。


「査問の結果を見届けるため、進路を戻される程度には」


「カミラ監察官の方は?」


「殿下がヴィクトル殿から受け取った活字を、大事にするよう仰っておりました。また、殿下が余計な場所へ入り込まぬよう、私へ管理を求めてもおられました」


「それは、気に掛けているのでしょうか」


「殿下の場合、心配と監視の境界が曖昧でございます」


 レイラは少しだけ笑った。


 だが。


 笑みは長く続かなかった。


 紙の上では、カミラ・パヴェルが消えかけている。


「最後に会ったのは、いつですか」


「カステリオの査問前後でございます」


「それ以降は?」


「存じません」


 リューリックは、はっきり答えた。


「私が殿下と別れたあと、お二人が再会されたのか。現在も道が交わっているのか。カミラ監察官の失踪と、殿下の現在の行方に関係があるのか。私には判断できる情報がございません」


「そうですか」


 レイラは、もう一度紙へ目を落とした。


 カミラ・パヴェル。


 兄が。


 書類の上から消されるのを見過ごせず、進路を戻った女。


 互いに遠慮なく言葉を交わし。


 兄の行動をリューリックへ管理させようとした女。


 それ以上は、まだ分からない。


 現在も兄とつながっているのか。


 兄が、この失踪を知っているのか。


 自分と同じ紙を、どこかで読んでいるのか。


 考えるための情報はなかった。


 ただ。


 自分の知らない兄の時間に。


 また一人、新しい名前が加わった。


「この監察官の失踪も、薬箱や名簿とつながっているのでしょうか」


 レイラが尋ねた。


「紙を書いた者は、その可能性を疑っている」


 テオが答える。


「ただし、証明したとは書いていない」


 薬箱。


 軽銀貨。


 消えたエルフ。


 ザクセルの武器。


 所在不明の監察官。


 それぞれの場所では、小さな事件として処理される。


 盗難。


 粗悪貨幣。


 失踪。


 密輸。


 人事異動。


 だが。


 一枚の紙へ並べると。


 別々の傷が、同じ身体へ浮かび上がる。


「同じ者が、すべてを行っているのでしょうか」


「そうとは限らない」


 テオは慎重に答えた。


「同じ目的で動いているとも限らない。ただ、同じ道を使っている可能性はある。金、薬、人、武器、命令書。運ぶものが違っても、港、宿駅、倉庫、紙屋は共有できる」


「カロも」


「その一部へ関わっている可能性は高い」


「カランは」


 ルーウェンが低く言った。


 テオはすぐに頷かなかった。


「この紙には書かれていない」


「書かれていないから、いないわけではない」


「そのとおりだね」


 テオは青い三本線へ視線を戻した。


「けれど、疑いと事実を同じ欄へ書けば、正しい紙も偽造紙と変わらなくなる」


 リューリックも頷いた。


「ヴィクトル殿も、確認できた名と、推測の名を分けておられました」


「では、この紙は」


「少なくとも」


 リューリックは活字の並びを見た。


「ヴィクトル殿の考え方に近いものではございます」


 宿の主人が、食堂の端から言った。


「それは置いていくな」


「なぜですか」


 レイラが尋ねる。


「四日前、似た紙を持っていた旅人が消えた」


 食堂の空気が変わった。


「どこで」


 テオが聞く。


「北の旧街道。馬だけ戻った」


「紙は?」


「なかった」


「旅人は、どのような人物でしたか」


「若い女。片耳に銀の飾り。リヴェン訛りではなかった」


「名前は」


「聞いていない」


 主人は少しだけ後悔したように、卓を拭く布を握った。


「一晩泊めただけだ。朝、出ていった」


「行き先は」


「北西だ。森境へ抜ける道」


 ルーウェンが立ち上がった。


「いつ出た」


「四日前の夜明け」


「一人か」


「馬は二頭いた。もう一人は宿へ入らなかった」


 ルーウェンの顔から、普段の軽さが消えている。


「シルヴァスからの使者かもしれない」


 レイラが言う。


「あるいは、帰還者を案内する者」


 テオは紙三枚を重ね、油布へ包んだ。


「今夜は見張りを置く」


「私も担当します」


 レイラが言う。


「お休みください」


 リューリックが即座に止める。


「私も当事者です」


「昨夜、椅子でお休みになったばかりでございます」


「少し眠りました」


「少し?」


 レイラは言葉に詰まった。


 エルナが横から言う。


「かなり足りない」


「エルナまで」


「セラさんなら、同じことを言うと思う」


「病院を出ても、セラさんの規則が付いてきています」


「よい規則でございます」


 リューリックは真面目に頷く。


 セドが黒パンを食べながら言った。


「寝る人は寝る。見張る人は見張る」


「普通のことですね」


 レイラが言う。


「普通のことを守れないから言ってる」


「私は、そこまで聞き分けが悪くありません」


 全員が黙った。


「なぜ黙るのですか」


 誰も答えなかった。


 その時。


 再び宿の戸が開いた。


 今度は、馬の嘶きと一緒だった。


 外套の肩へ白い木の葉を縫い付けた男が、食堂へ入ってくる。


 顔は青ざめている。


 右腕には、乾いた血。


 ルーウェンが、その印を見た瞬間に動いた。


「森境の使いだ」


 男はルーウェンを見つけた。


 目が大きく開く。


「ルーウェン様」


「何があった」


 男は膝をつきかけた。


 リューリックが身体を支える。


「座ってください」


「時間が」


「傷があります」


「森へ、伝えなければ」


「私どもが伺います」


 エルナが水を運び、男の外套を外す。


 右上腕。


 刃ではない。


 矢が浅く掠めた傷だった。


 それでも長く馬を走らせたため、袖は血で固まっている。


「帰還路が」


 男は荒い呼吸を繰り返した。


「破られました」


 レイラの胸元で、フィアの記録板が僅かに動いた。


「どこですか」


「西の白枝道です」


 ルーウェンの顔が強張る。


「何人だ」


「護衛が四人。帰還者が十一人」


「生存者は」


「三人だけ、森境へ着きました」


「残りは」


 男は答えられなかった。


 唇が震える。


「連れ戻された者もいます。殺された者も」


「名簿は」


 テオが尋ねた。


「奪われました」


 同じだった。


 人を救うための名簿。


 帰る場所を確かめるための名前。


 それが、また奪われた。


「襲撃した者は」


 レイラが尋ねる。


「人間だけではありません」


 使者は俯いた。


「森の道を知っていました。合図も。帰還者の名前も」


「内部に協力者がいる」


 ルーウェンが言う。


「あるいは、捕らえた者から聞き出したか」


 使者は外套の内側から、小さな布包みを出した。


 中には、白い羽根。


 先端が血で汚れている。


 そして。


 細く折られた紙。


 ルーウェンが開く。


 古いシルヴァス文字。


 短い文だった。


 百年帰らぬ者へ。


 森へ戻るなら、いま戻れ。


 戻らぬなら、二度と森の名を使うな。


 ルーウェンの指が、紙を握る。


「誰からですか」


 レイラが尋ねた。


「長老会です」


 使者が答えた。


「ただし、全員の総意ではありません」


「森の中で割れている」


「はい」


 開くべきだという者。


 閉じるべきだという者。


 百年前の約束を守ろうとする者。


 人間の血を持つ者を恐れる者。


 ルーウェンを帰還者として迎えたい者。


 森を捨てた裏切り者と呼ぶ者。


 レイラは、まだその全貌を知らない。


 ただ。


 使者が持ってきた血の付いた羽根だけで。


 帰る場所を求めた者が、道の途中で奪われたことは分かった。


「出発は今夜だ」


 ルーウェンが言った。


 誰へ確認するでもない。


「待ってください」


 テオが止める。


「何を待つ」


「使者の傷を処置する。馬を替える。追跡されていないか確かめる」


「時間がない」


「急いで全員を罠へ連れていく方が、時間を失う」


「森の道は私が知っている」


「百年前の道だろう」


 ルーウェンの顔が変わった。


「何だと」


「あなたが知っている森と、いまの森が同じとは限らない」


 厳しい言葉だった。


 しかし。


 使者が持ってきた紙そのものが、それを証明していた。


 百年帰らぬ者。


 ルーウェンの記憶ではなく。


 現在の森から向けられた言葉。


 ルーウェンは反論しかけ。


 白い木の葉。


 血の付いた羽根。


 長老会の文字。


 それらを見て、口を閉じた。


「……夜明けだ」


 今度は、少し低い声だった。


「それまでに準備する」


 テオが頷く。


「僕は宿駅の記録と、使者の通った道を確認する」


「私は周囲を見てまいります」


 リューリックが言う。


「宿から見える範囲にしてください」


 レイラが言った。


「承知いたしました」


「素直ですね」


「合理的な指示でございます」


「普段の私の指示も合理的です」


「もちろんでございます」


「いま、一瞬間がありました」


「ございません」


 緊迫した空気の中。


 ほんの僅かに。


 笑いが戻った。


 だが。


 レイラの目の前には、二枚の紙がある。


 一枚は、斜めの青線を三本引かれた印刷物。


 遠い国々の傷を、同じ紙へ載せたもの。


 そこには。


 兄と過去に道を交えた監察官の失踪も載っている。


 ただし。


 現在の兄との関係は分からない。


 もう一枚は、古い森から届いた呼び戻しの文。


 兄と思われる者の足取りは、東へ続いている。


 どこへ向かい。


 誰と行動し。


 何を追っているのか。


 レイラは知らない。


 一方、西では。


 名前を奪われる者が増えている。


 帰ろうとした者が、森へ届く前に連れ戻されている。


 レイラは、胸元からフィアの記録板を取り出した。


 フィア。


 自ら名乗った名前。


 その名を守るために、セラフィナは捕らえられた。


 そして。


 白枝道では、新たな名簿が奪われた。


「レイラ殿下」


 リューリックが呼ぶ。


 彼も、東へ残るレオンの手掛かりを追いたいはずだった。


 十年間。


 レイラより長く。


 兄とともに旅をした男なのだから。


 それでも。


 いま、どちらへ進むかは。


 リューリックではなく。


 レイラが決めなければならない。


「夜明けまでに決めます」


 レイラは言った。


「兄様の痕跡を追う道と」


 東へ続く地図を見る。


「シルヴァスへ帰ろうとした人々の道」


 血の付いた羽根を見る。


「どちらも、誰かの命へ続いています」


 簡単には選べない。


 だからこそ。


 自分で選ぶ。



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