第八十七部 妹は、知らない十年間へ触れる話 ③ 血の付いた前掛けと、一人の妹として
昼の処置が一段落したあと。
セラは病院裏手の井戸のそばで、血の付いた前掛けを洗っていた。
冷たい水。
石鹼。
赤い染み。
何度擦っても、薄くはなっても完全には消えない。
「お待たせしました」
レイラは井戸のそばへ立った。
「いえ。お忙しいところ、申し訳ありません」
「仕事をしながらでもよければ」
「構いません」
セラは前掛けを水へ浸し、もう一度擦った。
レイラは何から聞くべきか迷った。
兄は、どのような顔をしていたのか。
何を話したのか。
誰といたのか。
何を食べたのか。
夜は眠れたのか。
十年間を埋めるように、尋ねたいことはいくらでもある。
しかし、セラが知っているのは数日だけ。
その数日さえ、レイラのためにあった時間ではない。
「兄は」
言ってしまった。
セラの手が止まる。
レイラも、自分の言葉に気付く。
「兄?」
セラが顔を上げた。
隠し通すこともできた。
言い間違いだと笑うことも。
けれど。
レイラは逃げなかった。
「レオンは、私の兄です」
井戸の水が小さく揺れた。
セラは驚いている。
それでも、大声は出さなかった。
「そうだったのですか」
「はい」
「では、あなたは」
「それ以上は、いまは」
「分かりました」
セラはすぐに引いた。
王族。
亡国。
賞金首。
何も尋ねない。
「内緒にしていただけますか」
「患者の事情と同じように扱います」
「私は患者ではありません」
「秘密を預けた人は、だいたい同じです」
セラは再び前掛けを洗い始めた。
「似ていませんね」
「よく言われます」
「でも」
一度、レイラの顔を見る。
「目は少し似ているかもしれません」
レイラは、自分の目へ触れそうになった。
同じ父母から生まれた兄妹。
幼い頃は似ていると言われたこともある。
だが、十年の間に兄の顔は変わった。
傷が増え。
日に焼け。
自分の知らない笑い方を覚えた。
「兄は、この病院で何をしていたのですか」
「治療されていました」
「それは、分かります」
「治療されながら、治療されていることを忘れて動いていました」
セラは少しだけ眉を寄せた。
思い出すだけで腹が立つらしい。
「傷は深かったのですか」
「右肩です。かなり深く斬られていました」
セラは自分の肩へ指を置いた。
「動脈と骨は外れていましたが、少しずれていれば腕が動かなくなっていたかもしれません。右の脇腹にも、矢が掠めた傷がありました」
「それでも、動こうとしたのですか」
「目が覚めて、最初に」
「馬鹿です」
「はい」
セラは迷わず同意した。
「百三人目でした」
「患者の番号ですか」
「いいえ」
セラは、ほんの少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。
「肩を斬られて運ばれてきて、目覚めて最初に動こうとした傭兵の、百三人目です」
「本当に、それほどいたのですか」
「その時は、そう言いました」
どうやら、実際に数えていたわけではないらしい。
「兄様は、何と」
「自分の顔だけで分かるのか、と」
「言いそうです」
「とても分かりやすい顔でした」
レイラは、少しだけ口元を緩めた。
兄らしい。
記憶の中の兄は、もっと静かで、もっと遠い人だった。
だが、旅をしてきた兄は、医療者へ叱られていたらしい。
「隣の寝台に、少年兵がいました」
セラの手が、ゆっくりになった。
「十二、三歳くらいでした。初陣から一週間で、腹を刺されて運ばれてきた子です」
「腹を」
「ええ。かなり深い傷でした」
腹部へ包帯を巻き、顔色を失った少年。
レイラは会ったことのないその姿を思い浮かべた。
「兄様と、話をしたのですか」
「最初に、生き残るコツを聞いていました」
「兄様は、何と」
「逃げる勇気だ、と」
レイラは目を見開いた。
「兄様が?」
「意外ですか」
「兄は、逃げることが苦手でした」
「その人が、自分にできないことを他人へ勧めるのは、珍しくありません」
セラの言葉は静かだった。
批判しているのではない。
ただ、見たものを言っている。
「その少年は」
「三日目の夜に高い熱を出しました」
セラの声が少し低くなる。
「寒いと言って、息も弱くなっていました。あの人は、自分の肩も治っていないのに寝台を出て、少年のそばへ座りました」
「兄が」
「動くなと言いました」
「聞かなかったのですね」
「はい」
「やはり、馬鹿です」
「その点については、何度でも同意できます」
セラは一度、洗う手を止めた。
「少年は、逃げる場所がないと言いました」
レイラは黙って聞く。
「レオンさんは、生き残るコツには続きがあると言いました。続きを聞くには生きていなければならない。話は三晩掛かるから、眠るな、と」
「三晩」
「嘘です」
「でしょうね」
「本人も、すぐ嘘だと言っていました」
レイラは笑いそうになった。
だが、セラの顔を見て、止めた。
その夜は。
笑い話だけではなかった。
「兄は、何を話したのですか」
「ある王子の話です」
レイラの呼吸が止まる。
「亡びた国。逃げた家臣。燃えた城。裏切った隣国」
セラは、遠いものを思い出すように言った。
「本人は、半分は嘘だと言いました」
「半分は」
「本当だとも」
井戸の水が、風で揺れる。
亡びた国。
逃げた家臣。
燃えた城。
裏切った隣国。
それは。
レイラも知っている話だった。
いや。
知っているつもりだった話。
兄がどのように記憶していたかまでは、知らない。
「セラさんも、そこにいたのですか」
「最初から、寝台のそばにいました」
「話を聞いていた」
「私の病棟ですから」
あの夜。
セラは遠くから声を聞いていたのではない。
熱を出した少年のそばで。
レオンのそばで。
呼吸を確かめながら、ずっと話を聞いていた。
「少年は、助かったのですか」
レイラは尋ねた。
セラは、安易には頷かなかった。
「あの夜は越えました」
「その後は」
「夜明け前には熱が少し下がり、眠ることもできました」
それ以上は断言しない。
生きたとも。
死んだとも。
自分が確かに見たところまでしか話さない。
「兄様の話が、助けたのでしょうか」
「薬と、手当てと、その子自身の力です」
セラは答えた。
「ですが、眠らずにいようとした理由の一つにはなったと思います」
レイラは目を伏せた。
兄は、自分の知らない場所で。
自分たちの国が滅びた夜を、別の少年が生きるための物語へ変えていた。
どこまでが嘘で。
どこからが本当だったのか。
いまは分からない。
「そのあとも、兄は大人しくしていなかったのですね」
「まったく」
セラの声へ、明確な不満が戻った。
「補給商人を装った男が病院へ入り込んでいました」
「商人?」
「本当の商人ではなかったようです。夜中に軍医の控室へ入り、患者の移送記録や薬品の予定を盗もうとしていました」
「兄様は、それを見つけた」
「リューリックさんと一緒に」
セラは詳しい事情を知らない。
間諜。
帝国。
青銅の札。
それらはセラの領分ではない。
彼女が知っているのは、病棟で起きたことだけだった。
「男は、腹を怪我していた少年を人質にしました」
レイラの顔から笑みが消えた。
「刃を、喉へ当てて」
「兄は」
「寝台のそばにあった松葉杖を使って、男の手首を払いました」
「右肩を怪我していたのに?」
「はい」
「傷は」
「開きました」
セラの返事には、いま思い出しても腹が立つという響きがあった。
「リューリックさんが男を取り押さえたあと、私は少年の喉を診ました。薄い傷だけでした」
「兄様は」
「肩を、もう一度縫いました」
「痛がりましたか」
「その時は、さすがに」
レイラは、少しだけ笑った。
「よかった」
「何がですか」
「痛いと言えて」
旅の中で何度も聞いた言葉。
痛みを隠す兄。
痛いと言わせる女たち。
どこへ行っても同じだったのだ。
「その夜明けに、出ていったのですか」
「はい」
「傷を縫い直したばかりで?」
「はい」
「止めなかったのですか」
「止めました」
「止まらなかった」
「はい」
二人は同時に息を吐いた。
「最後に」
セラが言った。
「次の戦場でも、また馬鹿みたいに死にかけて、また誰かに包帯を巻かれてください、と伝えました」
「随分な別れの言葉ですね」
「腹が立っていましたから」
「兄様は、何と」
「それが自分の仕事だと」
レイラの胸が、僅かに痛んだ。
死にかけることが仕事。
誰かに縫い直されることが仕事。
あの頃から。
兄は、そうして生きてきた。
「兄は、私のことを話しましたか」
レイラは、ついに尋ねた。
セラはしばらく考えた。
「妹がいるとは、言いませんでした」
「そうですか」
胸の奥へ、小さな寂しさが落ちる。
だが。
以前ほど、それを恐ろしいとは思わなかった。
「ただ」
セラが続ける。
「あの王子の話をしている時だけ、言葉が少し違いました」
「違う?」
「作り話をしている人の顔ではありませんでした」
レイラは顔を上げる。
「では、本当だと思ったのですか」
「分かりません」
セラは正直に答えた。
「半分は本当だと言われても、どこが本当かまでは分かりませんでした。ただ」
少しだけ、言葉を探す。
「痛い話を、笑える話に直しているようには見えました」
レイラは何も言えなかった。
兄の十年間。
鉱山。
逃亡。
傭兵。
商隊。
戦争。
診療所。
出会った人。
惹かれた女。
助けた子ども。
失ったもの。
兄が生きた十年。
自分は、それを空白だと思っていた。
兄妹が引き離され、互いを知らなかった時間。
失われた十年間。
だが。
失われていたのは、レイラから見た時間だけだった。
レオンは、その中で傷つき。
笑い。
誰かへ嘘をつき。
その嘘で、一人の少年を夜明けまでつないだ。
「私は」
レイラは井戸の縁へ手を置いた。
「兄の失った十年を、取り戻したいと思っていました」
セラは黙って聞いている。
「でも、兄にとっては、失われた時間ではなかったのですね」
苦しくても。
血に濡れていても。
確かに生きた時間だった。
「私には分かりません」
セラは言った。
「私は、ここにいた数日のことしか知りませんから」
「それで十分です」
セラは前掛けを絞った。
赤い水が石の上へ落ち、井戸から離れた排水溝へ流れていく。
「レオンさんの診療記録は、まだ残っています」
「記録が」
「患者の記録は捨てません」
右肩切創。
右脇腹擦過傷。
発熱。
再出血。
再縫合。
夜明け前に退院。
簡潔な文字。
それでも。
そこにいた証拠。
「本人が、ここにいたことを忘れても」
セラは病院の窓を見る。
「こちらには残っています」
レイラの胸へ、言葉が静かに入った。
名前。
傷。
処置。
再び傷を開いたこと。
生きて出ていったこと。
すべてを知らなくても。
兄が生きていた証拠は残る。
「ありがとうございます」
レイラは深く頭を下げた。
王女としてではなく。
一人の妹として。




