第八十七部 妹は、知らない十年間へ触れる話 ② 目を覚ましたミレナと、まだ救われていない名前
老軍医がレイラを呼んだ理由は、腹部を負傷した女性が目を覚ましたからだった。
名を、ミレナといった。
昨日、街道で襲撃された宿駅から運ばれてきた女性。
顔色は悪く、声にも力がない。それでも意識ははっきりしていた。
「聞きたいことがあるそうだ」
老軍医が言う。
「長く話させるな。疲れたら終わりだ」
「承知しました」
「それと」
「はい」
「お前さんも疲れた顔をしている」
「怪我はしていません」
「怪我人だけが倒れると思うな」
「気を付けます」
「気を付ける奴は、椅子で朝まで寝ない」
セラから聞いたらしい。
病院の情報は、患者の秘密以外は早い。
老軍医は杖を鳴らし、部屋を出ていった。
レイラはミレナの寝台へ近づいた。
「お加減はいかがですか」
「腹を開かれたあとに聞くことかしら」
声は弱いが、言葉には力が残っている。
「申し訳ありません」
「冗談よ」
ミレナは小さく息を吐いた。
笑うと傷が痛むのだろう。
「あなたが、私たちを運んだのね」
「皆で運びました」
「あの子も」
「フィアさんですか」
名前を口にすると、ミレナの目が僅かに開いた。
「話したの」
「はい。自分で名前を教えてくれました」
「そう」
目を閉じる。
安堵したようだった。
「宿駅では、一言も話さなかった。首輪を外した時も、泣きもしなかった」
「首輪は、誰が」
「一緒に逃げてきたエルフの女」
レイラは姿勢を正した。
「その方は、どこに」
「連れていかれた」
ミレナの指が、掛け布を掴んだ。
「襲ってきた者たちは、金を探していなかった。食料にも手を付けなかった。宿の主人に、帳面を出せと言った」
「帰還者の名簿ですね」
「そうだと思う。逃げてきた者の名前と、出身地と、家族のことを書いていた」
「なぜ、そのような帳面を」
「家族を探すためよ」
当然のことのように答えた。
「連れていかれた者の中には、何年も前に家族と離された人もいる。別の隊商で逃げた者がいれば、名前を照合できるから」
人を救うための名簿。
それが狙われた。
「連れていかれた女性の名前は」
「セラフィナ」
レイラの胸へ、その名が落ちた。
「セラフィナ」
「銀髪で、背の高い女。フィアの首輪を外したのも、あの人よ」
「フィアさんのご家族ですか」
「違う」
ミレナは首を横へ振った。
「船の中で会っただけだと言っていた。でも、あの子をずっと抱いていた」
血がつながっていなくても。
名前を知らなくても。
守った。
「襲撃の時、セラフィナは名簿を持って逃げようとした。私たちへフィアを渡して、自分は逆へ走った」
「囮になったのですね」
「たぶん」
ミレナの目に、怒りと後悔が混じる。
「私は止めなかった。あの子を連れて逃げた」
「それは」
「正しかったと言わないで」
弱い声だった。
しかし、はっきりしていた。
「正しかったとしても、置いてきたことは消えない」
レイラは答えられなかった。
正しい選択だった。
フィアは助かった。
それでも、セラフィナは連れ去られた。
片方の命が救われたことは、もう片方が奪われた事実を消さない。
「名前を」
ミレナが言った。
「忘れないで」
「セラフィナ」
「ええ」
「必ず覚えています」
取り戻せるとは言わなかった。
必ず救うとも。
まだ場所も分からない。
約束だけで命は戻らない。
だから。
いま言えることだけを言った。
「フィアさんにも、いつか伝えます」
「まだ駄目」
「なぜですか」
「あの子は、自分が助かったせいだと思う」
レイラは息を止めた。
「だから、いまは」
「はい」
「生きることに慣れてから」
その言葉を最後に、ミレナは目を閉じた。
疲労が限界なのだろう。
レイラは静かに部屋を出た。
廊下の先。
フィアが名前を書いた板を抱えている。
この名前の裏側に。
セラフィナという、まだ救われていない名前がある。




