第八十七部 妹は、知らない十年間へ触れる話 ① 一番騒がしい朝食と、物資庫の帳簿
リヴェン野戦第三病院では、朝食の時間が一番騒がしかった。
薬を先に飲ませる患者。
食べる前に傷を確認する患者。
自分で匙を持てる者。
持てない者。
食事が来ると元気になる者。
食事を見るだけで吐き気を訴える者。
煮た麦と薄い野菜汁が配られるだけなのに、病室ごとに必要な手順が違う。
看護助手たちは名前を呼び、返事を確認し、皿を置いていく。
「ベルクさん」
「起きてる」
「手を見せてください」
「腹は減ってる」
「手です」
「匙くらい持てる」
「昨日、落としました」
「昨日より元気だ」
「では、今日は落とさないでください」
別の病床では、老人が汁の薄さへ文句を言っている。
「水を飲んでるのと変わらん」
「昨日は水も飲めなかったでしょう」
「だから、今日は肉を」
「まだ駄目です」
「一欠片」
「駄目です」
「匂いだけ」
「隣の人の匂いで我慢してください」
「残酷だ」
「生きてから言ってください」
レイラは、病室の入口でそのやり取りを聞いていた。
怪我人ばかりの場所。
死が遠くない場所。
それでも、朝になれば食事の文句が出る。
昨夜まで呻いていた者が、粥の濃さを気にしている。
生きるということは、案外こういうものなのかもしれなかった。
壮大な決意より先に、今日の食事が薄いと怒る。
そういう小さな欲を持てること。
「マリアさん」
名を呼ばれ、レイラは振り返った。
セラが、記録板と空の木皿を両手へ持って立っている。
「フィアさんが、あなたを探しています」
「私を?」
「言葉にはしていません。ただ、入口を見る回数が増えました」
「分かるのですか」
「何度も見ていれば」
セラは、それ以上説明しなかった。
幼い少女フィアは、病室の一番奥にいた。
昨日より毛布を少しだけ下げ、顔の全体を出している。首の鉄輪痕はまだ隠していたが、粥の皿はほとんど空になっていた。
胸元には、名前を書いた記録板。
眠っている間も離さなかったらしい。
レイラが近づくと、フィアは一度、セラを見た。
触れられてよい相手か、確認しているようだった。
セラは何も言わず、少し離れたところで止まる。
「おはようございます、フィアさん」
レイラは寝台の脇へ座った。
少女の目が、名前を呼ばれた瞬間だけ僅かに動く。
「昨夜は眠れましたか」
頷かない。
首も振らない。
レイラは返事を待たず、窓の外を見た。
薄曇り。
病院の前では、看護助手が血の付いた布を煮ている。湯気の向こうを荷車が通り、前庭で馬が鼻を鳴らした。
「私は、昨日よりよく眠れました」
嘘ではない。
椅子の上ではあったが。
「ただ、肩が痛いです」
フィアがレイラの肩を見る。
「椅子で寝たからです。怪我ではありません」
小さな手が、記録板の角を握った。
「セラさんに、次から寝台を使うように言われました」
フィアの唇が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのではない。
だが、先ほどまでより力が抜けた。
「フィアさんは、あの粥を全部食べたのですか」
今度は、小さく首を横へ振った。
「少し残した?」
頷く。
「私も、あまり得意ではありません」
病院食を食べたわけではないが、味の想像はできた。
セラが背後から言った。
「患者の前で食事の悪口を言わないでください」
「悪口ではありません。好みの問題です」
「それを悪口と言います」
フィアがセラを見る。
次にレイラを見る。
口元が、ほんの僅かに上がった。
レイラは驚いて何か言いそうになった。
だが、セラが先に記録板へ目を落とす。
見なかったふりをした。
レイラも同じようにした。
笑ったことを大きく扱えば、少女はまた自分を隠してしまうかもしれない。
フィアは記録板を胸元へ戻した。
その時、廊下から男の声がした。
「主任! 薬草箱のことで、商人の方が」
「行きます」
セラはレイラへ一礼し、病室を出ようとした。
「セラさん」
レイラが呼び止める。
「何でしょう」
「あとで、少しお話を伺えますか」
「患者のことですか」
「いえ」
一瞬、迷う。
「以前、こちらへ来たレオンという方について」
セラはレイラを見た。
昨日も同じ名を尋ねられている。
不審に思って当然だった。
「お知り合いなのですね」
「はい」
今度は曖昧にしなかった。
「大切な人です」
兄とは言えない。
それでも、嘘ではなかった。
セラは少しだけ考えた。
「昼の処置が終わったあとなら」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「私は、あの人のことをほとんど知りません」
セラは静かに言った。
「ここにいた、数日間のことだけです」
「それでも構いません」
レイラにとっては。
その数日さえ、知らない時間だった。
◇
物資庫では、テオが看護助手二人と帳簿を囲んでいた。
薬草箱の数。
届いた日。
開封した日。
移送責任者。
使った量。
一箱足りないだけなら、記録の誤りで済んだかもしれない。
しかし、欠けているのは薬草だけではなかった。
麻酔用樹脂。
解熱用の乾燥葉。
消毒へ使う酒精。
すべて少量。
病院がすぐ困窮するほどではない。
だが、同じ宿駅を通過した物資だけ、少しずつ減っていた。
「盗む側は、病院を潰したいわけではない」
テオが言った。
「潰れれば調査が入る。足りない状態を長く続けたいんだ」
「では、誰が」
看護助手が不安そうに尋ねる。
「まだ分からない」
「カロ・ディーノではないのですか」
レイラが物資庫へ入りながら言った。
テオは一度、顔を上げた。
「可能性はある。けれど、彼の名を口にすれば、すべてが彼の仕業になるわけではないよ」
「カロに協力する者がいる」
「あるいは、カロの方法を使う別の者」
テオは帳簿の重ね書きを指した。
「人間は、一度便利な悪事を知ると真似をする。師匠がいなくても、悪い帳簿は増える」
レイラは、消された数字を見た。
紙の表面に残る薄い青の跡。
「追跡できますか」
「病院だけでは難しい。次の宿駅、前の宿駅、荷を出した商会。全部の帳簿を照合する必要がある」
「時間が掛かりますね」
「そうだね」
テオの返事は穏やかだった。
しかし、指先だけが帳簿の端を強く押さえている。
「カロを逃がしてから、ずっと同じことを考えている」
「何をですか」
「次に見つけたら、帳簿を読む前に殴るかもしれない」
「テオが?」
「意外かい」
「少しだけ」
「僕も、意外だと思っている」
薄く笑う。
その笑みはいつもと同じ形だったが、目には届いていない。
「商人は、殴るより先に金を止めるべきなんだけどね」
「殴ってはいけないとは申しません」
レイラは答えた。
「ただ、殺してはいけません」
「なぜ」
「カロが知っている名前を、すべて取り戻すまでは」
テオは、少しだけ目を細めた。
「レイラ殿下も、かなり商人らしくなった」
「褒められていますか」
「半分は」
「残り半分は」
「怖くなった」
「あなたが言うのですか」
「僕が言うから意味がある」
廊下の向こうからセドが顔を出した。
「マリア」
「どうしました」
「髭の爺さんが呼んでる」
老軍医のことらしい。
「名前で呼んでは」
「呼ぶと怒る」
「呼ばなくても怒るでしょう」
「そう」
セドは納得した顔で頷いた。
「だから、髭の爺さん」
「本人の前ではやめてください」
「もう言った」
「怒られましたか」
「杖で追われた」
「でしょうね」
テオが小さく笑った。
今度の笑いは、先ほどより少しだけ自然だった。




