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第八十六部 救われた者は名を呼ばれ、救われなかった者は番号で呼ばれる話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 生かした敵は、まだ仲間とは呼ばれない話

 黒楡の渡しを離れて半日。


 馬車は、ヴェルシャイン王国東部の古い巡礼路へ入っていた。


 北東監察道より道幅は狭い。


 石畳もなく、雨が降ればすぐ泥になる。


 その代わり、追手と出会う可能性は低い。


 少なくとも。


 ガレスはそう言った。


「可能性が低い、という言葉を信用してよいのか」


 荷台からレオンが尋ねる。


「絶対に安全だと言う奴よりは信用できる」


 御者台のガレスが答えた。


「それは分かる」


「なら黙って寝てろ」


「それはニーナの役目では」


「二人に言われた方が寝るだろう」


「仲がよくなっているな」


「なっていない」


 ガレスの返事は早い。


 荷台では、ニーナがラウルの背中へ刺さった矢を確認していた。


 まだ抜いていない。


 矢柄を短く切り、身体へ当たらないよう固定している。


 ラウルの顔色は悪い。


 熱も上がり始めていた。


 その向かいにはオルドが座る。


 黒楡の渡しで回収部隊を率いていた灰色外套の男。


 右手をガレスの矢で貫かれ、胸をレオンに蹴られ、さらにニーナから患者四号と呼ばれている。


 本人は、その呼び方へまだ慣れていない。


「オルド」


 ニーナが呼ぶ。


 男が顔を上げる。


「何だ」


「水をラウルへ」


「俺が?」


「私、手が離せない」


「捕虜に仲間の世話をさせるのか」


「元仲間でしょう」


「もう違う」


「なら患者仲間」


「もっと嫌だ」


「早く」


 オルドはしばらくニーナを睨んだ。


 だが、水袋を取る。


 ラウルの口元へ運ぶ。


「少しずつ」


「分かっている」


「一気に飲ませないで」


「分かっていると言った」


 ラウルは水を一口飲み、顔をしかめた。


「お前に飲ませてもらう日が来るとはな」


「黙れ」


「回収係の隊長様が、親切だ」


「こぼすぞ」


「怪我人へ脅すな」


 ニーナが言う。


 オルドは口を閉じた。


 レオンは、荷台の壁へ背を預けながら二人を見ていた。


 ラウルは末端の襲撃者。


 オルドは回収部隊の責任者。


 少し前まで、二人とも自分たちを殺そうとしていた。


 いまは同じ馬車に乗り、同じ治療者の指示を聞いている。


 奇妙な光景だった。


「何を見てる」


 オルドが尋ねた。


「元敵同士が仲よく水を飲ませている」


「仲よくない」


「全員、それを言うな」


「お前と一緒にするな」


「傷付く」


「脇腹か?」


 ガレスが前から言った。


「心だ」


「治療できない」


 ニーナが即答する。


「少しくらい考えてくれ」


「傷が多すぎる人の心まで診てたら、時間が足りない」


 ラウルが、小さく笑った。


 笑ったせいで背中が痛み、すぐ顔を歪める。


「何がおかしい」


 オルドが訊く。


「俺たち、本当にこいつらを殺す仕事を受けたんだよな」


「ああ」


「馬鹿だったな」


 オルドは答えなかった。


「助けてもらったから、急に善人になるつもりか」


「ならない」


 ラウルは目を閉じた。


「善人ではない。それでも、いま死ぬよりは生きたい」


「正直だな」


 レオンが言う。


「お前ほどではない」


「俺は誠実だからな」


 ニーナとガレスが、同時に息を吐いた。


「何だ」


「何でもない」


 二人の声が重なる。


 レオンは少しだけ笑った。



 ◇


 夕方。


 巡礼路沿いの小さな礼拝所へ着いた。


 屋根は半分崩れ、祈りの像も首から上が欠けている。


 それでも井戸があり、雨を避ける壁がある。


 野営するよりはましだった。


「ここで矢を抜く」


 ニーナが言った。


 ラウルの顔が強張る。


「医者はいないのか」


「次の村まで一日以上」


「そこで抜けば」


「熱が上がってる。待てない」


「お前一人で?」


「じいさんのところで見た。父さんの診療所でも何度も手伝った」


 迷いはある。


 怖くないわけではない。


 それでも、ニーナは道具を並べた。


 湯。


 清潔な布。


 刃。


 針。


 糸。


 薬草。


 レオンは礼拝所の入口を守り、ガレスは火を起こした。


 オルドは壁際へ座っていた。


「手伝って」


 ニーナが言う。


「誰に」


「オルド」


「俺は片手だ」


「左手は動くでしょう」


「何をする」


「ラウルを押さえる」


 ラウルが顔を上げる。


「丁寧に頼む」


「逃げる力が残っているなら、必要ない」


「ある」


「では押さえる」


「仲間だった頃より冷たいな」


「いまは患者だ」


 オルドはラウルの肩を押さえた。


 ガレスが脚側へ回る。


「俺も?」


「暴れたら傷が広がる」


「患者二号が患者三号を押さえるのか」


「呼び方を定着させるな」


「ニーナが始めた」


「始めたけど、そろそろ名前で呼んでる」


 ニーナはラウルを見る。


「痛いよ」


「言い方が直球だな」


「嘘を言っても仕方ない」


「死ぬ?」


「死なせないようにする」


「大丈夫とは言わないんだな」


「言えないから」


 ラウルは天井を見た。


 崩れた屋根の隙間から、夕方の空が見える。


「分かった」


 息を吐く。


「やれ」


 ニーナが矢の周囲を切り開く。


 ラウルの身体が跳ねた。


 オルドが肩を押さえる。


 ガレスも脚へ体重を掛ける。


「動かないで!」


「無理だ!」


「噛むもの!」


 レオンが入口から革片を投げる。


 ラウルが噛む。


 矢尻は返し付きだった。


 そのまま抜けば傷を広げる。


 ニーナは額へ汗を浮かべながら、少しずつ傷口を開き、矢尻の向きを確かめる。


「見える?」


 ガレスが尋ねる。


「まだ」


「手が震えてる」


 オルドが言った。


「分かってる」


「代われる者はいないのか」


「いない」


 ニーナは震える息を吐いた。


 手を止める。


 目を閉じる。


 もう一度開く。


「だから、私がやる」


 矢尻へ刃先を当てる。


 少し。


 もう少し。


「取れる」


 ニーナが呟いた。


 返しを外し、矢を引き抜く。


 血が溢れた。


「布!」


 オルドが、指示される前に布を取った。


 ニーナへ渡す。


 ニーナが傷へ押し当てる。


「強く押さえて」


 オルドが左手で布を押さえる。


 血が指の間へ滲む。


「もっと」


「これ以上は」


「押して!」


 オルドは力を込めた。


 ラウルが呻く。


「殺す気か」


「黙ってろ」


 オルドの声が低くなる。


「こいつが、お前を生かそうとしてる」


 ラウルは口を閉じた。


 長い時間。


 出血が少しずつ減る。


 ニーナは縫合へ入った。


 一針。


 二針。


 指の震えは消えていない。


 それでも、止めなかった。


 最後の結び目を作った時。


 ニーナの身体が僅かに傾いた。


 レオンがすぐ腕を伸ばす。


「大丈夫か」


「少し、眩暈」


「座れ」


「まだ包帯が」


「俺が巻く」


「巻き方、分かる?」


「何度巻かれたと思っている」


「患者と治療者は違う」


「指示してくれ」


 ニーナは壁へ背を預けた。


 レオンが包帯を持つ。


 巻く。


 少し緩い。


「もっと強く」


「これくらい?」


「少し下」


「ここ?」


「そう」


 ガレスとオルドがラウルを支える。


 ついさっきまで敵だった五人が、一人の傷の周りへ集まっている。


 ラウルは疲れ切った目でニーナを見た。


「なぜ、ここまでする」


「怪我してるから」


「俺は、お前を殺そうとした」


「知ってる」


「またするかもしれない」


「その時は、その時」


「怖くないのか」


「怖いよ」


 ニーナは隠さなかった。


「でも、怖いことと、いま傷を塞ぐことは別」


 ラウルは何も言えなかった。


 オルドも、ニーナを見ていた。


「お前は」


 しばらくして、オルドが言う。


「全員を助けられると思っているのか」


「思ってない」


 返事は早かった。


「助けられなかった人もいる。これからもいると思う」


「なら、なぜ」


「助けられない人がいるから、助けられる人まで置いていくの?」


 オルドは口を閉じた。


 礼拝所の外で、風が鳴った。


 欠けた祈りの像へ、夕日が差している。


 ラウルが目を閉じる。


「借りだな」


「治療費は取るよ」


 ニーナが言った。


「金はない」


「なら、生きて働いて」


「厳しいな」


「死んだら払えないでしょう」


 ラウルは、僅かに口元を上げた。


「分かった」


 オルドは何も言わなかった。


 ただ。


 ニーナが立ち上がろうとした時。


 先に水杯を取って差し出した。


「飲め」


 ニーナが目を丸くする。


「何」


「お前も顔色が悪い」


「患者四号に心配された」


「その呼び方をやめろ」


「オルド」


「何だ」


「ありがとう」


 オルドは顔を逸らした。


「借りを増やすな」


「水一杯で?」


「そうだ」


 ニーナは水を飲んだ。


 ラウルは眠り始めている。


 呼吸は弱いが、先ほどより整っていた。


 レオンは、その様子を見ながら思った。


 ニーナは、損得で人を助けない。


 だから。


 助けられた者の方が、勝手に借りを感じる。


 善意は、契約書ではない。


 返す義務もない。


 それでも。


 受け取った者の中へ、消えない何かを残す。


 いまはまだ。


 ラウルもオルドも仲間ではない。


 ガレスも、そう名乗らない。


 レオン自身も、誰かへ帰ると決めたわけではない。


 ただ。


 同じ火を囲んでいる。


 同じ水を分けている。


 同じ治療者に、生きろと言われている。


 正義と呼ぶには小さすぎるものだった。


 けれど。


 小さなものほど、遠くまで巡ることがある。


 その夜。


 見張りの順番を決める時、オルドが言った。


「治療者は寝かせろ」


 ガレスが眉を上げる。


「命令か」


「違う」


「なら何だ」


 オルドは、眠るラウルを見た。


 次に、毛布へ包まれたニーナを見る。


「借りがあるだけだ」


 レオンは何も言わなかった。


 笑えば否定される。


 だから。


 火へ薪を一本足した。


 炎が少しだけ高くなった。



 ──第八十六部 了


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