第八十六部 救われた者は名を呼ばれ、救われなかった者は番号で呼ばれる話 ③ 食べ残した皿を見るセラと、セラフィナの番が来た
リヴェン野戦第三病院で、幼い少女は粥を半分まで食べた。
セラは空になっていない皿を見て、それでも何も言わなかった。
全部食べろとは命じない。
残したことも責めない。
「次は昼です」
それだけ伝える。
立ち去ろうとした時。
少女の唇が動いた。
声は出ない。
セラが立ち止まる。
近づかず、その場で待つ。
「……フィ」
小さな音。
「聞こえませんでした」
少女の顔に怯えが戻る。
「もう一度言わなくても構いません」
セラは穏やかに続けた。
「話したくなった時に、教えてください」
少女は毛布を握った。
息を吸う。
「フィア」
今度は聞こえた。
セラは記録板を開く。
「フィアさん」
少女の目が大きくなる。
名前のあとへ、「さん」が付いたことに驚いたようだった。
「この文字で合っていますか」
記録板を見せる。
少女は文字を読めないのかもしれない。
それでも、自分の名前が書かれた欄を長く見た。
やがて。
小さく頷いた。
セラは氏名欄へ、フィアと記した。
番号ではない。
用途でもない。
値段でもない。
本人が口にした名前だった。
レイラは、その場面を少し離れた場所から見ていた。
胸の奥へ、静かな温かさが広がる。
昨夜、兄の話を聞いた時とは違う。
もっと小さく。
しかし、確かなものだった。
この病院は、誰かの国を取り戻す場所ではない。
世界を変える場所でもない。
ただ、奪われた名前を一つ、書き戻すことができる。
それだけでも。
守る意味がある。
◇
聖イルメラ島。
セラフィナの番が来た。
白手袋の男が顔を上げる。
「元の呼称」
セラフィナは答えなかった。
「聞こえないのですか」
「聞こえています」
「なら答えなさい」
「答えたら、消すのでしょう」
列の空気が変わった。
係員が棒へ手を伸ばす。
白手袋の男は、それを止めた。
「理解力は高い」
帳簿へ何かを書く。
「出身」
「覚えていません」
「年齢」
「分かりません」
「家族」
セラフィナは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
家族。
分類には関係しないと、先ほどから何度も言っている。
それでも尋ねる。
反応を見るためだ。
「いません」
嘘を吐いた。
白手袋の男は表情を変えない。
「健康状態、良好。容姿、一等。読み書きは」
「できません」
これも嘘だった。
男が細い紙を差し出す。
簡単な文章が書かれている。
「読んでください」
「分かりません」
棒の先が脇腹へ入った。
息が止まる。
それでも文字を読まなかった。
白手袋の男は、紙を下げる。
「虚偽傾向あり。知性、高」
青い印。
その横へ、細い赤線。
「宴館。記録補助候補」
セラフィナの首へ札が掛けられる。
そこには数字ではなく、短い名前があった。
リナ。
「今日から、その名を使用します」
「嫌です」
「好みは聞いていません」
「私は、セラフィナです」
初めて、本名を言った。
係員の棒が上がる。
白手袋の男は、また止めた。
「旧名を記録」
帳簿へ書く。
セラフィナ。
その上から、一本の黒線を引く。
名前が消える。
紙の上では。
「もう一度」
男が言う。
「あなたの名は」
セラフィナは黙った。
後ろにいた少女が、恐怖に泣き始めた。
係員が少女を列から引き出す。
「返答がない場合、この幼体へ連帯処置を行います」
セラフィナの顔が動く。
少女は知らない子だった。
船倉でも話したことがない。
それでも。
自分が黙れば、この子が罰を受ける。
「あなたの名は」
白手袋の男が繰り返す。
セラフィナは唇を噛んだ。
「……リナ」
「返事を」
「はい」
男は満足そうに頷いた。
「理解が早い」
少女は列へ戻された。
セラフィナは、自分が負けたとは思わなかった。
負けたと思えば、何も残らない。
代わりに、帳簿を見た。
白手袋の男が頁をめくる。
その端に署名がある。
カロ・ディーノ。
さらに下には、円を重ねた祈りの印。
カラン人民国で使われる宗教印だった。
セラフィナは二つを覚えた。
名前。
印。
頁の位置。
自分の本名を紙から消された代わりに、敵の名を記憶へ入れた。




