↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

441/452

第八十六部 救われた者は名を呼ばれ、救われなかった者は番号で呼ばれる話 ② 名前を呼ばれる病院と、番号で呼ばれる母娘

 リヴェン野戦第三病院では、患者の名前が一人ずつ呼ばれていた。


「ベルクさん、朝の薬です」


「エミリアさん、包帯を替えます」


「ヨナスさん、熱を測ります」


 名前。


 処置。


 名前。


 食事。


 名前。


 生きているかを確かめる声。


 レイラは物資庫で、テオとともに薬草箱を確認していた。


 帳面には三箱。


 棚には二箱。


 昨日、看護助手が話していた不足分とは別に、さらに数が合わない。


「一箱だけではなかったのですね」


「そうらしい」


 テオは帳簿の端へ残された汚れを指でなぞった。


「ここを見て」


 薄い青。


 線ではない。


 一度書いた文字を消し、その上から別の数字を重ねている。


「二を三へ直したようにも、三を二へ戻したようにも見えます」


「どちらもできるように書かれている」


「故意に?」


「おそらくね」


 テオは別の頁をめくった。


 薬草。


 麻酔用の樹脂。


 解熱剤。


 縫合糸。


 同じ宿駅を通過した荷だけ、数が少しずつ変わっている。


 大きな盗みではない。


 一箱。


 二袋。


 数本。


 病院がすぐ閉鎖されるほどではない。


 だからこそ、長く気付かれにくい。


「盗まれた薬は、どこへ行くのでしょう」


「金になるところ」


「カラベルですか」


「まだ決めつけない方がいい」


 テオはそう言いながらも、目は笑っていなかった。


「ただ、麻薬を作る者にとって、医療用の薬草と樹脂は便利だ。盗んだ薬箱へ別の物を詰めても、荷札は医療物資のまま通る」


「カロ・ディーノ」


「彼なら、その紙を作れる」


 名前を口にした時だけ、テオの声から柔らかさが消えた。


 レイラは彼を見た。


「追いますか」


「追うよ」


 即答だった。


「ただし」


 テオは帳簿を閉じた。


「いま僕たちが見ているのは、一つの病院から消えた薬だ。カロへ結び付けるには、まだ紙が足りない」


「焦ってはいないのですね」


「焦っている」


 テオは認めた。


「焦っているから、急がない」


 その言葉は、レイラの胸にも残った。


 兄を追いたい。


 すぐ東へ行きたい。


 だからこそ、目の前の傷を見落としてはいけない。



 ◇


 聖イルメラ島の地下では、次の者が前へ出された。


 母親と、成人した娘だった。


 母親は四十代。


 娘は二十歳前後。


 長い銀髪は船旅で汚れていたが、二人とも顔立ちはよく似ている。


 白手袋の男は、まず娘を立たせた。


 顎を持ち上げる。


 耳。


 歯。


 肩。


 腰。


 脚。


 傷。


 係員が記録する。


「若年。女。外傷軽度。容姿一等」


「宴館」


 青い印。


 母親が娘の前へ出る。


「その子に触るな」


 係員が母親を押さえる。


「娘です」


 白手袋の男は帳簿を見たまま答えた。


「血縁は用途へ影響しません」


「私を連れていけ」


「あなたも確認します」


 母親の顔へ手が伸びる。


 母親は噛み付いた。


 白い手袋へ血が滲む。


 地下室の空気が止まった。


 しかし、男は怒鳴らなかった。


 手袋を外し、別の手袋へ替える。


「反抗性、高」


 赤い印が押される。


「見せしめ区画へ」


「母さん!」


 娘が係員へ飛び付こうとする。


 肩を捻られ、床へ押さえられた。


「顔へ傷を付けるな」


 白手袋の男が注意する。


「一等品です」


 母親は両腕を掴まれ、引きずられていく。


 娘は名を呼び続けた。


 母親も娘の名を叫んだ。


 係員は、二人の声を記録した。


 旧名への執着あり。


 分離後、薬物調整。


「やめて」


 娘が泣いた。


「お母さんを返して」


 白手袋の男は、心から不思議そうに娘を見た。


「あなたは、よい部屋へ移されます」


「そんなことを言ってない」


「食事も衣服も、船内よりよいものになります」


「母さんを返して!」


「劣等種は、自分に必要なものを正しく判断できません」


 男は係員へ告げた。


「今夜の宴には出さない。三日間、安定処置」


「通常量で?」


「最初は通常量。抵抗が続けば増量」


 娘の手首へ青い札が付けられた。


 母親の声は、扉の向こうで途切れた。


 その夜。


 娘が移された部屋には、花が飾られていた。


 湯の入った浴槽。


 柔らかな布。


 甘い果物。


 香油。


 鏡。


 そこで働く女たちは、全員笑っていた。


 笑うよう教えられていた。


「服を脱いで」


 一人が言った。


 エルフだった。


 目に光がない。


「嫌」


「早くして」


「あなたも、捕まったの」


 女の指が震えた。


 それでも、娘の衣服へ手を掛ける。


「早くして」


「どうして」


「遅いと、別の子が罰を受ける」


 娘は抵抗を止めた。


 自分の意思で止めたのではない。


 誰かの苦しみを、自分の抵抗へ結び付けられたからだった。



 ◇


 セラフィナの前にいた男は、若く、頑健だった。


 船倉では何度も縄を切ろうとした。


 係員へ殴られても、薬を吐き出していた。


 いまは手足が震えている。


 瞳が定まらず、唇の端から涎が落ちていた。


「薬物耐性が上昇」


 係員が言った。


「通常量では命令へ従いません」


「労働へ回せるか」


「筋力は残っています。ただし、監督者へ三度噛み付きました」


「矯正は」


「薬の費用が価値を上回ります」


 白手袋の男は帳簿を見た。


「試験区画は満員か」


「昨日、ドワーフが六体入りました」


「では、飼育区へ」


 男が顔を上げた。


「何を飼っている」


 誰も答えない。


 地下の奥から、低い唸り声が聞こえた。


 一つではない。


 鎖が引かれる音。


 爪が石床を掻く音。


 男の顔色が変わる。


 初めて恐怖が浮かんだ。


「待て」


「歩かせろ」


「俺は働ける」


「薬代が高い」


「鉱山へ送れ。船でも何でも」


「命令へ従わない個体は、作業効率を下げます」


 男は係員へ飛び掛かった。


 鎖が引かれる。


 床へ倒される。


 頭を打ち、血が流れた。


「商品を傷つけるな!」


 別の係員が怒鳴る。


 白手袋の男は首を横へ振った。


「もう商品ではありません」


 男は奥の扉へ運ばれた。


 唸り声が大きくなる。


 扉が閉まる。


 しばらくして。


 叫び声がした。


 一度。


 二度。


 途中で、人の声ではなくなった。


 列にいた者たちは、誰も顔を上げなかった。


 上げれば、自分も見ていたと記録される。


 翌朝。


 男が付けていた首輪だけが戻された。


 金具は洗浄され、革の内側に付いた血も落とされていた。


 再利用箱へ入れられる。


 無駄を出さないためだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。