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第八十六部 救われた者は名を呼ばれ、救われなかった者は番号で呼ばれる話 ① 静かにならない病院の朝と、青い海の島の地下

 夜が明けても、リヴェン野戦第三病院は静かにならなかった。


 暗いうちは負傷者の呻きと看護師の足音が続き、空が白み始める頃になると、今度は湯を沸かす鍋、床を洗う水、朝の薬を求める声が動き出す。


 眠っている者はいる。


 しかし、病院そのものは眠らない。


 レイラは、熱病の少年が横たわる寝台の隣で朝を迎えた。


 椅子へ座ったまま、いつの間にか眠っていたらしい。首を動かすと、肩の奥に鈍い痛みが走った。


 膝には毛布が掛けられている。


 自分で掛けた覚えはない。


「起きましたか」


 声に顔を上げる。


 セラが、湯の入った木杯を差し出していた。


「ありがとうございます」


「昨夜、三度ほど椅子から落ちそうになっていました」


「申し訳ありません」


「謝るところではありません。ただし、次は寝台を使ってください」


「患者の方が優先では」


「空いている寝台があれば、です」


 セラは木杯を渡すと、少年の額へ触れた。


 濡らした布を取り替え、目を開けるよう呼び掛ける。


「聞こえますか」


 少年の瞼が動いた。


「水」


「少しずつ飲みましょう」


 昨夜と同じ言葉だった。


 ただし、セラの手はレイラより速く、迷いがない。


 頭を僅かに持ち上げ、口元へ匙を運び、飲み込むまで待つ。呼吸が乱れれば止め、落ち着けばもう一口だけ与える。


「熱は」


 レイラが尋ねた。


「下がってはいません。ただ、昨日より水を飲めています」


「それは、よいことですか」


「はい」


 短い返事だった。


 大丈夫とは言わない。


 助かるとも断言しない。


 ただ、昨日より一つだけよいことを伝える。


 レイラは木杯を両手で包んだ。


 まだ温かい。


「昨夜の女性は」


「手術は終わりました。腹部に入っていた木片は取り除けました」


「助かりますか」


「今朝と今夜を越えられるかです」


「そうですか」


 喜ぶには早い。


 けれど、絶望する段階でもない。


 それが医療というものなのだろう。


 国の勝敗のように、一度の宣言で決まるものではない。小さな変化を拾い、一日を越え、次の夜まで命をつなぐ。


「セラさん」


 廊下から若い看護助手が呼んだ。


「昨日の女の子ですが、記録が書けません」


「行きます」


 セラが立ち上がる。


 レイラも木杯を置いた。


「私もよろしいでしょうか」


「見ているだけなら」


 少女がいたのは、病院の一番奥だった。


 窓から遠く、出入口からも離れた場所。誰かが近づけばすぐ分かるよう、壁を背にして座っている。


 首には鉄輪の痕。


 両手は毛布の端を強く握り、顔の半分を隠している。


 昨夜から食事へ手を付けていない。


 木皿には、柔らかく煮た麦粥がそのまま残っていた。


 若い看護助手は記録板を持ち、困った顔で立っている。


「名前を聞いても答えてくれません」


「では、答えなくてよいです」


 セラは記録板を受け取った。


「でも、記録が」


「氏名欄は空けてください」


「番号を付けますか」


 少女の肩が、大きく震えた。


 セラはすぐに首を横へ振った。


「番号は寝台につけます。人にはつけません」


 看護助手が口を閉じる。


 セラは記録板へ文字を書いた。


 氏名、未申告。


 推定年齢、八歳から十歳。


 混血と思われる。


 首部に鉄輪痕。


 栄養状態不良。


 接触への強い恐怖。


 その下に、小さく書き加える。


 本人の同意なく身体へ触れないこと。


「名前がないままでよいのですか」


 レイラが尋ねた。


「この子に名前がないわけではありません」


 セラは少女の方を見た。


「いま、それを言えないだけです」


 少女の目が、毛布の向こうから僅かに動いた。


「話せるようになった時に教えてください。それまでは、空けておきます」


 セラは少女へ近づかなかった。


 食事の皿だけを指す。


「こちらは、あなたの分です」


 反応はない。


「誰かの残りではありません。食べなくても、ほかの人には渡しません」


 少女の指が動いた。


 粥を見る。


 それでも手は伸びない。


「毒は入っていません」


 セラが言う。


「先に私が食べましょうか」


 匙を取り、皿の端から一口だけ食べる。


 飲み込む。


 少女の顔を見る。


「普通の麦粥です。少し薄いですが」


「薄くてすみません」


 看護助手が言った。


「あなたへ言ったわけではありません」


「でも、作ったのは私です」


「では、次は塩をほんの少しだけ増やしてください」


「はい」


 少女の目が、二人のやり取りを追った。


 しばらくして。


 毛布の中から小さな手が出る。


 皿へ届く前に止まり、また引っ込もうとする。


 レイラは動かなかった。


 セラも動かなかった。


 誰も手伝わない。


 少女はもう一度だけ手を伸ばし、木匙を持った。


 一口。


 口へ入れる。


 急いで飲み込む。


 次の一口は、さらに速かった。


「ゆっくり」


 セラが言う。


 少女の身体が固まる。


「取りません」


 セラは続けた。


「急がなくても、なくなりません」


 少女は匙を持ったまま、しばらく止まっていた。


 それから。


 今度は少しだけゆっくり、粥を口へ運んだ。



 ◇


 同じ朝。


 海を遠く離れた者でさえ、その名を聞けば青い海と白い浜を思い浮かべる島々があった。


 カラベル自由諸島。


 王もいない。


 大きな軍もない。


 島ごとに異なる商人、海賊、領主、宗教団体が支配し、金を払える者には限りなく自由な場所。


 その中の一島。


 海図には、聖イルメラ島と記されていた。


 表向きは、療養と祈りの島である。


 白い礼拝堂。


 青い屋根。


 山腹に建つ保養館。


 海へ続く浴場。


 港には花が飾られ、朝から楽師が穏やかな曲を奏でている。


 昨夜到着した船から降ろされたエルフたちは、その音楽を聞きながら地下へ運ばれた。


 窓はない。


 潮の匂いも届かない。


 床は白い石でできており、一定の間隔で水が流されている。血や汚れを洗い流しやすくするためだった。


 セラフィナは、列の中央にいた。


 前に十三人。


 後ろに九人。


 船を出た時には、もっといた。


 歩けなくなった者は、港の別の扉へ運ばれた。


 どこへ行ったのかは分からない。


 列の先頭では、白い手袋をした男が帳簿を開いていた。


 男の横には四つの印。


 青。


 赤。


 黒。


 灰色。


「次」


 男が言った。


 老いたエルフが前へ押し出される。


 背中が曲がり、左脚を引きずっていた。船の中で傷口が腐り始め、数日前から熱を出している。


 それでも、自分の孫だけは抱えて歩いてきた。


 七歳ほどの少年。


 船倉で何度も祖父の名を呼んでいた。


「離せ」


 係員が言った。


 老人は少年を離さない。


「孫だ」


「関係を聞いているのではない」


「この子は、私の孫だ」


「分類へ血縁は記載しない」


 係員が少年の腕を引く。


 老人は残った力で抵抗した。


 棒が脇腹へ入る。


 老人の身体が折れ、少年が床へ落ちた。


「おじいちゃん!」


 少年が叫ぶ。


 白手袋の男は、その声を無視して老人の歯を確認した。


 次に瞼。


 手の節。


 足の傷。


「高齢。発熱。歩行困難」


「労働不可です」


「薬は」


「通常量では効きません。船内で二度増量しています」


 白手袋の男は、帳簿へ黒い印を押した。


「損耗」


 老人が顔を上げる。


「それは、何だ」


 男は答えなかった。


 係員たちが老人を持ち上げ、右側の扉へ運ぶ。


「待ってくれ」


 老人が手を伸ばす。


「その子だけは」


 少年も手を伸ばす。


 指先は届かない。


 扉が閉まる。


 白手袋の男は少年を見た。


「幼体。男。健康状態は」


「軽度の栄養不良。矯正可能です」


「祈育舎へ」


 白い札が首へ掛けられる。


 四十二。


 少年は札を掴み、引きちぎろうとした。


 係員が指を一本ずつ開かせる。


「旧呼称と血縁呼称の使用を禁じます」


「おじいちゃんを返して」


「その呼称は禁止です」


「返して!」


 係員は少年を殴らなかった。


 代わりに、列の後ろへいた小さな少女を連れてきた。


「次にその呼称を使った場合、この子の食事を抜きます」


 少年の声が止まる。


「関係ないだろ」


「だから有効です」


 係員は穏やかに答えた。


「自分の行いで他者が苦しむと知れば、幼体は早く学習します」


 少年は泣きながら、白い札から手を離した。


「よい子です」


 頭を撫でられる。


 少年は吐いた。


 係員は汚れた床を見て、僅かに眉を寄せただけだった。


「清掃代を記録」


 少年の札へ、細い赤線が一本引かれた。



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