第八十五部 百三人目を知る看護師は、何も知らない話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 契約が切れても、馬車には三人乗っている話
油壺が倒れる前に、レオンは鉄格子の車へ飛び付いた。
倒れる壺。
漏れ出す油。
火打石を握る灰色の男。
男の指が打ち合わされるより早く、ガレスの弩矢が手の甲を貫いた。
火打石が泥へ落ちる。
「殺してないな」
レオンが言った。
「話を聞く必要がある」
「成長した」
「お前に言われたくない」
男が痛みに呻きながら、腰の短剣へ手を伸ばす。
レオンは鉄格子の車体を踏み台にし、男の胸元へ膝を入れた。
空気が抜ける音。
身体が泥へ倒れる。
そのまま手首を捻り、短剣を取り上げる。
「動くな」
「王印が」
「人だ」
レオンは低く言った。
「少なくとも、本人の認識ではな」
灰色の男は答えなかった。
渡し場の反対側では、残った一人が森へ逃げ込もうとしていた。
ガレスが弩を向ける。
だが、撃たない。
「追わないのか」
レオンが尋ねる。
「足場が悪い。森の奥に何人いるか分からない」
「賢明だ」
「お前が追いかけそうだから先に言った」
「信用がないな」
「あると思っていたのか」
敵の姿が森へ消える。
渡し場へ静けさが戻った。
ただし、先ほどまでとは違う。
倒れた者の呻き。
荒い馬の息。
ニーナがラウルの名を呼ぶ声。
「ラウル、目を開けて」
矢は背中へ刺さったままだった。
ニーナは抜かない。
周囲へ布を当て、出血だけを押さえている。
「息を吸って」
「痛い」
「知ってる」
「少し優しく言えないのか」
「痛いって言えたから、いまは褒めてる」
「それで?」
「よく言えました」
「子ども扱いか」
「黙って呼吸して」
ラウルは苦い顔をしながら、それでも指示に従った。
ガレスが近づく。
「助かるか」
「ここでは分からない」
「矢を抜けば」
「抜いたら血が増えるかもしれない。医者か設備のある場所まで、このまま」
「運べるか」
「運ぶ」
ニーナは即答した。
「敵だぞ」
「名前を聞いた」
「それで味方になるのか」
「患者になる」
ガレスは何か言い返そうとしたが、諦めたように息を吐いた。
「人数が増えるな」
「怪我をする人が悪い」
「俺たちを治療しているお前が言うのか」
「一番悪いのはレオン」
「なぜ」
少し離れたところで、レオンが抗議する。
「怪我の数」
「今日はまだ頬だけだ」
「足首」
「前から」
「脇腹」
「前から」
「肩」
「かなり前から」
「全部、治ってない」
「反論できないな」
ニーナはラウルの固定を終え、立ち上がった。
「次」
「誰だ」
「二人とも」
「俺は平気だ」
ガレスが言った。
「座って」
「傷は開いていない」
「血が出てる」
「前の傷だ」
「開いてるじゃない」
「少しだ」
「少しじゃなくて」
レオンが笑った。
「それ、俺以外にも使うんだな」
「患者には平等」
「ありがたい」
「レオンも座って」
「俺は捕虜を」
「ガレスが見る」
「俺は患者だろう」
ガレスが言う。
「元気そうだから、いまは捕虜係」
「扱いが雑だな」
「患者は座る」
ニーナの声が一段低くなる。
レオンとガレスは顔を見合わせた。
ほぼ同時に、馬車の脇へ座った。
「従うんだね」
ラウルが掠れた声で言う。
「逆らうと長くなる」
レオンが答えた。
「俺はまだ慣れていない」
ガレスが言う。
「すぐ慣れる」
「嫌な予言だな」
ニーナはまずガレスの脇腹を確認した。
包帯が赤く滲んでいる。
「走ったでしょう」
「走らなければ、お前が撃たれた」
「だからって」
「止めても行っただろう」
「行った」
「なら同じだ」
「同じじゃない」
「何が」
「私は治療者」
「俺は護衛だ」
言ってから、ガレスは自分の言葉に気付いた。
レオンも気付いた。
ニーナの手が止まる。
「護衛?」
「言葉の綾だ」
「誰の」
「馬車の」
「馬車を護衛して、私を庇ったの?」
「位置が近かった」
「レオンも?」
「あいつは金貨千枚だ」
「まだ言うんだね」
ガレスは顔を逸らした。
「家と畑が必要なのは変わらない」
ニーナは何も言わず、包帯を巻き直した。
先ほどより少しだけ強く締める。
「痛い」
「生きてる」
「お前たちは、それを合言葉にしているのか」
「便利でしょう」
「便利ではない」
次はレオンだった。
頬の浅い傷。
足首の鉄輪跡。
走ったことで再び痛み始めた脇腹。
ニーナは無言で一つずつ確かめる。
「痛い?」
「どれが」
「全部」
「頬は少し。足は中くらい。脇腹はかなり」
「最初から言えるようになったね」
「成長した」
「褒めてない」
「少しは褒めてくれ」
「生きて帰ったら」
「約束?」
「管理指示」
「懐かしいな」
ニーナの指が一瞬止まる。
だが、すぐに処置へ戻った。
「帰る場所、まだ決めてないでしょう」
「そうだった」
「だから、まず生きる」
「はい」
「返事が軽い」
「実行」
ニーナが顔を上げる。
「それ、誰に教わったの」
「海の上で怖い女に」
「また女」
「そこへ反応する?」
「治療中だから、あとで」
ガレスが少し離れた場所で捕虜を見張りながら、低く呟いた。
「女が増えるたび、傷も増えてるな」
「関係ない」
「あると思う」
「お前まで言うな」
ニーナは傷へ布を当てた。
「動かないで」
「はい」
今度の返事は、少しだけ真面目だった。
◇
捕らえた灰色の男の上衣からは、三枚の紙が見つかった。
一枚目。
黒楡の渡しへ入る荷の予定表。
二枚目。
王印を次の中継地点へ運ぶための簡略地図。
三枚目。
現地責任者への指示。
ガレスが三枚目を読んでいた。
文字を追う速度は遅い。
読み書きに慣れていないからではない。
内容を理解するほど、読む手が止まった。
「何て書いてある」
レオンが尋ねた。
ガレスは紙を渡さない。
自分で最後まで読んだ。
それから、低い声で読み上げる。
「搬送者は、受領確認後に処理。治療者、同行者も同様。王印のみ、北東監察道へ移送」
ニーナの顔が硬くなった。
「最初から、殺すつもりだったの」
「予定外の者は、そうだろう」
ガレスが答える。
「俺については、たぶん引き渡したあとだ」
「契約書は」
レオンが尋ねた。
ガレスは自分の内懐から、折り畳まれた紙を出した。
金貨千枚。
生存状態での引き渡し。
搬送完了後、指定場所で支払う。
五人の賞金首狩りが受けた依頼。
いま生き残っている署名者は、ガレス一人だった。
「どうする」
レオンが聞く。
ガレスは契約書と、現地処理の指示を並べた。
「こいつらは、契約を守るつもりがなかった」
「ああ」
「最初から俺たちを消すつもりだった」
「ああ」
「なら、この契約は終わりだ」
ガレスは契約書を破らなかった。
火へ投げることもしない。
二枚の紙を重ね、丁寧に折り直した。
「残すのか」
「証拠だ」
「金貨千枚への未練では?」
「それもある」
ガレスは正直に答えた。
「娘を迎えに行くには金がいる。その事情は変わらない」
「では、また俺を売る?」
ニーナがガレスを見る。
レオンは笑っていなかった。
ガレスも、目を逸らさない。
「少なくとも、こいつらには渡さない」
「ほかなら?」
「分からない」
ニーナが眉を寄せる。
ガレスは続けた。
「分からないことを、分かったふりはしない。ただ、いまのお前を縛って運び直す気はない」
「理由は」
「お前一人なら、まだ荷だった」
「ひどいな」
「だが、荷は人を庇わない。捕虜を助けようともしない。治療者に怒られて素直に座りもしない」
「最後は関係ある?」
「かなり」
レオンは少しだけ笑った。
「では、契約は終わり」
「この契約はな」
「仲間になった?」
ニーナが尋ねる。
「なっていない」
ガレスが即答した。
「なっていないな」
レオンも答える。
「どうしてそこだけ合うの」
「重要だからだ」
「重要だな」
二人が頷く。
ニーナは深く息を吐いた。
「面倒な人が二人に増えた」
「患者は三人だ」
ラウルが荷台から言った。
「捕虜もいる」
「それは患者四号」
ニーナが答える。
灰色の男が顔を上げた。
「俺まで治療するのか」
「怪我してるでしょう」
「俺はお前たちを殺そうとした」
「傷は、その前からあるの?」
「いや」
「じゃあ、いま出来た傷を診る」
「意味が分からない」
「分からなくても座って」
男は拒もうとした。
ガレスが肩を押して座らせる。
「従え」
「お前まで」
「長くなる」
レオンが笑った。
「もう慣れてきたな」
「黙れ」
その後。
灰色の男は患者四号となった。
本人の名前は、オルド。
ニーナに三度尋ねられ、ようやく答えた。
◇
鉄格子の車には、人は入っていなかった。
代わりに、毛布、鎖、麻痺薬、予備の荷札が積まれている。
荷札には、青い二重線。
行き先は、北東監察道。
さらに、小さな文字が添えられていた。
ヴァルガス方面の紙屋を避けること。
青い斜線三本の紙は、受領せず焼却。
レオンは、その一文を二度読んだ。
「知っているの」
ニーナが尋ねる。
「紙屋を一人」
「女?」
「男だ」
「少し安心した」
「なぜ安心する」
「何となく」
レオンは革袋へ手を入れた。
指先へ、小さく硬い物が触れる。
古い活字。
古イタリカ文字で、「真」。
ヴィクトルから預かったもの。
いまはまだ取り出さなかった。
「ヴァルガス」
ガレスが地図を見た。
「イタリカ側へ入る道だ」
「カミラのいる国」
ニーナが言う。
「ああ」
「行くの?」
「行く」
迷いのない返事だった。
ニーナは、その速さに少しだけ目を伏せた。
だが、すぐにラウルの呼吸を確認する。
「この人たちを治療できる場所へ運んでから」
「分かっている」
「一人で先に行かない」
「分かっている」
「ガレス」
「俺にも言うのか」
「馬車を勝手に出さない」
「分かった」
「本当に?」
「この状態で患者を落とせば、お前がうるさい」
「患者だから」
「もう聞いた」
馬車には、負傷者が増えていた。
レオン。
ガレス。
ラウル。
オルド。
そして、治療者のニーナ。
仲間と呼ぶには、敵だった者が多すぎる。
安全な一行と呼ぶには、傷が多すぎる。
それでも、レオンの足から鎖は外れている。
ガレスは御者台へ戻り、手綱を取った。
ニーナは荷台へ座り、ラウルの身体が揺れないよう毛布を詰める。
レオンも乗り込んだ。
「患者一号」
ガレスが前を向いたまま呼ぶ。
「何だ、患者二号」
「北東監察道へは、直接入らない」
「なぜ」
「追手がいる」
「では?」
「南側の村で、医者か診療所を探す。そのあと、古い巡礼路へ回る」
ニーナが御者台の背を軽く叩いた。
「正解」
「お前に褒められる筋合いはない」
「痛い?」
「脇腹がかなり」
「よく言えました」
「子ども扱いするな」
馬車が動き始める。
黒楡の渡しが、少しずつ後ろへ遠ざかる。
契約は切れた。
賞金は消えていない。
疑いも残っている。
誰も、仲間になったとは認めなかった。
それでも。
仲間ではないと言い張る三人は、同じ馬車へ乗っていた。
──第八十五部 了




