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第八十五部 百三人目を知る看護師は、何も知らない話 ③ 暗くなった外と、知らなかった兄の姿

 すべての患者の処置が一段落した頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 腹部を負傷した女は、まだ眠っている。


 老人も意識は戻らない。


 少年の熱は下がっていないが、水を飲めるようになった。


 幼い少女は病室の隅で毛布に包まり、誰にも触れられない位置を自分で選んで座っていた。


 セラは記録板へ一人ずつ状態を書き込んでいく。


 レイラは廊下の壁へ背を預けていた。


 足が重い。


 腕も痛む。


 戦ったわけではない。


 それでも、ひどく疲れていた。


「お疲れですか」


 声を掛けてきたのは、セラだった。


「少しだけ」


「少しだけ、と言う人は信用しないことにしています」


「以前も、そういう患者がいたのですか」


「いました」


 記録板へ視線を落としたまま答える。


 レイラの胸が再び大きく打つ。


「レオンという方ですか」


 尋ねてから、早すぎたと思った。


 セラが顔を上げる。


「リューリックさんから聞いたのですか」


「少しだけ」


「そうですか」


 それ以上、怪しむ様子はなかった。


 セラにとってレオンは、国家の秘密へつながる人物ではない。


 以前この病院へ来た、百人を超える患者の一人だった。


「どのような方だったのですか」


 レイラは、できる限り平静に尋ねた。


 セラはすぐには答えなかった。


 廊下の向こうで看護助手が桶を落とし、乾いた音が響く。


 誰かが謝る。


 別の誰かが笑う。


 病院はまだ眠っていない。


「面倒な人でした」


 セラが言った。


「面倒」


「傷が治る前に歩く。痛いのに平気だと言う。動かないでくださいと言うと、動いていないと言いながら動く」


 レイラは、少しだけ口元を緩めた。


 兄らしい。


 記憶の中の兄は、もっと静かで、もっと遠い人だった。


 だが、旅をしてきた兄は、医療者へ叱られていたらしい。


「それでも」


 セラは続けた。


「隣の寝台にいた少年が眠れない時は、朝まで話していました」


「兄が」


「お知り合いなのですか」


 問われた。


 レイラの呼吸が、一瞬止まる。


「以前、少しだけ」


「そうですか」


 セラは深く追及しなかった。


「話の半分は嘘だったと思います。でも、少年を眠らせないための嘘でした」


「その少年は」


「生きました」


 短い言葉だった。


 レイラは目を伏せた。


 兄は、自分の知らない場所で。


 自分の知らない少年へ。


 自分たちの国の話をしたのかもしれない。


 どこまでが本当で。


 どこからが嘘だったのか。


 いまは分からない。


「セラさん」


 廊下の向こうから声が飛ぶ。


「老人の呼吸が変です!」


 セラの顔が変わった。


 記録板をレイラへ預ける。


「持っていてください」


「はい」


「落とさないでください。患者の記録です」


「分かりました」


 セラは走り出す。


 数歩進んだところで、リューリックと鉢合わせた。


「主任看護師殿」


「ちょうどよかったです」


「何か」


「その前に、一つだけ」


 セラは足を止めた。


「あの危なっかしい人は、一緒ではないのですか」


 リューリックの目が、僅かに動いた。


「現在は、別行動中でございます」


「また怪我をしていませんか」


「その可能性は、極めて高いかと」


「止める人はいないんですか」


「止めております」


「止まらないんですね」


「はい」


 セラは小さく息を吐いた。


「痛いと言うようにはなりましたか」


「以前よりは」


「以前より、では困ります」


「仰せのとおりでございます」


「次に会ったら、そう伝えてください」


「必ず」


「それから」


 セラは、一瞬だけ言葉を探した。


「次に来る時は、死にかける前に来てください、と」


 リューリックは深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 セラは病室へ走っていく。


 リューリックは、廊下に残されたレイラを見た。


 その手には、セラの記録板。


 何人もの名。


 傷。


 熱。


 処置。


 生存。


 死亡。


 簡潔な文字が並んでいる。


「兄様は」


 レイラは記録板を見たまま言った。


「ここでも、誰かに心配されていたのですね」


「はい」


「私の知らないところで」


「殿下は、多くの場所で、多くの方々と出会われました」


 レイラは顔を上げた。


「少し、悔しいです」


 素直に言った。


「私は、兄様の十年間を何も知りません」


「これから、お知りになればよろしいかと」


「すべては聞けないかもしれません」


「すべてを知る必要もないのかもしれません」


 リューリックの声は、静かだった。


「殿下が生きてこられた時間は、誰か一人のためだけにあったものではございません」


 レイラは病室の方を見た。


 セラが老人の寝台へ屈み込み、老軍医へ何かを渡している。


 百三人目を知る看護師。


 だが、彼女はレオンが王子だとは知らない。


 自分の兄だとも知らない。


 大陸の陰謀も。


 金貨千枚の賞金も。


 青い線も。


 何も知らない。


 知っているのは。


 傷を隠したこと。


 少年のために話をしたこと。


 動くなと言っても動いたこと。


 次は死にかける前に来てほしいと思ったこと。


 それだけだった。


 それだけなのに。


 レイラが知らなかった兄の姿が、そこには確かにあった。



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