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第八十五部 百三人目を知る看護師は、何も知らない話 ② 満員の病床と、少し深くなった呼吸

 病院の中には、薬草と血と煮沸した布の匂いが満ちていた。


 病床は満員に近い。


 腕を吊った兵士。


 頭へ包帯を巻いた商人。


 咳をする老人。


 泥だらけの子ども。


 王国の軍服を着た者もいれば、所属の分からない傭兵もいる。


 入口近くの一角では、灰色の軍服を着た若い男が眠っていた。


 帝国式に見える。


 だが、周囲の患者は誰も追い出そうとはしていない。


 この場所では、どこの国の人間かより、傷がどこにあるかが先に見られる。


 レイラたちは、患者の搬入を終えても休めなかった。


 水が足りない。


 清潔な布が足りない。


 火へ掛ける鍋が一つ足りない。


 人手も足りない。


 テオは物資庫へ入り、持ってきた荷の中から使えるものを選び始めた。


「この薬草箱は?」


「解熱用です」


 若い看護助手が答える。


「帳面には二箱とありますが、一箱しかありません」


「途中の宿駅で一つ開けました」


「誰が?」


「移送責任者です」


「名前は」


 看護助手は答えられなかった。


 テオの表情から、いつもの薄い笑みが消える。


「あとで、帳面を見せてもらえるかな」


「主任へ聞いてください」


「そうするよ」


 ルーウェンは薪を運び、エルナは水場と病室を往復した。


 セドは看護助手から布の畳み方を教えられ、最初は嫌そうな顔をしていたが、一度覚えると誰よりも速く積み上げた。


 リューリックは担架を運び、折れた寝台の脚を直し、入口で騒ぐ負傷兵を座らせた。


 剣へ触れるより、よほど忙しい。


 レイラは、腹部を負傷した女のそばへいた。


 老軍医が傷を確認している。


 白髪。


 伸びた髭。


 木の杖。


 ただし、目だけは驚くほど鋭い。


「刃物ではないな」


 老軍医が言った。


「荷車の部品が刺さったようです」


 レイラが答える。


「お前さんが見たのか」


「いいえ。御者から聞きました」


「なら、聞いた話と見た話を混ぜるな」


「申し訳ありません」


「謝る必要はない。次から分けろ」


 老軍医は女の腹部へ手を置いた。


「ここは」


 女が呻く。


「痛むか」


 小さく頷く。


「こっちは」


 さらに強く顔が歪む。


「主任」


「はい」


 セラがすぐに近づく。


「開く。湯と縫合具。あとは、この娘を外へ出せ」


 老軍医がレイラを顎で示した。


「私も手伝えます」


「腹を開くところを見たことは」


「ありません」


「なら邪魔だ」


「ですが」


「患者を助けたい顔はしている。結構だ。だが、助けたい顔と、助けられる手は別物だ」


 レイラは言葉を失った。


 老軍医はもう彼女を見ていない。


「廊下の熱病の子を見ていろ。起きたら水を一口ずつ。まとめて飲ませるな」


「……分かりました」


「返事は早いな。行け」


 レイラは部屋を出た。


 扉が閉まる直前、セラがこちらを一度見た。


 慰める顔ではない。


 ただ、任された場所へ行けという目だった。


 レイラは熱のある少年の寝台へ向かった。


 少年は目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。


 水差し。


 木の匙。


 濡れた布。


 椅子へ座る。


 剣も、王家の名も、金色の糸も役には立たない。


 少年が目を開けるまで、待つ。


 それだけだった。


 しばらくして、少年の瞼が動いた。


「水」


 掠れた声。


 レイラは匙へ少量だけ水を入れる。


「少しずつです」


「もっと」


「まず、これだけ」


「喉が」


「分かっています。でも、まとめて飲んではいけないそうです」


 少年は不満そうにした。


 それでも口を開く。


 一口。


 飲み込む。


 少し待つ。


 もう一口。


 その繰り返しだった。


 何度目かで、少年の呼吸が少しだけ落ち着いた。


「姉ちゃん」


「はい」


「ここ、どこ」


「リヴェン野戦第三病院です」


「死ぬ?」


 レイラは答えかけて、止まった。


 大丈夫。


 そう言いそうになった。


 だが、先ほどセラが言った。


 大丈夫かどうかは、これから決める。


「いま、治してもらっています」


 レイラは答えた。


「あなたが眠っている間も、皆が働いています」


「死なない?」


「私にも、まだ分かりません」


 少年の目が不安に揺れる。


 レイラは匙を置き、寝台の端へ手を載せた。


 触れはしない。


 ただ、そこに置く。


「でも、一人にはしません」


 少年はしばらくレイラの手を見ていた。


 やがて、目を閉じる。


 今度の呼吸は、先ほどより少し深かった。



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