第八十五部 百三人目を知る看護師は、何も知らない話 ① 日が沈みかけた野戦病院と、小さな頷き
リヴェン野戦第三病院が見えた時、日は西の丘へ半分沈みかけていた。
病院と呼ばれてはいるが、もともと医療のために建てられた建物ではない。
村の集会所。
穀物倉庫。
巡礼者のための古い宿舎。
それら三つを渡り廊下と板壁でつなぎ、負傷者を収容できるようにした建物だった。
屋根の高さも、窓の形も揃っていない。
石壁へ新しい木材を継ぎ足した場所があり、南側の窓には風を防ぐため油布が張られている。前庭には荷馬車が三台。うち一台は車輪が外れ、もう一台の荷台には血の染みた藁が残っていた。
入口の上には、白い布へ灰色の十字を縫い付けた旗が掲げられている。
風が吹くたび、旗の端が乾いた音を立てた。
「ここです」
リューリックが言った。
声は平静だったが、目だけは建物の細部を確かめている。
以前ここを訪れた時と、どこが変わったのか。
おそらく、無意識に比べているのだろう。
「第三病院」
テオが看板を見上げた。
「野戦病院という名前の割には、ずいぶん村の中にあるんだね」
「前線が動けば、野戦病院の位置も変わります」
リューリックは答えた。
「私どもが世話になった頃には、この辺りまで負傷者が運ばれておりました。現在は戦線そのものが遠ざかっておりますが、国境周辺の小競り合いや、街道で襲われた者は今もこちらへ送られております」
「平和になったわけではない」
「戦争の音が、少し遠くなっただけでございます」
レイラは荷車の中を見た。
意識を失った老人。
腹部を負傷した若い女。
熱に浮かされた少年。
片腕を吊った男。
鉄輪の痕を首へ残す幼い少女。
街道で拾った時より、呼吸が浅くなっている者がいる。
「入ります」
レイラが言った。
「レイラ殿下」
リューリックが低い声で呼び止める。
周囲には、井戸から水を運ぶ村人や、病院前へ藁を下ろす男たちがいた。
レイラは小さく頷いた。
「ここでは、マリアです」
「ご承知いただければ結構でございます」
リューリックは御者台から降り、病院の入口へ向かった。
戸を開ける前に、中から声が飛んできた。
「担架を二つ、外へ! 歩ける人は右の壁際へ寄ってください! 熱のある人と血が止まらない人を先に診ます!」
低く、よく通る声だった。
怒鳴ってはいない。
それでも、病院の前へいた者たちが一斉に動いた。
戸が開く。
黒い髪を後ろで簡単にまとめた女が出てきた。
白い看護服。
灰色の前掛け。
袖は肘までまくり上げられ、指先には薬草の汁が薄く染みている。
背は高い。
細身だが、立ち方に迷いがない。
記録板を左腕へ抱えたまま、女は荷車の中を一度見ただけで言った。
「五人ですね」
「御者を含めれば六人です」
リューリックが答える。
「御者は」
「肋部と左肩を負傷しております。意識はあります」
「では六人。腹部の女性と、意識のない老人を先に降ろしてください。熱のある子は、その次です」
女は荷車へ歩み寄った。
途中で、リューリックの顔を見る。
一歩。
足が止まった。
「……以前、レオンさんと一緒にいた方ですね」
レイラの胸が、強く打った。
リューリックは一瞬だけ沈黙した。
ほんの一瞬だった。
「覚えておられましたか」
「患者の付き添いまで、すべて忘れるわけではありません」
女は答えた。
それから、記録板を持ち直す。
「お久しぶりです。主任看護師のセラです」
「リューリックでございます。再びお世話になります」
「今回は、ご本人が患者ではないのですね」
「現時点では」
セラの眉が僅かに動いた。
「現時点では、という言い方をする人は、だいたい後で患者になります」
「肝に銘じます」
「前にも似たようなことを聞いた気がします」
「前回は、私ではなく同行者が主に申し上げていたかと」
「あの人は、聞いても守りませんでした」
「否定はいたしかねます」
セラは、そこで話を切った。
レオンについて尋ね続けることも、リューリックの事情を探ることもしない。
荷車の若い女が、小さく呻いたからだ。
「腹部の人を先に」
主任看護師の顔へ戻る。
「動かす時、腰を折らないでください。そちらの方、頭側をお願いします」
指されたのはレイラだった。
「私ですか」
「ほかにいますか」
「いえ」
「では、こちらへ」
王女でも、逃亡者でも、亡国の血を引く者でもない。
ただ、患者を運ぶ手の一つとして扱われる。
レイラは言われたとおりに荷台へ上がった。
若い女の肩と後頭部へ腕を入れる。
身体が熱い。
衣服の下で、呼吸のたびに腹部が震えている。
「ゆっくり」
セラが言った。
「一、二、三」
担架へ移す。
女が痛みに顔を歪めた。
レイラは思わず、
「大丈夫です」
と声を掛けた。
セラは女の傷を見たまま答える。
「大丈夫かどうかは、これから決めます」
冷たい言葉ではなかった。
根拠のない安心を与えない言葉だった。
「でも、ここまで来られました。いまは、それで十分です」
女の瞼が、僅かに動いた。
担架が病院内へ運ばれていく。
続いて老人。
熱のある少年。
片腕を吊った男。
御者。
最後に、幼い少女が残った。
少女は荷台の奥へ背を押し付け、近づく者すべてを見ていた。
首の鉄輪の痕を隠すように、両手で襟元を押さえている。
セラは荷台へ上がらなかった。
地面へ立ったまま、少女と同じ高さになるよう腰を落とす。
「歩けますか」
少女は答えない。
「触ってもいいですか」
答えない。
セラは急かさなかった。
記録板を地面へ置き、自分の両手を少女から見える位置へ出す。
「嫌なら、首を横へ振ってください」
少女は、しばらくセラを見ていた。
やがて、ほんの少しだけ首を横へ振った。
「分かりました。触りません」
セラは立ち上がる。
「自分で降りられますか」
少女は荷台の縁を見た。
高さがある。
足へ力を入れようとするが、身体が震えている。
レイラが一歩近づきかけた。
セラが手で止める。
それから、荷台の下へ木箱を置いた。
「ここへ足を載せれば、少し低くなります」
少女は迷った末、這うように荷台の端まで来た。
片足を木箱へ載せる。
もう片方。
地面へ降りた瞬間、膝が崩れた。
セラは抱き留めなかった。
少女が触れられることを拒んだからだ。
代わりに、床へ手をつきやすいよう毛布を広げた。
少女はその上へ膝をついた。
「立てなくても構いません」
セラが言う。
「このまま中へ入りましょう」
担架ではなく、毛布の両端を二人の看護助手が持つ。
少女は運ばれる直前、レイラの方を見た。
街道で交わした言葉を覚えているのかもしれない。
レイラは何も言わず、小さく頷いた。
少女も、ほんの僅かに頷いた。




