第八十四部 黒楡は、同じ場所を示さない話 Another Side:レオン/ニーナ/ガレス 黒楡の渡しと、もう同じではない選んだ側
ヴェルシャイン王国東部。
黒楡の渡しは、名前ほど立派な場所ではなかった。
川幅は広くない。
春先の雪解け水が増えた時だけ流れが速くなる、小さな国境河川。その両岸へ黒楡の木が根を張り、枝が水面を覆っている。
古い渡し板。
使われなくなった料金所。
崩れた厩。
川岸へ半分沈んだ小舟。
街道から外れているため、商人も旅人もほとんど通らない。
人を引き渡すには、都合のよい場所だった。
「静かすぎるね」
荷馬車の後ろから、ニーナが言った。
「静かな場所は嫌いか」
レオンが尋ねる。
「怪我人が黙っている時と、人がいるはずの場所が静かな時は嫌い」
「医療者らしい判断だ」
「患者は黙ってて」
「まだ何もしていない」
「する前に言ってる」
御者台のガレスは、二人の会話を聞き流しながら渡し場を見ていた。
頬の古傷が、僅かに引きつっている。
「馬を止める」
低い声だった。
「まだ渡し板の手前だぞ」
レオンが言う。
「だからだ」
ガレスは手綱を引いた。
馬が鼻を鳴らし、止まる。
荷台の隅では、両手を縛られた男が身体を強張らせた。
石小屋でレオンたちを襲い、ニーナに治療された男。
患者三号。
本人はその呼び方を嫌がっていたが、ニーナは変えなかった。
「どうしたの」
ニーナが御者台へ顔を出す。
「受け取りの馬がいない」
ガレスが答えた。
「馬?」
「王印を次へ運ぶなら、替え馬が必要だ。俺たちの馬車をそのまま使うにしても、護衛が先に見える」
「隠れてるんじゃない?」
「隠れる理由がない。契約どおりならな」
ガレスは、川岸の泥を見た。
車輪の跡。
馬の蹄。
人の足。
どれもある。
だが、渡し場へ入った跡に比べ、出ていった跡が少ない。
「ここへ来た連中は、まだいる」
レオンが言った。
「ああ」
「こちらへ出てこない」
「ああ」
「歓迎されていないらしい」
「お前は金貨千枚だ。歓迎はされる」
ガレスは、料金所の壊れた窓を見た。
「俺と娘は別だ」
「娘ではない」
ニーナが言う。
「その訂正、いま必要か」
「必要」
「医者か」
「医者じゃない。でも娘でもない」
「分かった」
ガレスは珍しく素直に訂正した。
「俺と治療者は別だ」
荷台の患者三号が、乾いた声で笑った。
「気付くのが遅い」
ガレスが振り返る。
「何を知っている」
「俺は末端だ。だが、回収場所の決まりくらいは知っている」
「話せ」
「遅れた荷は、中身だけ受け取る」
「中身?」
患者三号は、レオンを顎で示した。
「王印」
ニーナの顔が硬くなる。
「人でしょう」
「向こうの帳面では違う」
患者三号は言った。
「運び手が予定より減っている。経路も変えた。治療者まで増えた。そんな荷を、そのまま次へ送ると思うか」
「お前も処分されるな」
レオンが言った。
「分かっている」
「ずいぶん落ち着いている」
「もう一度、死にかけたからな」
患者三号はニーナを見た。
「こいつに傷を縫われて、少し頭が冷えた」
「縫ってない。止血しただけ」
「細かいな」
「治療の内容は大事」
ガレスが荷台へ降りた。
「鍵を出せ」
患者三号の顔が変わる。
「何の」
「レオンの足枷だ。お前が持っている」
「持っていない」
ガレスは男の上衣を探り、縫い目の内側から小さな鉄鍵を抜いた。
「あるじゃない」
ニーナが言った。
「預かっていただけだ」
「人の足に付けた鍵を?」
「仕事だった」
ガレスはレオンの前へしゃがむ。
腰の鎖。
足首の鉄輪。
これまでは逃亡を防ぐため、完全には外していなかった。
「外すのか」
レオンが尋ねる。
「勘違いするな」
ガレスは鍵を差し込んだ。
「ここでお前が動けなければ、俺も死ぬ」
「合理的だな」
「俺は最初から合理的だ」
「仲間になったわけではない?」
「金貨千枚を忘れたわけでもない」
「まだ言うの」
ニーナが呆れた声を出す。
鉄輪が開いた。
久しぶりに、レオンの両脚から鎖の重みが消える。
足首には赤黒い痕が残っていた。
ニーナがすぐに屈み込む。
「見せて」
「いま?」
「いま」
「敵が隠れているが」
「だから動く前に見るの」
「理屈としては正しい」
「なら黙って」
ニーナの指が足首へ触れる。
その時。
料金所の屋根から、矢が飛んだ。
ガレスがニーナの肩を掴み、荷台の陰へ引く。
矢は馬車の板へ刺さった。
「出てこい!」
川向こうから声がした。
灰色の外套を着た男たちが、黒楡の木の陰から現れる。
一人。
二人。
三人。
料金所から二人。
渡し板の下から一人。
少なくとも六人。
全員、弩か短剣を持っている。
川岸の茂みには、鉄格子を付けた小さな車が隠されていた。
人を運ぶための檻。
「王印を渡せ」
中央の男が言った。
「運び手と治療者は、そこで待て」
「待ったあとは?」
レオンが尋ねた。
「知る必要はない」
「便利な言葉だな」
「ロド・カナリ」
男が偽名を知っている。
レオンは荷台から降りた。
まだ少し痺れの残る脚へ力を入れる。
「俺を渡せば、この二人は帰すのか」
「三人だ」
男は、患者三号も数えた。
「では、三人を帰す?」
「質問が多い」
「答えがないからな」
男は弩を上げた。
「王印以外は、現地で処理する」
患者三号の顔から血の気が引いた。
ガレスは、驚かなかった。
予想していたのだろう。
ただし。
予想と、実際に聞くことは違う。
「契約書には」
ガレスが言った。
「引き渡し後に金貨千枚とあった」
「契約は変更された」
「誰の命令だ」
「お前が知る必要はない」
男は同じ言葉を使った。
ガレスは、しばらく黙っていた。
それから、背負っていた弩を下ろす。
中央の男が僅かに笑った。
「賢明だ」
「ああ」
ガレスは弩へ矢をつがえた。
「契約が変わったなら、俺も変える」
放つ。
矢は中央の男ではなく、その隣でニーナを狙っていた弩使いの肩へ刺さった。
叫び声。
同時に、レオンが馬車の側面を蹴る。
積まれていた薬箱が一つ、地面へ落ちた。
「ちょっと!」
ニーナが叫ぶ。
「借りる!」
「中身を壊したら治療費に足すから!」
「生きて帰ったら払う!」
「生きて帰るのは前提!」
レオンは薬箱の蓋を開け、中から布包みを掴んだ。
「これ、何だ」
「乾燥させた苦根!」
「投げていい?」
「目に入ると痛い!」
「よし」
「よくない!」
布包みを、料金所側へ投げる。
短剣が飛び、空中で布を裂いた。
細かな粉が広がる。
風下にいた二人が目と喉を押さえた。
「効いているぞ」
「薬だから!」
「用途が違う気がする」
「絶対に違う!」
ガレスが二本目の矢を放つ。
レオンは腰へ隠していた短い刃を抜き、馬車の陰から料金所へ走った。
脚は重い。
肩も完全ではない。
それでも、鎖がないだけで身体が違う。
一人目の腕を払い、壁へ押し付ける。
二人目の短剣を避けた時、脇腹へ痛みが走った。
動きが一瞬遅れる。
刃が頬を掠める。
「レオン!」
ニーナの声。
「少し!」
「あとで診る!」
「怒ってる?」
「かなり!」
それなら、生きて戻らなければならない。
レオンは相手の手首を取り、肘を逆へ捻った。
短剣が落ちる。
その背後で、患者三号が馬車から飛び降りた。
逃げる。
川沿いへ。
しかし灰色の外套の一人が、迷わず弩を向けた。
矢が背中へ刺さる。
患者三号が倒れた。
「味方だろう!」
ニーナが叫んだ。
「もう違う」
灰色の男が答える。
ニーナは倒れた男へ走ろうとする。
ガレスが腕を掴んだ。
「行くな!」
「患者!」
「撃たれる!」
「だから何!」
ニーナは腕を振り払った。
怖くないはずがない。
顔は青い。
それでも走る。
ガレスが舌打ちし、彼女を狙った敵へ弩を向けた。
「レオン!」
「分かっている!」
二人が同時に動いた。
レオンは川側から。
ガレスは馬車側から。
ニーナまでの射線を塞ぐ。
ガレスの矢が一人の脚へ刺さり、レオンがもう一人へ体当たりした。
ニーナは患者三号のそばへ膝をつく。
背中の矢。
浅くはない。
呼吸も弱い。
「動かないで」
男が苦く笑った。
「今度は、患者四号か」
「三号のまま」
「番号を増やさないのか」
「同じ人だから」
ニーナは矢の周囲へ布を当てた。
「名前は」
「いま訊くのか」
「番号で死にたい?」
男は息を詰まらせた。
それから、掠れた声で答える。
「ラウル」
「分かった。ラウル、眠らないで」
戦場の端で。
ようやく、一人の男へ名前が戻った。
ガレスはその声を聞いた。
ほんの一瞬だけ、顔を歪める。
だが、すぐに正面へ向き直った。
「あと三人!」
「二人だ!」
レオンが叫ぶ。
「一人は逃げた!」
「逃がすな!」
「仲間になってきたな!」
「黙れ!」
「そこだけニーナと合うのか!」
灰色の外套の最後の一人が、鉄格子の車へ走った。
荷台へ置かれていた油壺を倒す。
証拠ごと燃やすつもりだ。
レオンが追う。
だが、脚がもつれた。
身体が前へ倒れかける。
その腕を、ガレスが掴んだ。
一瞬。
二人の目が合う。
「立て」
ガレスが言った。
「患者一号」
「お前が言うのか」
「早くしろ」
レオンは笑い、足へ力を戻した。
二人で鉄格子の車へ向かう。
背後では、ニーナがラウルの名を呼び続けている。
黒楡の枝が、風に鳴った。
同じ名を持つ場所は、大陸の各地にある。
だが。
この渡しで三人が選んだ側だけは。
もう、同じではなかった。
──第八十四部 了




