第八十四部 黒楡は、同じ場所を示さない話 ① 道らしさを失う塩街道と、正直な傷
古い塩街道は、オーランド民主連合国の東端へ近づくにつれ、少しずつ道らしさを失っていった。
石畳はところどころ剝がれ、雨水の通った溝へ濡れた落ち葉が詰まっている。街道の両側には背の低い雑木林が続き、その向こうに見える畑も、港周辺の豊かな土地に比べればずいぶん痩せていた。
この先はリヴェン伯国。
大きな軍隊も、豊かな鉱山も持たない、小さな国だった。
オーランドから東へ向かう荷車が通り、ヴェルシャイン王国から西へ逃れる者が通り、戦争が始まれば両側から負傷者が流れ込む。
誰かが地図へ線を引くたび、その線の上へ置かれてしまう国。
レイラは、泥へ半分埋まった境界石を見つめた。
表面に刻まれていたはずの国名は、長い年月と荷車の接触で削れている。オーランド側へ向いた面には商人の落書きがあり、リヴェン側へ向いた面には、誰かが小さな祈りの印を刻んでいた。
「ありました」
街道脇へ屈み込んでいたセドが言った。
少年の指先には、黒く焦げた木片がある。
もともとは荷札だったらしい。穴の開いた端に、切れた青い糸が残っている。
木片の中央には、枝を左右へ広げた木の印。
黒楡。
レイラたちが追っていた印と同じものだった。
「こちらにも」
少し離れた場所で、エルナが境界石の裏を示した。
石の陰へ、同じ木の印が浅く刻まれている。
リューリックが周囲へ視線を走らせた。
「足跡はございます。しかし、新しいものではありません」
「どのくらい前ですか」
「雨が二度は通っております。早くても十日ほど前でしょう」
十日。
レイラは、胸の内側へ生まれかけた期待を、表情へ出さないように押さえた。
黒楡。
レオンが運ばれた可能性のある場所。
そう聞いた時から、知らないうちに距離を縮めて考えていた。
この街道を進めば。
次の町へ着けば。
もしかすると、数日前に兄が通った痕跡を見つけられるのではないか。
そんな期待だった。
「テオ」
レイラが呼ぶと、少し後ろで帳面を開いていた青年が顔を上げた。
「僕も、ちょうど同じことを考えていた」
「まだ、何も申し上げていません」
「顔に出ていたよ」
「そんなに分かりやすいでしょうか」
「レイラ殿下は、隠そうとしている時ほど分かりやすい」
テオはいつもの薄い笑みを浮かべたまま、境界石のそばへ歩いてきた。
手にしているのは、海燕号の焦げた帳面から写した記号と、白石河港で押収した荷札の控えだった。
紙を境界石の上へ置き、三つの印を並べる。
海燕号。
白石河港。
古塩街道。
すべてに黒楡の印がある。
だが、書かれている土地は違った。
「海燕号の荷は、オーランド西岸へ入った」
テオが言った。
「白石河港は、ここから北西へかなり離れている。そして、この荷札は古塩街道の東端で見つかった」
「同じ者たちが運んだのでは」
「その可能性はある。ただし、同じ場所を示しているとは考えにくい」
テオは、今度は地図を開いた。
古い街道、港、川、国境線。
黒楡の印が確認された場所へ、小さな石を置いていく。
西岸の港。
内陸の倉庫。
白石河港。
古塩街道。
そして、商人から届いた伝聞にあった、ヴェルシャイン王国東部の黒楡の渡し。
石は、大陸西部から中央部へ長く散らばった。
「同じ日に移動できる距離ではないね」
ルーウェンが地図を覗き込んだ。
「エルフでも無理だ」
「人間なら、なおさらです」
リューリックが答える。
テオは、木の印を指先でなぞった。
「黒楡は、地名である場合もある。黒楡の木がある渡し、宿駅、集落。珍しい名ではないからね」
「では、偶然でしょうか」
「一部は偶然だろう。ただ、これだけ同じ荷の流れに現れるなら、もう一つの意味がある」
セドが顔を上げた。
「合図?」
「そうだね」
テオは頷いた。
「荷を受け取る場所。帳簿を書き換える場所。運び手を替える場所。あるいは、余計な人間を処分する場所」
最後の言葉だけ、声が少し低くなった。
「同じ名前を、遠く離れた複数の中継所へ付ける。そうすれば、紙を一枚奪われても、どの黒楡を指しているのか分からない」
「では」
レイラは、地図の東側を見た。
「兄様が向かっている黒楡と、私たちが見つけた黒楡は」
「別の場所だと思う」
テオは曖昧に慰めなかった。
「同じ網の上にはいる。でも、すぐ近くではない」
レイラは地図を見たまま、しばらく答えなかった。
ヴェルシャイン王国。
リヴェン伯国。
オーランド。
国境を越え、街道を越え、兄はさらに東へ運ばれている。
自分は西側から、その影を追っている。
近づいたと思うたび、地図が間へ入る。
「申し訳ございません」
リューリックが言った。
「なぜ、あなたが謝るのですか」
「私が、黒楡の名へ期待を持たせる申し上げ方をいたしました」
「私も、勝手に近いと思っただけです」
「しかし」
「リューリック」
レイラは彼を見た。
「兄様が生きている可能性まで、遠くなったわけではありません」
自分へ言い聞かせる意味もあった。
同じ場所ではない。
それだけだ。
兄が生きて東へ向かっている可能性は、まだ消えていない。
「それに」
レイラは、黒楡の木片を拾い上げた。
「同じ印を使う者が、これだけ広い範囲で人や荷を動かしている。それが分かったことには、意味があります」
テオが少しだけ目を細めた。
「その通りだ」
「兄様だけではありません」
レイラは言った。
「この道を使って運ばれた人が、ほかにもいるはずです」
その時。
街道の東側から、馬の荒い息遣いが聞こえた。
リューリックがすぐに手を上げる。
全員が道の端へ寄った。
木々の間から現れたのは、一頭立ての小さな荷車だった。
馬は汗に濡れ、片側の手綱が切れかかっている。御者台へ座っていた男は、身体を縄で固定していた。そうしなければ、もう姿勢を保てないのだろう。
荷台には、布を掛けられた人影が五つ。
「止まってください!」
レイラが声を掛けた。
御者は顔を上げた。
目だけが大きく見えるほど、頬が痩せている。
「医者は」
男は、挨拶より先に尋ねた。
「この先に、医者はいるか」
馬車が止まる。
止まった瞬間、御者の身体が横へ傾いた。
リューリックが駆け寄り、地面へ落ちる前に受け止める。
「負傷しております」
「俺は、あとでいい」
男は掠れた声で言った。
「荷台を」
レイラとルーウェンが荷台の布を外した。
老人。
若い女。
十歳ほどの少年。
片腕を布で吊った男。
そして、まだ幼い少女。
全員が怪我をしていた。
若い女の腹部には、血の染みた布が巻かれている。老人は意識がなく、少年は熱に浮かされていた。
少女だけが目を開けていた。
レイラを見た途端、荷台の奥へ身体を縮める。
耳が、わずかに尖っていた。
人間とエルフの混血。
首には、外されたばかりらしい鉄輪の痕が残っている。
「どこから来たのですか」
レイラが尋ねた。
御者は、リヴェン側の森を指した。
「西の宿駅だ。昨日の夜、襲われた」
「兵士ですか」
「旗はなかった。金も取らなかった」
男は呼吸を整えようとした。
「紙を探していた。名前の書いた紙だ。若い奴を一人、連れていった。エルフの女だった」
テオの表情から、笑みが消えた。
「名簿ですか」
「分からない。宿の主人が持っていた。逃げてきた者の名前を、書いていたらしい」
黒楡。
帰還者。
名簿。
カロ・ディーノ。
まだ一つにはつながらない。
だが、同じ形の影が見える。
少女が、荷台の奥で震えていた。
レイラは、すぐには近づかなかった。
しゃがみ込み、少女と同じ高さへ視線を下げる。
「触りません」
先に言った。
「ここにいる人を、医者のところへ連れていきます」
少女の目が、レイラの顔から白い羽根の隠された胸元へ移る。
それから、ほんの少しだけ頷いた。
「リューリック」
レイラが呼んだ。
「この近くに、治療できる場所はありますか」
リューリックは、迷わず答えた。
「ございます」
その声が、いつもより僅かに低かった。
「リヴェン野戦第三病院。以前、殿下と私が世話になった場所です」
レイラは顔を上げた。
「兄様が?」
「はい。ただし、現在の位置からは街道を南東へ進む必要がございます」
「どれくらいですか」
「この荷車の状態であれば、日暮れ前に着けるかどうか」
テオが地図を畳んだ。
「黒楡の印を追うなら、北東だ」
「はい」
「病院は南東」
「そうですね」
兄を追う方向とは、少し外れる。
ほんの少し。
だが、その一日の遅れが、いつか取り返せない差になるかもしれない。
レイラは荷台を見た。
意識のない老人。
血を流す女。
熱に震える少年。
鉄輪の痕を持つ少女。
選ぶのに、長い時間は必要なかった。
「病院へ向かいます」
リューリックが一度、目を伏せた。
「承知いたしました」
「兄様なら、そうすると思います」
「はい」
「ですが」
レイラは少女を見た。
「兄様がそうするからではありません。私が、そうしたいのです」
ルーウェンが荷車の車輪を確認する。
エルナは水袋を出し、テオは荷を軽くする順番を決め始める。
セドは馬の口元へ水を運んだ。
全員が動いた。
誰も、選択へ異議を唱えなかった。
黒楡は、同じ場所を示さなかった。
兄へ続く近道でもなかった。
けれど。
傷ついた者がいる場所だけは、地図よりも正直だった。




