第八十三部 守りたい相手は、ひとりではない話 ④ 橋の名を言わなかった男と、患者三号として乗せた場所
縛られた男は、最後まで橋の名を言わなかった。
だが。
ガレスが男の外套を調べると、内側から黒い木札が見つかった。
片面には、青い二重線。
反対側には、黒い楡の葉。
「黒楡の渡し」
ガレスが言った。
「知っているの?」
ニーナが尋ねる。
「国境兵の頃に、一度だけ使った。ヴェルシャイン側の沢を渡り、帝国へ入る密輸路だ」
「橋ではない?」
「正式には渡し場だ。だが、渇水期には木板を掛ける」
「次の橋」
レオンが木札を見る。
「そこで、俺を回収する」
「行くのか」
ガレスが尋ねる。
「行けば、待ち伏せされている」
「行かなければ」
「追手が増える」
レオンは考えた。
黒楡の渡し。
敵がいる。
回収役もいる。
同時に。
敵の流通網へ触れられる場所でもある。
「近づく」
レオンが言った。
「正面からは入らない」
「何をする」
「先に見る。人数。馬。荷車。逃げ道」
「武器もない」
「お前が持っている」
「渡すとは言っていない」
「患者一号」
ニーナが言う。
「何だ」
「協力して」
「簡単に言うな」
「娘さんへ帰りたいんでしょう」
ガレスは。
言葉を止めた。
「ここで逃げても」
ニーナが続ける。
「追手は来る。レオンを引き渡しても、殺されるかもしれない。だったら、敵が何をしているか調べて、生きて帰る道を作る」
「町医者の娘が、随分大きな話をする」
「患者が多いから」
「関係あるか」
「全部、生きて帰す話でしょう」
ガレスは。
ニーナを見た。
次に。
レオンを見る。
「条件がある」
「何だ」
「俺の娘へ、金を届けろ」
「俺が死んだ場合?」
「そうだ」
「いくらある」
「革袋に金貨九枚。銀貨が三十七。足りないが」
「分かった」
レオンは答えた。
「俺が生きて、お前が死んだ場合は届ける」
「逆なら」
「ニーナをリンデンへ戻せ」
ガレスが。
ニーナを見る。
「本人は戻らないと言いそうだ」
「言うね」
ニーナが即答した。
「なら、無理にでも戻せ」
「患者の移動は、治療者が決める」
「お前が患者だ」
「今は違う」
「腕を切られている」
「浅い」
「少しじゃない」
レオンとガレスの声が。
同時に重なった。
ニーナが、二人を見る。
「そこだけ、仲良くならないで」
「正しいからな」
ガレスが言う。
「同感だ」
レオンも答える。
「腹が立つ」
ガレスは。
小さく笑った。
「それでいい」
◇
三人と。
縛られた患者三号を乗せ。
馬車は再び動き出した。
逃げた襲撃者が仲間を呼ぶ前に。
石小屋から離れる。
黒楡の渡しへ向かう道を。
そのまま使うことはしない。
ガレスの知る国境兵の旧巡回路へ入り、上流から渡し場を確認する。
馬車の中。
ニーナはレオンの向かい側へ座っていた。
先ほどまでより。
ほんの少し。
距離が近い。
膝が触れるほどではない。
けれど。
揺れた時に、すぐ手が届く。
そのくらい。
「ニーナ」
レオンが呼ぶ。
「何」
「腕は」
「少し」
「少しじゃなくて」
「中より下」
「痛みが増えたら言え」
「分かった」
「返事」
「実行」
ニーナは。
少し笑った。
「覚えたね」
「お前のおかげで」
「ほかの女の人たちのおかげじゃなくて?」
「それも少し」
ニーナの足が。
レオンの脛へ入る。
「痛い」
「生きてる」
「いつまで続ける」
「当分」
御者台から。
ガレスの声が聞こえた。
「俺にも一つ確認させろ」
「何だ」
レオンが答える。
「カミラという女には、殴られないのか」
「殴られる」
「ニーナより?」
「種類が違う」
「どう違う」
「カミラは、説教のあとに殴る。ニーナは、殴ってから説教する」
「誰が先に殴ってるの!」
ニーナが叫ぶ。
「今日だけで二度」
「レオンが余計なことを言うから!」
「やはり、金貨千枚より面倒だ」
ガレスが呟く。
患者三号が。
壁際で理解できない顔をしていた。
それを見て。
ニーナが。
また少し笑った。
レオンも笑う。
カミラの名が出れば。
ニーナの胸は、まだ痛む。
それでも。
痛むからといって。
レオンのそばから離れたいとは思わなかった。
カミラには。
カミラの道がある。
自分には。
自分の近さがある。
傷を見て。
嘘を見抜き。
余計な言葉へ怒り。
必要なら殴る。
そして。
生きて戻るまで、離さない。
それが。
ニーナの選んだ場所だった。




