第八十三部 守りたい相手は、ひとりではない話 ① 石塚の前で足を止めたセドと、追いつくべき理由
古い塩道へ入ってから、二刻ほど進んだ頃だった。
先頭を歩いていたセドが、道の脇にある石塚の前で足を止めた。
旅人が安全を願って石を積んだものではない。
高さは膝ほど。
崩れないよう、平たい石だけを選んで積んである。その一番上へ、白い布が細く結び付けられていた。
風が吹いても、布はほとんど揺れない。
水へ浸し、固く絞ってある。
「商人の合図だね」
テオが馬から降りた。
「あなたの?」
レイラが尋ねる。
「正確には、僕の商会と取引のある行商人が使うものだ。急ぎの返事がある時は、白布を濡らして石へ結ぶ」
「どうして濡らすの?」
「乾くまでの時間で、置かれてからどれくらい経ったか分かる」
テオは布へ触れた。
まだ湿っている。
「一刻以内だ」
石塚の下には、小さな筒が隠されていた。
蝋で口を閉じた、商人用の伝言筒。
テオが開く。
中の紙は、短かった。
リンデン診療所へ、深手の男一名。
荷馬車の荷台は施錠。
治療後、診療所の娘が薬箱を持って同乗。
馬車は北東の古道へ。
後方から灰色の外套三名。距離を置いて追跡。
レイラが、テオの手元へ顔を近づけた。
「診療所の娘?」
リューリックの表情が変わる。
「ニーナ殿でございましょう」
「知っている人?」
「殿下が以前、治療を受けた診療所を継いでいる女性でございます」
「正式なお医者様ではないと言っていた人?」
「はい。父君はすでに亡くなられ、現在はニーナ殿が診療所を支えております」
「兄様とは、どのくらい親しいの?」
問い掛けたあと。
レイラは、リューリックの顔を見た。
家臣の顔だった。
ただし。
答え方を選んでいる時の顔でもある。
「殿下が」
リューリックは、慎重に言った。
「複数回、直接叱られる程度には」
「それは親しいの?」
「殿下にとっては、かなり」
「もっと分かりやすく言って」
「殿下が再訪を楽しみにする方でございます」
「兄様が?」
「はい」
レイラは、少しだけ目を細めた。
「女性?」
「女性でございます」
「若い?」
「殿下より四歳ほど年下であったかと」
「兄様」
低い声だった。
「捕まっている途中でも、女性を増やしているの?」
「以前からのご縁でございます」
「何の説明にもなっていない」
テオが、伝言紙を畳みながら言った。
「ロドなら、危険な状況で医療者を味方へ付けることはあるだろうね」
「意図的に?」
「本人にその自覚はないと思う」
「それが一番悪い」
レイラは眉を寄せた。
しかし。
胸の奥へ生まれたのは、怒りだけではなかった。
兄は一人ではない。
縛られているかもしれない。
怪我をしているかもしれない。
それでも。
兄を知っている者が、同じ馬車へ乗った。
事情を知らずに巻き込まれたのか。
自ら乗り込んだのか。
伝言だけでは分からない。
「そのニーナという人は」
レイラが尋ねた。
「兄様が危険だと知ったら、逃げる?」
リューリックは、すぐに答えなかった。
リンデン診療所。
走り回る娘。
傷を隠すレオンへ怒鳴り。
患者のためなら金も身分も後回しにする。
そして。
一緒に南へ行くはずだった朝に、診療所へ残った女。
「おそらく」
リューリックは答えた。
「逃げろと言われるほど、残る方かと」
レイラは。
小さく息を吐いた。
「兄様の周り、そういう人ばかりね」
「殿下が、そのような方へ惹かれる傾向がございます」
「褒めている?」
「事実でございます」
「便利な言葉ね」
テオが、紙の最後の一行を指でなぞった。
「問題は、こちらだ」
灰色の外套三名。
距離を置いて追跡。
「リンデンから?」
「行商人が確認したのは、村を出たあとだね。三人だけとは限らない」
「兄様たちは、気付いている?」
「分からない」
「急ぎましょう」
レイラが馬へ乗る。
「灰橋へ向かわせる偽の荷馬車は?」
「すでに出した」
テオが答えた。
「敵の見張りが偽装へ食い付けば、こちらへの注意は少し減る。ただし、リンデンから追っている者は別だ」
「追いつける?」
「こちらは馬。向こうは馬車だ」
「なら」
「道が同じならね」
テオは地図を開いた。
「古道は、この先で三つへ分かれる。北は旧砦。北東は国境沿いの橋。東は地図へ載っていない伐採道」
「敵なら、どれを使う?」
「敵に追われていると分かった者なら」
リューリックが答える。
「どれも使わず、途中で道を外す可能性がございます」
「兄様なら?」
「足跡を消せる水場を探します」
セドが、顔を上げた。
「沢」
「あるの?」
レイラが尋ねる。
「東の道。昔の伐採道に、小さい沢がある」
「分かる?」
「行ったことはない。でも、合図で聞いた」
少年は、道の先を見る。
「青い糸が二本なら、沢へ入る。先生の人が逃げる時に使う」
レイラは頷いた。
「東へ行く」
「殿下」
リューリックが呼ぶ。
「何?」
「先行いたします」
「一人で?」
「テオ殿とセド殿を連れます。殿下はエルナ殿、ルーウェン殿と後方を」
「私も行く」
「敵が待っている可能性がございます」
「兄様がいる可能性もある」
「だからこそでございます」
二人の視線がぶつかる。
以前なら。
レイラは、そのまま先へ出たかもしれない。
だが。
兄一人を助けるため。
周りを危険へ押し込むわけにはいかない。
「……分かった」
レイラは答えた。
「ただし、見つけたら、すぐ合図を」
「承知いたしました」
「勝手に兄様だけ連れて先へ行かないで」
「その場合、ニーナ殿も同行なさる可能性が高いかと」
「その人にも会う」
「何をお話しに?」
「兄様との関係を聞く」
「救出後になさってください」
「当然よ」
レイラは馬の手綱を握り直した。
「生きていれば、まとめて問い詰められる」
そのために。
まず。
追いつかなければならない。




