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第八十二部 近すぎるものは、地図に書けない話 Another Side:レオン/ニーナ ③ 腕の中へ落ちてきた体温と、同じ側に立つ日

 外の異変は、馬が小さな獣へ驚いただけだった。


 ニーナが馬を落ち着かせ。


 ガレスが、横になったまま周囲の音を確認する。


 追手の気配はない。


 少なくとも。


 いまのところは。


 夜が深くなる前に、レオンは小屋の外へ出た。


 足首の鎖は。


 ガレスが木の柱へ長い縄でつなぎ直している。


 逃げられないわけではない。


 ただし。


 逃げれば音が出る。


 レオンは沢の水で顔を洗い、石へ腰を下ろした。


 少し遅れて。


 ニーナも出てきた。


 上着の紐は結び直されている。


 外套も。


 胸元までしっかり閉じていた。


「怒ってる?」


 レオンが尋ねる。


「怒ってる」


「事故だった」


「最後の言葉は事故じゃない」


「それは認める」


「反省してる?」


「かなり」


「本当に?」


「胸が痛い」


「殴ったところ?」


「ああ」


「じゃあ反省してる」


「判定方法が乱暴だ」


 ニーナは。


 レオンから少し離れた石へ座った。


 沢の水音。


 木々の隙間から見える細い月。


 小屋の中では、ガレスが眠っている。


 さっきまでの騒ぎが。


 急に遠くなった。


「怖かった?」


 レオンが訊く。


「何が」


「落ちた時」


「少し」


「怪我がなくてよかった」


「そういうところ」


「何だ」


「急に真面目になる」


「悪いか?」


「悪くないから困る」


 ニーナは膝を抱えた。


「私、まだ混乱してる」


「王子のこと?」


「それも」


「カミラのこと?」


「それも」


「さっきのこと?」


「それも!」


「多いな」


「誰のせい」


「俺が多い」


「分かってるなら、少し静かにして」


「はい」


 レオンは。


 しばらく黙った。


 本当に黙ったので。


 今度はニーナが、横目で見る。


「何」


「何も」


「言いたそう」


「静かにしろと言われた」


「いまはいい」


「難しい管理指示だな」


「言って」


 レオンは、沢へ視線を向けた。


「カミラを追っていることは、変わらない」


「うん」


「助けたい」


「うん」


「でも」


 一度。


 言葉が止まる。


 さっき。


 ニーナが腕の中へ落ちてきた時。


 怪我をさせたくないと思った。


 頭を打たせたくない。


 離さなければ。


 そう考えた。


 それだけのはずだった。


 だが。


 怪我がないと分かったあとも。


 ほんの一呼吸。


 腕を緩めたくないと思った。


 カミラを追うために町を出た男が。


 別の女を腕へ抱き。


 離したくないと思った。


 それは。


 自分でも認めたくないほど。


 都合がよい。


「でも?」


 ニーナが尋ねる。


「お前が来てくれて、嬉しい」


「前にも聞いた」


「さっきは」


「何」


「離したくないと思った」


 ニーナが固まる。


「一瞬だけ」


「付け足さなくていい!」


「正確さは大切だ」


「そこは曖昧でいい!」


「そうなのか」


「そう!」


 声を上げたあと。


 ニーナは、自分の顔を膝へ伏せた。


 耳まで赤い。


「ずるい」


「知っている」


「カミラって人がいるのに」


「ああ」


「私にも、そんなこと言う」


「ああ」


「最低」


「ああ」


 ニーナは。


 膝へ顔を伏せたまま。


 少しだけ笑った。


「否定しないんだ」


「否定できない」


「本当に、ずるいね」


「悪かった」


「でも」


 ニーナは顔を上げた。


「嘘よりは、いい」


「怒らない?」


「怒ってる」


「どちらだ」


「怒ってるけど」


 少しだけ、言葉を探す。


「少し嬉しい」


 レオンの胸が。


 今度は殴られていない場所まで痛くなった。


「それを言うのは」


「何」


「かなり反則だ」


「誰がずるいって?」


「お互いに?」


「一緒にしないで」


「では、俺だけ」


「そう」


 ニーナは。


 ほんの少しだけ、レオンとの距離を詰めた。


 肩が触れるほどではない。


 手を伸ばせば届く。


 そのくらい。


「王子でも」


 ニーナが言う。


「賞金首でも」


「ああ」


「いままでのレオンが、全部嘘だったわけじゃないんでしょう」


「そこは嘘ではない」


「診療所を手伝ったことも」


「本当だ」


「怪我を隠したことも」


「本当だ」


「女の人に惚れやすいのも」


「本当だ」


「そこは嘘でもよかった」


「残念ながら」


「本当に残念」


 ニーナは小さく息を吐く。


「でも」


 続ける。


「私が知ってるレオンも、ちゃんといるなら、今はそれでいい」


「今は?」


「全部聞くまでは」


「長いぞ」


「馬車は、しばらく止まらないでしょう」


「そうだな」


「少しずつ話して」


「ああ」


「勝手に、知らない方がいいって決めないで」


「努力する」


「実行」


「分かった」


 小屋の中から。


 ガレスの声がした。


「静かに話すなら、聞こえないところへ行け」


 二人が同時に振り返る。


「起きてたの?」


 ニーナが尋ねる。


「途中から」


「どこから」


「離したくない」


 ニーナの顔が。


 再び真っ赤になる。


「寝て!」


「熱が下がらない」


「いま診る!」


「患者一号は便利だな」


 ガレスの声に。


 初めて明確な笑いが混じっていた。


 ニーナが小屋へ戻る。


 その後ろ姿を見ながら。


 レオンは、胸元へ手を置いた。


 カミラの手紙。


 生きて戻ってこい。


 ニーナの空の硝子管。


 生きて戻った時に、中身を入れる。


 カミラは。


 自分が追い掛けた女。


 ニーナは。


 自分が戻りたくなる女。


 その二つは。


 簡単には一つへ選べない。


 それでも。


 腕の中へ落ちてきた体温だけは。


 もう知らなかったことにはできなかった。



 ◇


 夜半。


 小屋の外で。


 乾いた枝が一本、折れた。


 レオンは目を開けた。


 暖炉の火は、ほとんど消えている。


 ニーナは壁際で眠り。


 ガレスも横になっている。


 だが。


 次の瞬間。


 ガレスの目も開いた。


 二人は。


 声を出さない。


 もう一度。


 枝が折れる。


 今度は、小屋の裏。


 獣ではない。


 獣なら。


 同じ間隔で足を置かない。


 ガレスが、ゆっくり身体を起こす。


 熱で顔色は悪い。


 それでも。


 短剣を取る。


 レオンも縄を確認した。


 足首の鎖。


 柱へつながれた長い縄。


 ガレスが、声を出さずに短剣を投げる。


 レオンが受け取った。


 ニーナが、気配で目を覚ます。


「何」


 小さな声。


 レオンが人差し指を唇へ当てる。


 ニーナは、すぐに黙った。


 ガレスが。


 小屋の入口を指す。


 次に裏口。


 少なくとも二人。


 外にいる。


 あるいは。


 それ以上。


 窓の隙間から。


 灰色の外套が、一瞬だけ見えた。


 レオンは。


 短剣の柄を握る。


 ガレスが囁いた。


「縄を切る」


「いいのか」


「逃げられるより、ここで殺される方が困る」


「まだ賞金を諦めていない?」


「少しは」


「正直だな」


「お前ほどではない」


 ガレスの短剣が。


 レオンの足首を縛る縄へ入る。


 一本。


 二本。


 縄が切れる。


 鎖は残った。


 だが。


 動ける。


 レオンは、ニーナを見る。


「俺の後ろへ」


「ガレスは」


「俺の横だ」


 ガレスが答えた。


 リンデンを出た時。


 男は、レオンを商品と呼んだ。


 レオンは、男を誘拐犯としか見ていなかった。


 ニーナは、二人を患者と呼んだ。


 いま。


 三人は。


 一つの小屋で。


 同じ足音を聞いている。


 入口の前で。


 誰かが止まった。


 低い声がする。


「王印を確認した」


 別の声。


「治療者は、生かす必要があるか」


「指示はない」


「では、王印だけでいい」


 レオンの顔から。


 すべての軽さが消えた。


 ニーナへ向けられる言葉だけは。


 聞き流せない。


 ガレスも短剣を構える。


「王子」


「何だ」


「娘を守れ」


「お前もだ」


「命令するな」


「頼んだ」


 ガレスは。


 ほんの一瞬だけ黙った。


「ああ」


 小屋の扉へ。


 外から手が掛かった。


 三人の関係は。


 まだ名前を付けられない。


 賞金首。


 賞金首狩り。


 町医者の娘。


 敵。


 患者。


 友人。


 それより少し近い何か。


 地図へは書けない。


 帳面にも。


 まだ書けない。


 だが。


 扉が開けば。


 三人は、同じ側に立つ。



 ──第八十二部 了


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